ぬらさん
深まる秋は、変化の季節。
この日、未央はいつも通りパソコンの前に座ってメールチェックを行っていた。
「えーっと……」
十通ほどのメールが届いていて、いずれも編集部からの定期連絡や連載雑誌・ウェブサイトのメルマガ、一見していつもと同じ内容に見える。
だが、ウェブ漫画サイトの編集部から届いたメールを開くと、思わず「嘘っ」と声が漏れた。
『どうした、未央』
珈琲カップを両手に持った白狐が、未央の背後からすっと近づく。
未央は愕然とし、その瞳には悲哀の色が滲んでいた。
「えええ……まだ五回なのに」
メールには、ウェブで公開しているBL漫画のアクセス数があまりよくないという内容が書かれていた。
そして、この状態が続けば、残り五回で終了せざるを得ないとも。
メールの最後にある「今後の健闘をお祈りします」という一言が虚しい。
『ほぉ、これはなかなか厳しい判断だな。あれはこれからがおもしろいのに』
すでに八回までは描き上げている。全話十回で締めるとなると、強制的に話を終わらせることになり、すでに描き終わった部分も大幅に改変しなくてはいけなくなる。
しかし未央としては、ストーリーを変えることや描き直すことよりも「打ち切りの可能性」という文字にダメージを受けていた。
「えええ……うあああ……」
モニターを見つめたまま、意味のない擬音だけが零れ続ける。重苦しいものが胸に詰まり、息を吸っても吸っても体が重く感じていた。
『ふむ。「新・閨戦国時代☆抱き合いたい男たち」は、やると見せかけてやらぬもどかしさが売りだったが……もっと早く閨に持ち込むべきだったか?』
顎に手を当て、白狐も構成に悩む。
「それは、そうかもしれませんね。ウェブは気兼ねなく見られる分、激しめの描写やストーリーが受ける傾向もあるし、でも主従関係になって絆もないのにいきなり夜伽を強制したら、メインヒーローに対する風当たりが強くなるって思ったんですけれど」
『しかも対複数となれば、個々の関係性が希薄になってしまっては盛り上がりに欠ける。しょせんは体目当てだったのか、そんな印象を与えてはいかん』
「ですよね。単行本一巻につき四話構成で、冒頭のほかに一巻につき一カ所盛り上がりを入れるって考えると、拉致された小姓を危険も顧みず助けに行くところはよかったと思うんですけれど……そのまま敵陣でやっちゃえばよかったんでしょうか?」
未央は正座の状態で、顔を両手で覆い、二つ折りになって悩み苦しむ。
白狐の淹れてきた珈琲が、テーブルに置かれたままゆるやかな湯気を上げていた。
『敵陣で睦み合うなど斬られるぞ。武士の恥だ』
「だったら何が正解だったんですかぁぁぁ!」
創作に正解などない。それでも打ち切りを目の前にすると、何が間違っていたのかと不毛な考えがぐるぐると頭の中を駆け巡る。
「滝つぼに落ちて助かったときに、着物がはだけて裸体を晒せばよかったの?」
『衣は脱がすものだ。いきなり全裸はそそらぬ』
あぁでもない、こうでもない、そんなやりとりを繰り返し、未央は盛大なため息をついて畳に寝転がった。
「はぁぁぁぁ~」
仰向けになって腕で目を覆い、絶望に打ちひしがれる。そんな未央を見て白狐も小さなため息を吐いた。
『ほら。ほかにもメールが来ておるのだろう』
未央はのろのろと起き上がり、再びパソコンの前の座椅子に座る。
その細い背中はいつも以上に頼りなく、頭はやや項垂れたままだった。
「あ、小鳥遊さん」
定期連絡の中には『Boysアガピ・ム』の編集部から送られたメールもあった。
用件は、先週提出した原稿についての返信。添付されていた圧縮ファイルをクリックする、こんなときに限ってパソコンの動きが悪い。
「あぁ~、もうフリーズしたかも……」
嫌なことは、芋づる式かつ雪だるま式になることが多い。ただでさえショックな報せが寄越されたのに、パソコンまでがその動きを停止する。
白狐は顔を顰め、半泣きの未央に向かって檄を飛ばす。
『もっとシャキッとしたらどうだ。顔が情けないぞ、未央』
