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プロローグ

 都心から、電車でわずか一時間。

 駅前の寂れた商店街を抜けると、見渡す限り田園風景が広がっている。

 大人の足で約二十分。乾ききったアスファルトから轍のくっきりついたあぜ道へ逸れると、鬱蒼とした林を背に築二百年の古民家がぽつんと佇んでいた。

 古き良き日本の趣を感じさせる藁葺き屋根、外壁は漆喰で低い部分は板張り。ところどころ壁が崩れている箇所もあり、一見して人が住んでいるようには見えない。

 梅雨が終わり、いよいよ夏本番という青い空。

 風鈴の音がかすかに聞こえる古民家の一階で、二人の女性がテーブルを挟んで向かい合っていた。

「どうでしょう?」

 真剣な表情でそう尋ねるのは、古民家の住人・桜木(さくらぎ)未央(みお)。二十七歳の漫画家だ。

 限りなく黒に近い焦茶色の板の間にいると、その薄暗さから未央の白い肌は浮き上がるように見える。

 連日の寝不足で着々と蓄えられた目の下のクマがなければ可愛らしい雰囲気の女性なのだが、今日はまた一段と不健康そうな雰囲気だった。

 袖が短めのTシャツにデニムのショートパンツというラフな姿で、背中まである真っ黒な髪はトップでゆるくお団子に。日中、家にいるときはほぼ毎日この姿でパソコンに向かっていて、出かけることはあまりない。

 デビューして早五年。未央は世の中に数多といる漫画家の中でも、男性同士の恋愛テーマにしたボーイズラブをテーマに描く『BL漫画家』である。人気漫画家には程遠いものの、新しい連載が決まってこれからが正念場というところ。

 今日は、連載分のネームの打ち合わせ。

 ネームとは、毎号どんな話を描くのかという設計図のようなもので、ストーリーの流れは同じでもどんなコマ割りでどのシーンを強調するかで作品のおもしろさが変わってくる。

 未央が徹夜で仕上げたネームをチェックするのは、担当編集の夏目(なつめ)(ひろ)()

 彼女もまた未央と同類で、ボーイズラブを愛する腐女子である。

「未央先生。メガネキャラが、肝心なときにメガネを外すのは絶対にいけません。これは異議申し立て案件です」

 夏目は、冷静な口調で意見を述べる。

 薄茶色の髪は肩より少し上で切り揃えられていて、同性に好かれるカッコイイタイプの女性。黒いビジネススーツに身を包んだ姿は三十七歳にしては若々しく、頼れるお姉さんという雰囲気だ。

 現在はデジタル化が進み、こうして編集者と漫画家が直接会うことは少ない。

 が、この二人はBLを愛する同志ということで私的な交流もあり、夏目が古民家を訪れることはたびたびあった。

 今日もまた、より良い作品づくりのためにアツい討論が繰り広げられる。

「メガネキャラのファンは、メガネも彼の一部として愛しているのです。だから、このシーンでもメガネをつけていてもらいたいと私は思います」

 夏目はくぃっと人差し指でメガネを押し上げ、手に持っている漫画の原稿に視線を落としてそう言った。

 だが、描き手である未央も引かない。

 原稿をタブレット用のペン先で差し、独自の見解を示した。

「いえいえいえ、夏目さん。メガネキャラが攻めるときにメガネを外すその心は、実は繊細な”受け”なんですよ。勢いよく押し倒しておきながら、実はもう限界なんです。今、恋人がどんな顔をしているのか見たい、けれど見るのが怖い、その結果メガネを外すという行動に出てしまうのです。これは壮大なデレゆえの行動なんです! セリフにも絵にもないその心情を、妄想で判断する醍醐味を提供しております!」

 じっと原稿を見入る夏目。そんな彼女の反応を見る未央。

 しかしここで、さらに別の主張が投げ込まれた。

『なぁ、そんなことよりも早く衣を脱がした方いいと思うぞ』

 そう指摘するのは、銀に近い白髪にとがったキツネ耳のついたあやかし・白狐(びゃっこ)

