第三章 Ⅰ
第三章
いよいよ一学期最後の一週間となった。学校では七月最後の月曜日から夏期休暇となっているので、25~31日のいずれかから、となる(もちろん直前の土日から実質的に始まるのだが)。そしてこの一週間内にあるのが月曜日放課後の生徒会選挙立候補者討論会、終業式と、その最後に行われる選挙開票結果発表だった。月曜日午前九時から投票可能で、金曜日の正午に締め切られる。ノートパッドから直接投票出来るため、締め切り時には結果は確定している。生徒の大半は、討論会の結果如何で投票先を決めるのだ。
「ねぇ、誰に投票する?」
そんな、トーン抑えめの声が、クラスメイトに囲まれた澄玲の机から一也の耳元に届く。朝のHRが始まる前から、同様な声がそこかしこから聞こえてくる。その者達の何名かは、時折一也へと視線を走らせていた。先の競技会で、現副会長と親しげに会話を交わしていた彼の動向が気になるのかも知れない。もちろん、そんな事を気に掛ける彼ではないが。やがてチャイムが鳴り、クラスメイト達は各々の机に引き上げていった。一年二組担当で世界史教師の木谷 裕が入ってくる。華名の号令で『起立、礼、着席』が行われた。教壇の前に立つと、裕は一息つき教室内を見渡し、口を開いた。
「さて、いよいよ夏休みも近付いてきました。皆さんの中には、一足先に心がリゾートに旅立っている人もいるかも知れませんが、今一度気を引き締めてゆきましょう」
穏やかな口調でそう前置きし、連絡事項を告げる。サーバに上がっている様な事だが、気付かない生徒もいるのだ。
「…それと、今日は生徒会選挙の候補者討論会が放課後あります。速やかに体育館へ移動して下さい。館内では風紀維持委員の指示に従って機敏な行動を心がけて下さい」
一旦言葉を切り、再び教室内を見回すと、裕は再び口を開いた。
「さて、HRを締め括る前に一つ。今日、多くの国や地域で確立されている普通選挙制度ですが、国民、市民が為政者を選ぶ権利は、歴史上そう容易く確立された訳ではありません。夥しい血が流された事もあるのです。国民、市民の前に立ちはだかったのは、多くが軍隊や警察でした。今では違法となっている国や地域固有の軍隊です。さて現在、選挙によっては投票率が三分の一に満たない場合すらあります。生徒会選挙は投票率百パーセントが基本ですから、もし在学中に参政権を得られた皆さんは、それにならいどうか積極的に参加して下さい。と、それでは。生田さん、号令を」
全て話し終え、少し早いが切り上げる事にする。再び『起立、礼、着席』が行われ、裕は教室をあとにしたのだった。
昼休み。食事を早めに切り上げ、一也は保健室に来ていた。養護教諭助手が在室のため、ベッドを一つ借り間仕切りを閉める。生徒の非常にプライベートな話もするため、ただのカーテン等に比べればそれなりに防音効果はあった。
「心や体に、何かおかしいと思うところはありますか?」
この二ヶ月以上、繰り返されてきた紗智からの質問。普通の会話だが、外部からは間近で聞き耳を立てて聞こえる程度の音量にしかならない。紗智はスツールに腰掛け、ベッドの端に座る一也を見詰める。
「いえ、特にあるません」
こちらも同じ期間だけ繰り返されてきた返答。基地にいた頃には様々な機器を用い彼の肉体を検査した。その結果、城田一也がきわめて健康なごく普通の十六歳の少年である、という事実を確認したのだった。しかし、それでは説明の付かない現象を紗智は目撃したのだ。だからこそ、今彼女はこうして彼に随伴し学校にいる。小さく溜息を一つ。
「学校生活は順調ですか?何か困った事は?」
「いえ、特にありません」
「そう…ところで、ちょっと良いかしら?」
急に声の音量を落とす。部外者に聞かれてはまずい、という事だ。それを察し、一也の口調も変わる。
「何か?」
「その、自動車教習の事なのだけれど。大丈夫、やってゆける?」
彼女自身、中学以来ハンドルを操作した事はなかった。戦時下にあってはやむを得ない状況も増加しているが、車を利用する者の大半は彼女と変わらないだろう。まして本格的に運転を学ぶのは心身に負荷が掛かる事になるだろう。それに耐えられるのか?いま眼前にある少年が、もはや知るのと中身のまるで違う存在となり、ストレスに対しどの様な反応を示すのか判断が付かない。以前ならばさして気にする事でもないだろうに、と、病院の少年の姿をまた思い浮かべてしまい、切なくなる。もちろんその様な内心を斟酌出来る筈もない一也は、あっさりと返答した。
「問題はない。何か関係があるのか?」
少し瞠目したあと、素の表情を取り戻した紗智は、小さく首を振った。
「…いいえ、そうね。そう、関係ないわね」
「もう宜しいですか?」
声の音量を元に戻し、一也が問うた。
「そうね。問題ないわ。言って頂戴」
「では、失礼します」
立ち上がると一礼し、間仕切りを開け一也は出て行った。養護教諭に一礼し、保健室を静かに出て行く。




