迷う男
数日後の夜、小鳥遊の姿はオフィスから近いレストランバーにあった。
平日でも、店内はたくさんの女性客のグループでにぎわっている。
「明日真、やっと来てくれたか」
カウンターに座る小鳥遊にそう言って笑いかけたのは、友人の祥吾だ。彼はシャツに黒ベスト、黒ズボンという制服姿で、うれしそうに小鳥遊を迎える。
「その姿だと、働いてるって思えるな」
いつものカジュアルな格好と比較して、小鳥遊は笑う。
「いやいや、俺はまだおまえのその姿見慣れてないから」
祥吾はスーツ姿の小鳥遊をからかう。
「もう就職して四年だぞ」
「そうだったか」
小鳥遊は大学新卒で出版社に就職し、祥吾は大学院に行っていた。
つい最近まで微生物の研究をしていたのだが、さすがにこのまま好きなことだけをやってはいられないと思い、研究に見切りをつけてイタリアンレストランに就職したのだった。
「バーテンの見習いも大変だよ。愛想よくしなきゃいけないし?」
ビールとつまみを小鳥遊に出し、彼は茶色の髪を揺らして笑う。
「そういうの得意だろう。研究室で浮くくらい陽気なおまえには、こっちの方が合ってるよ」
「俺もそう思う」
卒業後は数か月に一度会う程度だったが、こうして祥吾が就職したことで、仲間内で会う機会は増えた。
ただし、夜型の祥吾と朝型の小鳥遊では活動時間が異なるため、タイミングは合いにくい。
今日は、未央のファミレスに行った日以来の再会だ。
ビールを飲み、サラダやオムレツに箸をつける小鳥遊は「うまい」と目を瞠る。
「だろう? これくらいなら作れるようになったんだ~」
「祥吾の作ったものが食べられるとは思わなかった」
一人暮らしだが、彼はまったく料理をしない。調理器具すら、部屋にあるかあやしい。
「デザートも作ってるんだ。クレープもどきとか、パフェとか色々あるぜ」
祥吾はメニューを見せて、満面の笑みを浮かべる。
何かと手のかかる友人が働く姿を見て、保護者感覚の小鳥遊は穏やかな笑顔になった。
ところが、そんな和やかな雰囲気は一変する。
「あ! 先週さ、桜木さんのとこ行ったんだよ」
注文の入った酒をつくるため、グラスに氷を入れる祥吾。小鳥遊はサラダに伸ばした箸を止める。
「桜木さんって……未央先生? ファミレスに行ったのか?」
「うん、そう。明日真があんまり言うから、BLってどんなもんかと読んでみてさ」
「へぇ……」
「読んだよ? 『Boysアガピ・ム』とかコミック。なんだっけな『羽ばたきまくる鳥』と『抱かれたい男に抱かれてます』と『ハンサムビッチ学園』だったかな」
小鳥遊は思った。なぜその『雲海社三大エロBL』をセレクトしたのか、と。
(祥吾、もっとライトなものから入ればいいのに)
カクテルを作り終えた祥吾は、ホールスタッフにそれを渡す。
「あれ? 明日真もっと反応ないの? 俺、せっかく読んだのに」
不思議そうにこちらを見る祥吾に、小鳥遊は返す言葉を探した。
「未央先生はなんて?」
「あ、そっち? BLの感想とか聞きたくないの? 担当してるのに」
「それは聞かなくたって言うだろ、祥吾だし」
「あぁ、そうくるか。桜木さんに『どれが先生のですか?』って聞いたんだけれど教えてくれなかった」
ため息交じりに言う祥吾に、小鳥遊は苦笑する。
(だろうな。本気で隠したがってるからな)
未央の困った顔が頭に浮かんだ。
「BLさぁ、男と男がなんでって思ってたけどな。漫画としてはありだなって思ったよ」
「そうか」
「共感はできないけれどね、俺は女の子大好きだから」
「あ、そう」
祥吾は悪気がないし素直な男だと昔から知っているが、まさかBLまで読むとは思わなかった。
意外だな、と思いつつ、小鳥遊はビールに口をつける。
「未央先生は、好きなことを仕事にしているから本当にすごいよ」
穏やかな顔でそういう小鳥遊に、祥吾はニヤリと笑う。
