第1話
これは小さなお伽話
陽が昇れば消えてしまう、朝露のように。
誰にも知られず生まれて消える一粒の雫。
そんな小さなお伽話。
フィリアの父が死んだのは、一月前だ。
荷車に積んだ木材の縄を締め直していた父は、突然折れた荷車の車軸のせいで、積んでいた木材全ての下敷きになった。
あまりに酷いからと、遺体には対面させてもらえなかった。
懇意にしている村の隣人達が、何もかも手配してくれた。
葬儀では沢山の人が集まって父の死を悼み、4年前に死んだ母の隣に墓を並べてくれた。
父が埋葬される間、フィリアは、4つ年下のミールの手を強く握って、ずっと怒っていた。
これから弟と二人きり、生きていかねばならない。
18歳の自分は、成人したのだし、働いて、一生懸命働いて、それでミールを守って……
そう自分に言い聞かせる胸の中で、どうにもならない怒りが湧き上がる。
どうして父は……
「こんな立派な葬儀をしてもらえるなんて、ありがたいことだねぇ」
「あんた達のお母さんは、そりゃ親切だったから、みんな恩返しがしたいのさ」
母が亡くなってからずっと気にかけてくれる村の人達が、口々に母を褒めて懐かしんだ。
母の死後、森の中に引っ込んで、貧しく暮らした父のために、村人はもったいない程の葬儀をしてくれた。フィリアとミールもずっと親切にしてもらってきた。それらの村人の善意は、母に繋がっているのだった。
でも
父が死んだ今、もはや母を知る術は断ち切られた。
母の実家に繋がる糸を、フィリアの父は何ら残さなかった。
母は、貴族の令嬢だった。
平民の父と身分違いの恋をして、全てを捨てて平民として生きた。
貴族のが集まる王都から、遥か離れた地方の街の、更に奥まった小さな村で、貧しく慎ましく暮らした。
フィリアは母の実家の家名も知らない。貴族というだけで爵位も知らない。
ただ、母の所作と教養は、何も語らずとも彼女が平民育ちでない事を証明していた。
母は、村の子供に読み書きを教え、婦女には都会流行りの洒落たレースや刺繍を教えた。
麗しい容姿は、貧しい服装でもくすむ事なく、男も女もうっとりとさせ、見つめずにはおられない、母は特別な存在だった。
特別な存在。
フィリアは貴族の令嬢の娘で、だから他の村娘とは違う。
私はみんなとは違う。
フィリアは繰り返し、繰り返し、その場面を思い描いてきた。
駆け落ちして、行方知れずになった娘を探している伯爵が、ついに孫娘を見つけ出すのだ。
「苦労をかけてすまなかったね、これからお前は貴族として生きるんだよ。」
そうして、貴族の令嬢になった私は恋をするのだ。
見目麗しい、王子様のような男性が現れて、私に求婚するのだ。
「姉さんいい加減にしろよ」
弟のミールに幾度となく繰り返された言葉を、また言われた。
フィリアの回りには、食器から日用品からこまごまとした物があちこちに放り出されて、まるで泥棒にあった後の様に散らかっている。
今や弟と二人きりで暮らすことになった我が家は、森の中の丸木小屋だ。
母の死後、父は村の家を引き払って、2人の子供を連れて森の中で、暮らし始めた。
木こりになると突然言い、言葉通りに寡黙に働き続けて、3人で暮らすに十分な小屋も建ててくれた。
商売の知識があった父は、村で困らぬ程度に稼いでいでおり、どうして急に過酷な肉体労働を始めたのか、フィリアには理解できない。
限界まで体を動かしてへとへとに疲れないと、父さんはもう眠ることができないんだ。と、そうミールは言っていた。
父の母を失った悲しみがどれほど深いのかを、頭では理解しつつも、感情としては、父に対して不満だった。
どうして、こんな不便なところで暮らさなければならないの?
どうして、貴族だった母さんの事を聞くと不機嫌になって、何も教えてくれないの?
どうして、どうして、
私とミールを母さんの実家に連れていかないの?
だって、母さんの血を引く私たちは貴族なんでしょ!