意味のない呻き声を上げながらもどうにか原稿を確認し、修正したデータを小鳥遊に返信する。
心なしかメールの文面もいつもよりそっけない内容になっていた。
「それでは、こちらでよろしくお願いいたします……って、一体何をよろしくなんですかね」
『知らん』
すべてが恨めしく思え、再び大きなため息を吐いた未央は力なく送信ボタンをクリックする。
「せっかく白狐さんが、戦国時代の主従情報をたくさん教えてくれたのに」
机に突っ伏したまま、あぁでもないこうでもないと悶々とする未央は、いつしか眠ってしまうのだった。
夕方、目を覚ますと白狐はいなかった。
古民家の中は、物寂しいほどに静まり返っている。
右の頬についた寝跡を手でさすり、くっきりついてしまっていることに落ち込みながら、台所に行って麦茶を飲む。
「はぁぁぁぁ……」
いつまでも落ち込んでいる場合ではない。
プロットから見直さなくては、と未央は気合を入れ直す。
珈琲を淹れるとすぐに仕事部屋へ戻り、深呼吸をして作業に取りかかった。
せっかく掴んだ連載を手放したくない。不完全燃焼は嫌だ。
(打ち切りになるとすれば、ここから新しいキャラクターを登場させるのは悪手よね。十回でまとまりつつ、それでも続いてもおかしくない展開にもっていかなきゃ)
戦国武将の強引な主人、それに翻弄される小姓の主人公。
この二人のキャラを最大に生かしつつ、ほかとの絡みで露出を……と未央はイメージを膨らませていく。
しかしふとした瞬間にやってくる「これでダメだったら打ち切り」というワードが邪魔をする。
連絡を受けて一日目だから仕方のないことではあるが、今はこんな風に立ち止まる時間さえ惜しい。
「もうどうすればいいのよ……」
自分自身をコントロールできず、もがき苦しむこと三時間。
すでに外は真っ暗で、こんなときでもぐぅと鳴る腹が恨めしい。
――ガタガタッ! ゴトン!
突然、玄関から扉の開く音がした。開くというより、外れたといった方が合っている。
父親が壊した玄関の鍵は、未だに業者が決まっておらず修理は手つかずだった。
――キュイキュイ。
小玉鼠たちは、三匹揃ってどことなくうれしそうに玄関へ向かう。
一体誰だと仕事場から顔を出せば、扉越しに訪問者が声をかけてきた。
「先生? 小鳥遊です」
未央は慌てて立ち上がると、玄関に向かって走る。
するとそこには、白狐と小鳥遊の姿があった。扉は見事に外れている。
「こんばんは、白狐さんに誘われて来たんですが……この扉って俺が壊しました?」
小鳥遊は唖然としていた。
「あ、いえ。父が鍵をしまって……、ってなんで小鳥遊さん!?」
来るなんて聞いていない。未央はぼさぼさの髪を今さら手で整える。
「突然すみません。会社を出たら白狐さんが待っていて、それで『今から来い』って言われてその、一応LIMEで連絡は入れたんですが……」
小鳥遊によると、会社帰りに待ち伏せしていた白狐に連れられ、ここまでやってきたらしい。電車に乗っていると絶対にこの時間はおかしいと不思議に思う未央に、白狐は恥ずかしげもなく「ここまでおぶって飛んできた」と告げた。
『横抱きは嫌だというから仕方なく、な。人間の男をおぶったのは初めてだ』
「うえええええ!? 飛んできたって飛んできたんですか!?」
小鳥遊は少しげっそりとしているように見えた。あやかしに拉致されて飛んでくるなんて、アトラクションよりもはるかに怖い。
「二十分くらいでここまで来られました」
苦笑いする小鳥遊は、この状況に戸惑いながらも外れた扉を再び元の位置に戻してくれた。
『こういうときは、他人がいた方がいい。未央はすぐに悪い方に考えるからな』
「だとしても! 小鳥遊さんの担当じゃないのに」
別会社の編集に面倒を見てもらうなんて、そんな図々しいことができるわけがない。未央は白狐の勝手を目で責める。
『そういうことではない。小鳥遊も未央が心配であろう?』
「え? ええ、それは、はい」
(言わせた! 無理やり言わせた!)
