第三章 Ⅴ
その偉丈夫は、一人の部下を従え通路を歩いていた。その歩き方は少々独特だ(もっとも、そこでは普通なのだが)。踵の端を強く押し付ける様にして接地し、爪先で伸び上がる様に足を離す。幅、高さ共に三メートルはあろうかという通路には、あちらこちらと緩衝材が設置されている。歩き方にしても、床の電磁式吸着システムを前提にしたものだった。マリネリス峡谷の深い谷底、その更に地下深くに構築された火星統合会議(I.C.M.)行政セクションは、十五年余り前に火星入植原初の地から現在地に移された。新規入植者や火星生まれの火星っ子が増加し、セクションと呼ばれる区画が増加するにつれ、手狭になったのだ。また、小惑星を巡る地球との不協和音が高らかになり始めた時期でもあり、その辺りから火星は地球との一戦を覚悟していたと思われる。
やがて二人は自動ドアの前に立ち止まった。そこは既に最重要区画内だが、そのドア横には暗証番号、音声チェックと更には網膜パターン認証のコンソールが設置されていた。
「それでは、三十分ほどかかる」
偉丈夫は振り返りざま良く通る声で言った。
「は、閣下」
部下は一礼すると、踵を返し通路を戻って行った。一人残された者の名はイーサン・ストーナー。火星統合会議議長を務めている。向き直るとキーパッドに右手を伸ばし暗証番号を入力する。それが済むと、音声チェックのためマイクに顔を寄せた。
「主よ、どこへ行かれるのですか?」
これは合言葉ではない。ある程度の長さであれば、音声照合には事足りる(声真似や録音音声でも識別可能となっている)。それと同時に見開かれた右目では網膜パターン認証が行われ、揃って初めて軽快な電子音と共に自動ドアは開かれた。いま一度振り返ると素早く見回し、向き直るやドアの向こうへと足を踏み入れたのだった。
ドアの向こうは暗闇だった。ドアが閉じられるや、部屋中央に朧な緑色光に円卓が浮かび上がる。その光から仄かに見える室内は、さほど広くはない。調度類も見当たらない。円卓にしても直径二メートル少々だろう。イーサンは手前の椅子に近付いた。自動的に引かれ、着席すると元の位置に戻る。と、円卓の中央が一際輝いた。ホログラムで出現したのは、幼児を胸に抱いた、修道女の様な服装の若い女性だった。
『よく来てくれた、議長よ。状況はどうか?』
ホログラムに不相応な、幾分しわがれた男性の声。
「はっ。全ては思し召しのままに」
議長は恭しく畏まる。
『それは重畳なり。いま暫くはこのままで良い』
女性は笑った。似つかわしくない嫌らしさの滲む笑みだった。
「はぅ」
『さて、それでは早速だが、各セクションの状況を教えて貰おうか』
「承知しました」
議長は統治下にあるセクションの現況について、概説を始めた。火星居住者の全てが戦争に賛成、積極的という訳ではない。反対、消極的な者達は当局から監視されており、しかしそれは組織化されている訳ではなく、さして気にする必要もない、といった説明だった。
『ふむ、なるほどな。しかし、そういった者達が時として思いがけなく蹉跌の元となりかねん、という事を忘れてはならん。この戦争は火星の為なのだ、努々忘れてはならぬ』
「承知しております…ところで、一つ質問を宜しいでしょうか?」
『何か?』
女性の目元が、少々険しくなった。
「はっ。先日の指示についてですが。どの様な意図で、一学校をターゲットになさったのでしょうか?」
女性の面に、またあの嫌らしい笑みが浮かぶ。
『その様な事か。なに、軽い挨拶よ。面白そうな者が訪れたのでな』
「?それは、どういう事でしょうか?」
『なに、理解する必要はない。引き続き予定通りに。もう良いぞ』
それきりホログラムは消えた。一人残された議長は暫く円卓を見詰めていたが、やがて立ち上がるとのろのろと、退室していった。ドアが閉じられると、室内は再び闇の中に沈んだ。