フィリアは家にある物全てを引っ張り出し、戸棚もベッドも動かして、どこかに何かが残されていないかを探し続けた。
「姉さん、何回繰り返せば気が済むんだよ、無いものは無いんだよ!」
「だって、あるかもしれないでしょ! 父さんが死んだらこの家を頼りなさい。みたいな手紙とか、貴族の紋章が入った指輪とかそういう、私たちが貴族だって言う証拠の……」
「貴族じゃねぇよ! このバカ姉貴 頭の中いっぺん割って洗ってこい!」
村で育った子供が、いかにも使いそうな汚い言葉でミールが怒鳴った。
金髪碧眼の美少年である弟は、その見目麗しい顔で、田舎者丸出しの喋り方をする。
「ミール、姉貴ではなくて、姉さんと呼んでちょうだい」
「あーはいはい、分かりましたお姉様」
嫌味っぽくミールは言って、散らばった小物を拾い始めた。
「もし、手紙だか何か見つかっても、俺は絶対に行かねーからな。馬鹿にされて笑われるだけに決まってんだろ。そもそも貴族になんて会えねーっつうの!」
ミールなら馬鹿になんかされない、とフィリアは思う。
ミールの外見は母にそっくりだ。サラサラと真っ直ぐで輝く金髪、長い睫毛に縁取られた瞳は青く澄んで宝石のよう。整った眉目と品の良い赤い唇。物語から抜け出た妖精のような美しさ。ミールが女の子なら、間違いなくもう人攫いにあっているはず。
それに引き換え自分は、癖のある茶の髪に平凡な濃茶の瞳。父に似た顔立ちは、村娘としては可愛い方だろう。だが、どう見ても貴族の令嬢のには見えない事を、自分は知っている。
「せめて家名だけでも分かれば……」
呟くとミールが悲しげな目を向けた。
「姉さん、俺さ、木こりの親方の所に、弟子入りして引き取ってもらおうかと思ってる」
「え? この家から出て行くってこと?」
「姉さんはさ、俺のことが心配なんだろ? でも俺もう14才だし、弟子入りして働かせてもらうから、大丈夫心配しないで。母さんの実家に頼ろうなんて、無駄なこと考えるのはもうやめてよ」
意外な言葉にフィリアは、何と答えていいのか分からなかった。
「姉さん、せっかくの仕事の口断っただろ。なんで?」
「それは……」
フィリアは返答に迷った。
先日、父の昔の仕事仲間が訪ねてきて、街の大きな商家の下働きを紹介してくれたのだ。
18才の村娘にはこれ以上ない良い条件の話だ。
ミールは目をギュッと拳を握ると、悔しさを滲ませた目を向けた。
「俺のために断ったんだろ。俺をここに一人きりにできないって心配してくれて嬉しいよ、でもさ、街の屋敷で働けるなんてすげー良い話、蹴るなんてもったいないよ」
俺は大丈夫、男なんだからとミールは気丈に続けた。
フィリアの胸は痛んだ。弟の自分を思う健気さに、胸を突かれる。
違うのだ。
ミールが心配だから仕事の口を断ったのではない。
下働きなんて私に相応しくないと思ったからだ。
母の実家さえわかれば、母の生き写しのミールを証拠に、きっと引き取ってもらえる。貴族として生きていけれる。そんな想像で頭がいっぱいなのだ。
「ミールはいいの? 木こりなんかになって」
「木こりなんかってなんだよ」
ミールは、大きな目を更に大きくして驚いた顔をした。
「親方にもステファン兄貴にも、こんなに世話になってるのに、姉さんよくそんな言い方できるな。姉さんは変だよ、貴族になんて、田舎者の俺たちが今更なれるわけないだろ。それでももし、母さんの実家が見つかったとしても、俺は行かない」
ミールは強い意志のこもった声で告げた。
「俺は木こりになって、親方みたいな強い男になるんだ!」
ミールは私と同じ夢を見ていない。
いつの日か、貴族の令嬢になれると本気で思ってきた。その夢が、いつだってフィリアの心の中心だった。
間違いなく母は貴族だった。だって、村中の人がそう信じて疑わなかった。
だが、突然訪れた父の死で、フィリアは恐ろしい事実の中に放り出された。
何も無い。
自分の母が貴族だと言う証拠が何も無い。
この手の中にしっかりと握っていたはずの物が、手を開いたら空っぽだった。
このまま、ただ平民として生きて死んでいくの?
唯一の証拠になるかもしれない弟は、自身の美貌を疎んでいる。
村の男の子達に女みたいだとからかわれて、どんどん意固地になって、とうとうあの巨漢の親方の様になりたいなんて。
丸太から胸毛がはみ出している様な、美しさのカケラもない、汗臭い、ただの木こりのなんかに憧れるなんて。
「嫌よ、私はそんなの嫌!」
まるで、風に吹かれた蝋燭の消える寸前の炎の様に、フィリアの夢は今この瞬間にも消えようとしていた。
悲しみよりももっと深い、恐怖が心の奥から湧き出してフィリアを襲った。
「お前はただの村娘なんだよ」と、それだけがお前の現実なんだよと、その恐怖が告げてくる。
フィリアはたまらず丸木小屋を飛び出した。