 およそ千二百年も存在し続けている、高位の妖怪である。

 艶のある白髪は、まるで絹糸。平安貴族風の白い狩衣を着た背にさらさらと流れている。

 切れ長の目は役者のように涼やかで、瞼に沿って引かれた赤い紅が印象的。獰猛さと狡猾さを感じさせる茶色の瞳は、ときおり獲物を狙う肉食動物のごとき光を放つ。

 通常、気まぐれなあやかしが人とかかわることはめずらしい。儚く弱き生き物など、いつでも支配できるがゆえに干渉はしない。

 そう、例外を除いては。

 白狐が未央の前に現れたのは、わずか三か月前のこと。

『都心から離れた静かな場所で、漫画に集中したい』と思って引越しをした未央は、少ない荷物を解く時間も惜しんで漫画の原稿を描いていた。

 作業部屋である十二畳の和室は、居間のすぐ隣。深夜に一人、パソコン画面を凝視しつつ、ペンを握っていたところ突然に白狐が降り立った。

 普通の精神状態なら、耳元で『ここ、ベタ忘れてるぞ』と注意を受けたら恐怖を感じるだろう。小心な者なら気絶しても不思議ではない。

 だが締切前で普通の精神状態でなかった未央は、ありがたく白狐の指摘や助言を受け入れた。

 未央は白狐の語る「衆道」(武家社会におけるBL)なるものに興味が湧き、千二百年の間に繰り広げられてきた男性同士の恋の歴史に耳を傾けた。

 それ以来、古民家に居ついた白狐は未央のパートナーのようになっている。

 あやかしのいる暮らしに最初こそ違和感があったものの、たった三か月でこの奇妙な二人暮らしは馴染んでしまった。

 夏目との打ち合わせ中も、白狐の助言は遠慮がない。

 閉じた扇で原稿をトントンと叩き、険しい顔で注文を入れた。

『せっかくの見開きなのにエロが足りぬ。ここまで積み重ねてきた盛り上がりを逃がすな。大胆な構図をよこせ』

(え? でもそれだともっとアップにするか、胸筋の滑らかさをきれいに描く必要があるな……)

『衆道は勢いが大切だ、未央』

 白狐の声は、未央にしか聞こえない。

 彼女の隣に白狐用の座布団はあれど、その姿も声も編集者に届くことはなく、この居間には一見して未央と夏目の女性二人だけ。

 だから夏目は、顎に手を当てネームを見つめて思案を続けたままだ。

「デレ……デレですか」

「はい。普段は強気なヒーローが見せる渾身のデレなんです」

「そうですか」

「そうですよ」

 今ここでネームのOKが出たとしても、それは大筋が決まったに過ぎない。これから下書き、ペン入れ、セリフ入れなどまだまだ作業は続いていく。

 二時間ほど続いた打ち合わせが終わると、夏目は夕方から会議があるということで足早に荷物を片付ける。

「未央先生、まだ時間はありますから。とにかく寝てくださいね」

「はい、わかりました」

「せっかくこんなスローライフっぽい古民家に住んでいるのに、これまでみたいな不摂生じゃあ、そのうち倒れるわよ? 何事も、元気で生きていてこそだって忘れないでね!」

 十歳違いということもあり、二人の関係は世話を焼く方・焼かれる方に完全に分かれている。

 夏目の世話焼きなところは、未央にとってはありがたい。

 玄関の蒸し暑さにこめかみには汗が伝うも、未央はにこやかに手を振って見送る。そして建付けの悪い玄関ドアを両手と足で強引に閉め、戸締りと言えるのかあやしい簡素な鍵をかけた。

 昼間でも薄暗い廊下。

 冷えた室内へ向かう未央は、凝り固まった筋肉をほぐそうと右手を肩に添えて頭を左右にぐりぐりと動かした。

「うう~、まだ途中だけれどいったん寝ようかな~」

 睡魔に負けそうな未央だったが、夏目と違って白狐は厳しい。

『ほれ、怠けていないで、はよう続きを描け。人の一生は短いぞ』

「え、そんなに短くな……ぎゃあっ!!」

 白狐に首根っこを捕まれる未央。

 仕事部屋へ放り込まれ、襖には『封』と書かれた護符がバシッと貼り付けられた。それはまるで、邪悪な妖怪を閉じ込めている”封印の間”さながら。

『我が直々に指導してやるのだ、中途半端な絵は許さぬ』

「はい、すみません……」

 漫画は一日にして成らず。

 BLを愛する漫画家とあやかしの共同作業は続いていく――――――


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