「おまえは好きなことからどんどん遠ざかってるもんな。少女漫画の次はBLって」
「うるさい」
「あ、でも男が主人公だからある意味近づいてる? 次は少年誌を担当できるな」
「本当かよ……」
適当に前向きなことを言う祥吾。
バーテンと客のイケメンが談笑するシチュエーションは、ここに未央がいたなら物陰から食い入るように見つめただろう。
「祥吾が自信あるやつ作って」
小鳥遊はグラスを差し出し、次のドリンクを注文する。
「ええっ、全部だな」
「自己評価が高いな、おまえは。まぁ、気長に何年も通って全種類制覇するよ」
空いたグラスを下げ、祥吾は別のグラスを用意した。シェーカーに氷を入れ、リキュールの瓶を手に思案する姿はとても様になっている。
「あ、それなら可愛いのでもいい?」
「可愛いのって? 俺に?」
失笑する小鳥遊に、手元に視線を落とした祥吾は言った。
「今度、桜木さんに店に来てもらおうと思って。その練習? まぁ、まだ誘ってないけど」
「は?」
祥吾は小さなナイフを手にして、イチゴやマスカットを切っていく。
「俺のこと、いい印象はないはずなのにさぁ。それでも笑って相手してくれて、桜木さんかわいいよね。断られるかもしれないけれど、もし来てくれたら喜びそうなかわいいカクテル作って出したいなって」
「……未央先生、BL漫画家だけど」
確認するようにそう尋ねた小鳥遊を見て、祥吾はきょとんとする。
「明日真がそんなこと言うなんて意外! まぁ、最初は『BL?』って思ったけど、本人はいい人そうじゃん? もっと話して仲良くなりたいなって」
「それは、その……好きとかそういうこと?」
小鳥遊の質問を、祥吾は一蹴した。
「中学生かよ」
「なっ……!?」
「好きとかそういうんじゃないけど、これから仲良くなったらそういうこともありえないとも言い切れない、とも言いきれないなんて」
「どっちだよ」
「はい、できた。これどう? かわいくない?」
祥吾は淡いグリーンのカクテルをカウンターに載せた。
氷の上にイチゴやマスカットが添えられ、見た目は女子受けしそうなカクテルになっている。
小鳥遊はカクテルを取り、ごくりと飲んだ。
「苦い。ミントとイチゴがおかしなことになってる」
味はイマイチだった。
「あれ、シャルトリューズがダメだったかな。でもジンよりマシじゃね?」
「なんにせよ、うまくない。未央先生は酒豪だけど、だからこそ味にはうるさいぞ」
「そうなの!? うわ~、作り甲斐あるわ~」
ポリポリと頭を掻いた祥吾。
そのとき、奥から出てきたスタッフから声がかかる。
「ちょっと仕事してくるわ」
「あぁ、こっちは勝手にやってるから」
一人になった小鳥遊は、出されたイマイチな味のカクテルに口をつける。
「マズッ」
思わず顔を顰める。カランと氷が崩れる音がして、ぼんやりとグラスを眺めた。
(俺、未央先生はBL漫画家だから、恋愛とは縁遠いって思ってた……? 自分と同類だと勝手に思ってたのか)
何度通っても男っ気のない古民家。仕事部屋だけでなく、プライベートな空間に足を踏み入れたのも自分だけ。
黒髪をざっくりとお団子にして、いつもラフな格好で出迎えてくれる未央。
いつだったか彼女が笑って言った『小鳥遊さん以外は来ないから』という言葉を真に受けて、こんな関係がずっと続くと思い込んでいたことに気づく。
(もし、祥吾が未央先生と付き合うなんてことになったら……)
カウンターに肘をつき、こめかみあたりを手で押さえた小鳥遊は、それから祥吾が戻ってくるまで長い間ぼんやりと過ごした。
(俺はもしかして、未央先生のことが女性として好きなのか……? でも、人を好きになるってどんな感じだったっけ)
自分で自分の気持ちがわからない。酒が回っているわけでもないのに、この胸やけするような感覚は何なのか。
賑やかなレストランバーで、小鳥遊だけが難しい顔をしていた。