ぎょっと目を瞠る未央。小鳥遊は迷惑そうな顔ひとつせず、あははと笑った。
「お邪魔になるだけかもしれませんが、愚痴を聞くことくらいはできますし、何でも言ってください」
どこまでいい人なんだろう、未央は思った。感動を通り越してやや呆れてしまう。そしてそんな彼の厚意に甘えてしまう自分が情けなくもあった。
「ど、どうぞ、散らかっていますが上がってください」
「はい」
転がっていたつっかえ棒を靴箱に立てかけ、小鳥遊は靴を脱いだ。
『ちょっと出てくる。すぐ戻る』
「「白狐さん!?」
『近くにあいつもおるだろうから』
「あいつって誰」
未央の質問には答えず、白狐は扉を透けてそのまま出て行ってしまった。
残された二人はいったん居間に向かい、自由なあやかしの帰りを待つのだった。
小鳥遊と何気ない話をして、白狐の戻りを待つことわずか十分。淹れた珈琲が冷めないうちに、白狐は戻ってきた。
『未央、連れてきたぞ』
『どうも~』
「「誰!?」」
驚く未央と小鳥遊の前に、新顔のあやかしが現れる。
『ぬら、だ』
白狐の隣には、水色に銀糸の刺繍が施された着物を着たイケメンあやかし・ぬらりひょんがいた。ふわりと柔らかな黒髪は、顔の左側で一つに結ばれていて、和紙でできた金色の髪紐が高貴な雰囲気を漂わせる。
その妖艶で華奢な風貌は、白狐とは対照的だ。
『君が未央か~。そっちは小鳥遊だっけ? どうも、はじめまして』
軽い口調に、二人はたじろぐ。
「「はじめまして……」」
胡坐をかいて座った二人のあやかしは、仲のいい友人関係に見える。
ただし白狐によると、先週の会合でおよそ百年ぶりに会ったらしい。
『呼ばれたから来てみたけれど、白狐はなぜ僕をここに連れてきたのかな?』
ふふふと上品に笑う姿があまりに美しく、未央はぼぉっとぬらりひょんに見惚れてしまう。
『ぬらの擬態を役立てたいと思ってな』
白狐によると、ぬらりひょんはコスプレ好きの気のいい男らしい。
『コスプレって、あのねぇ。現代的に言うとそうかもしれないけれど、僕のはもっと崇高な理念のもとに具現化された、承認欲求というかねぇ?』
口元に笑みを浮かべたぬらりひょんは、白狐をちらりと横目に見た。誘うような仕草が、何とも色っぽい。
『もっとわかりやすく言え。二人が目を丸くしておるだろう』
慣れているのか、白狐はさらりとあしらった。
『冷たいなぁ。わかりやすくいうと、いろんな役になりきると面白いから変化して人に紛れて暮らしてるんだよ』
白狐が彼をここに連れてきたのは、未央の創作気分を高めようという目的があってのこと。
駅前の漫画喫茶に居ついていたぬらりひょんを誘って、ここにやってきたという。
(ぬらさん、漫画喫茶にいたんだ)
あやかしが、いつの間にか現代日本になじんでいた。
数千年単位で生きるだけあり、その行動力と順応性はすさまじい。
『変化を楽しめる者でなければ、人もあやかしも生きてはいけぬ』
白狐の言葉に、ぬらりひょんはうんうんと何度も頷く。
『未央、何事も気分が落ち込んでいては面白いものは描けんぞ。落ち込んだときほど、己を鼓舞するための楽しみを持っておらねば』
「白狐さん……! 私のために……!!」
白狐がこれからしようとすることが何となくわかってきた未央は、感動で瞳をキラキラさせた。
