モンキーマイア
シンヤは難しそうな顔で通訳していた。
「専門用語が多くて・・・トランスミッションはホリンジャーのシーケンシャルだと言ってます。意味分かりますか?」
阿部は頷いた。
「ああ、レース用の6速ミッションだ。たしかオーストラリア製だったな、そういえば」
阿部はエンジンを覗き込んだ。オイル漏れの跡も無い。どうしてこれが単体のエンジンで、今ここにあるのか阿部にはわからなかった。こいつは廃棄されたものではない。言うなれば現役のエンジンだ。何故使用中のエンジンが外されて単体で売られたのだろう。
「クラッシュ、か?」
ボンドは首を振った。
「それは言えないって。出所は秘密だって言ってます」
阿部は笑った。
「まあいい。レース車両ならスペアエンジンという可能性もあるし、盗まれたものなのかもしれない。まあいずれにしても気にはしないさ。重要なのは、こいつの性能だ」
パイピングは丁寧に溶接された一品物のようだった。焼け具合からみると走行距離は少なそうだ。つまり、きちんと整備がされているということだ。レース用ならデチューンして公道を走れるように調整してやらなくてはならないが、素材として出来がいいか悪いかは非常に重要だ。
「シンヤ、このエンジンの出力を聞いてくれないか?」
シンヤは頷くと通訳した。ボンドは何度も頷きながら笑顔で答えた。
「オーバーワンサウザンホースパワー」
1000馬力!それを聞いて寒気がするほど興奮していた。
ドラッグレース用だと聞いた時から、その答えを予想していなかったわけではなかった。それにボンドを100パーセント信用しても良いという理由は無い。だが、そのエンジンの強化パーツの組み方、取り付けられたターボや配管をみれば、それがどんなエンジンなのかは阿部には想像がついていた。
「OK、ボンド。いくらなら売る?ボディーはあっちのセダンのR33でいい。作業はオレも参加する。場所を貸して欲しい」
シンシアは最初、阿部の計画を聞いて顔をしかめたが、クルマの外観を出来るだけノーマル風にするということで妥協した。
今回の計画にはクルマの種類なんてものは関係が無い、とシンシアは思っていた。重要なのはトライバイテック社の進める「理想郷計画」を潰すこと、さらにはトライバイテックがシステムを完成させた場合に備えて、その対応策と対抗装置を開発することだった。
そのためにはキーになる人物をトライバイテック側に渡さないことだ。そうしておいて相手側の情報を盗み出す。阿部には、その人物を連れてオーストラリア中を走り回ってもらっていれば、それでいい。とにかくターゲットの人物を相手から遠く引き離すことが重要だった。
それにしても、とシンシアは思った。
この業界に入ってから、世の中の常識から外れた装置やら想像を超えたシステムの数々に出会ったが、今回のは中でも指折りの奇怪な発想だった。いったい誰がこれを考え付いたのか。こんな装置を実際に作り上げて、いったい何をしようというのだろうか。
リスクが大きすぎるのだ。
その割には、単体での効果が低すぎる。
トライバイテックが開発するからには、どこぞの小国家にでも売りつけるつもりなのだろうが、だがしかし、これは国家が必要とするというよりはテロリストにとって重宝だと思うし、もしくは新興宗教とかカルト集団の欲しがりそうな装置だと思った。
しかもその装置のシステム中央には生身の人間が必要だという。特殊な能力を持つ、生身の人間を中枢に備えなければシステムは起動しない。言ってみれば装置そのものは生身の人間の特殊な能力を増強させる役割しか持っていないともいえる。
もっとも、トライバイテックのこれまでのシステム開発方法からいえば、いずれは生身の人間無しで同じ効果をあげるシステムを作り上げるに違いないのだが。そうなる前に、我々は対抗手段を開発しなくてはならないのだ。
「鍵」と呼ばれた女性は、そうとは知らずにモンキーマイアにいた。
ワーキングホリディビザという名前の通り、ワーキングが先でホリディが後なのだった。実際のところ、やっぱり溢れるほどの財産が無ければ毎日を遊んで暮らすことなんて出来やしない。オーストラリアは広いのだ。移動するだけだって何万円、何十万円の費用がかかるのだった。日々の宿泊代だって必要だ。
一ヶ月ほど前にモンキーマイアへやってきた。シドニーでの暮らしも悪くなかったけれど、本当の意味でのオーストラリアの自然は見られない。友達と離れて西海岸へ。
キッチンでの仕事をこなしてから、午後の休み時間はビーチへ出る。
オーストラリアに来て知ったことは、日本人がワーカホリックだということだ。こっちでは必要以上には働かない。スーパーマーケットは夕方には閉まるし、大抵の店は日曜日には営業していない。クリスマスなんて商店街からガソリンスタンドまで全てが休みでゴーストタウンみたいになっていた。
パースから北へ800キロの世界遺産シャークベイに位置するモンキーマイアでは、ビーチに毎朝イルカが遊びにやってくる。観光客がインストラクターの指導のもとにイルカとふれあえるというのが、ここの売りだ。
ビーチは限りなく広い。
澄み切ったブルーの海はインド洋だ。日没には素晴らしい眺めとなる。
こんな生活も悪くは無い。英語しか通じない不便はあるけれど、英語の上達も旅の目標の一つだったし、悪いことではない。でも、やっぱり少しさみしい。