同時に小鳥遊は己の殉職を悟り、遠い目になる。
『ぬら、ちょっと若い小姓になってくれ。それからこいつに小袖と肩衣を』
『承知した』
白狐の言葉を受け、これまで青年の姿だったぬらりひょんはゆるゆると煙に巻かれてその姿を変え、十歳くらの小姓の姿になった。くすんだ赤の小袖を着た美少年のできあがりである。
「きゃあああ! かわいい!!」
思わず未央が叫ぶ。
ぬらりひょんはふふんと鼻で笑い「落ち着け、娘よ」と未央の額を扇子でペシッと軽く叩いた。
『ふむ、この男もなかなかの色男だな。僕には到底およばないけどねぇ……ほれ』
「え!? え!?」
扇子を向けられ動揺する小鳥遊だったが、一瞬にしてその衣服が白の小袖と青い肩衣に変わる。
「小鳥遊さん武将コスプレだぁ!」
「えーっと、俺はこれを来てどうすれば」
戸惑う小鳥遊を放置し、未央は仕事部屋に走ってカメラを取ってきた。
「たか×ぬら? ぬら×たか? やっぱ武将は攻めですよねそうですよね、そうに違いない」
「未央先生、目が怖いです」
真剣に小鳥遊を見る未央は、すでに妄想にトリップしている。その姿を見た白狐は満足げに笑うと、次の指示を出した。
『ぬら、おまえは武将に食われる小姓だ』
いつの間にか、ぬらりひょんは未央の原稿を手にしていた。
『ふむ、これはなかなか興味深い』
「こ、ここにも腐男子が」
未央は感動で目を潤ませる。
まるで台本のように原稿に目を通したぬらりひょんは、楽しげに笑った。
『ええ~? 小鳥遊みたいなかわいい子に食われるの? あ、今は僕が小姓なのか。うん、僕の方がかわいい。だったら仕方ないよね』
にやりと笑ったぬらりひょんは、少年のあどけない顔で小鳥遊に迫る。
『義隆様……! 今宵のお相手は私を選んでくださいますな……?』
「っ!」
上目遣いで迫る小姓に、小鳥遊は思わず口元を引き攣らせ一歩後ずさった。
――カシャシャシャシャシャ!!
「未央先生、連写する必要性はありますか!?」
「気分です! こころの『いいね!』が連写になっただけなのでおかまいなく!」
ほわんと表情を緩ませる未央。
助けはないと判断した小鳥遊は、諦めて肩を落とした。
「義隆様にですね、葵が押し倒されるところが見たいです」
義隆は未央が描いている作品の武将で、葵はその小姓の名だ。
小鳥遊はおそるおそる確認する。
「それはっ……俺がぬらさんを押し倒すってことですか?」
彼を除く全員が一斉に頷いた。
『ふふふっ、何これ楽しい。白狐ったらこんな楽しいことしてたの? もっと早く言ってくれればすぐに来たのに』
ぬらりひょんはやる気だった。居間にあったテーブルはいつの間にか片付けられ、彼は小鳥遊の両手を取って強制的に寝転がる。
「うわっ!」
少年の顔の隣に両手をつき、押し倒している風に見える小鳥遊の姿は、現代でいうと確実にアウトだ。
「これ犯罪ですよね!? こんな少年を……!」
顔を顰める小鳥遊だったが、ここに助けはもちろんない。
「戦国時代なんで大丈夫です」
『『戦国時代だから大丈夫だ』』
三人の返答に、小鳥遊は嘆いた。
「今、ものすごいアウェー感です……」
打ち切りまで残五回。小鳥遊の精神力が尽きるまで、BLイメージトレーニングは続けられた。




