洗脳
交差点でハンドルを回しながら、今里はアバラの痛みで息を詰まらせた。折れてはいないみたいだが病院に行った方が良さそうだ。しかしそれはいつになるやら。
「7,8年くらい前になると思いますが、エツコは学生でした。友人に誘われて、といえば聞こえはいいんですが、まあ半分騙されて問題の宗教施設の道場ってところに行ったわけです。道場っていっても内装は会議室みたいなものです」
7,8年前のエツコってどんなだろう、とサニーは思っていた。エツコねえやんの実年齢をサニーは知っていたが、その見た目は二十歳前後くらい。それで7、8年前というのは、いったいどんな外見だったのだろう。
「そこでは一種のゲームのようなものが開かれてました。自己啓発セミナーの要領を真似したものでゲーム自体に意味はないんですが、いわば一体感を作るための遊びみたいなものっす。発想を180度変換すると題して講師が世の中の仕組みを普通とは違った視点で熱心に語り、受講者は多くの場面で発言を求められます。ただ、そこには一つだけルールがあって、それは他人の発言には拍手をしなければならないというものでした」
サニーは黙って聞いていた。この話の意図はなんだろう、と思いながら。
「エツコは途中で嫌になったんす。文句があるのに、どうして拍手しなくちゃいけないの?とかって思ったかどうかはわかりませんが、なにか文句があったんすね。エツコは参加者の心を一人づつ乗っ取り始めたんです。ほんの数十秒づつ乗っ取っては次々とメッセージを送り込んだんです」
「それでどうなったの?」
「サニー、せっかく調子出てきたのに」
「もういいわ。結論だけ教えて」
今里は残念そうにすると続けた。
「まあいいっす。要するにエツコはそこにいる参加者のほとんどの心に壇上へ上がるというメッセージを送り込んだ。エツコは壇上の講師が嫌だったんでしょう。その男を捕えて引きずり下ろす。そのために参加者全員が突然、壇上目指して動き出したんす。たちまち会場はパニックになった。エツコは自分を連れてきた友人の手をとるとさっさと逃げ出しました」
「それがエツコねえやんの狙われる理由?」
「いや、そのこと自体は組織にとって驚きではあったんすけど、問題はその後の調査で誰一人として事件の記憶が無かったということなんです。壇上に上がった参加者のうち聞き取りできたのは3分の2ほどだったということですけど、誰一人、どうして自分が壇上に上がろうと思ったのかわからなかった。そしてビデオ撮影された会場の中でエツコの映像が見つかるんすけど、その女のことを誰も覚えていなかったんす。連れて行った友人は二度と組織には現れず、いや、それどころか、横のつながりのなかで特定された時、その友人は当日の記憶そのものがなかったんす。組織について興味がまったく無くなっていて不自然でさえあった、と」
「それからどうなったの?」
「結局、エツコは探し当てられることはなかったんすけど、創設者は非常に興味を持ったんす。ひょっとすると、この女は一種の超能力者なんじゃないかと勘付いたんす。そしてその考えは、人の心を操る機械に向かうきっかけともなったというんすよ」
サニーはため息をついた。
「その後は想像がつくわ。エツコねんやんがトライバイテックに追われるきっかけのテレビ放送があったわね。街中インタビューの事件。それを最初に見つけたのは、その宗教だかの関係者だったというわけね?」
「いえ、創設者その人だったということです。それほどに執心していたということかもしれませんけれど」
サニーはため息をついた。
「じゃあ突き詰めてしまえば今回の件、そもそもきっかけもエツコが作った、ということなのね」
サニーは考えていた。
今里は公安関係の人間だという。つまり日本の諜報機関はエツコの能力について知っていて、それ自体が脅威ともなることも知っていて、さらにそれを利用しようとする組織についても知っていて、今回の事件で、その力を人為的に生み出す機械さえ出来上がっていて、その機械は使い方を間違えれば無差別テロを起こしかねないことも知った。
「ねえ、日本政府としてはエツコをどうしたいと思っているの?」
「俺はしがない公務員っすよ。けれど、この機械を葬り去るためにはエツコの力に頼るしかないと思っています。それにもう一つ。バズからの情報ですが、先ほどオフィスに来たトライバイテックの戦闘員とは別にエツコ達を追っているやつらがいるとのことです。しかし、それを追うためにはランビィエキャストの影響下を通り抜けなくてはなりません。俺はエツコの命を救い、ランビィエキャストを奪取するのが任務です」
「待って。でも日本の宗教団体かなにかしらないけれど、その人はエツコが欲しいんでしょ?どうして殺害するって話になってるの?おかしいじゃない」
「ええ。殺害命令を出したのは日本側組織じゃありません。トライバイテックの開発担当者なんですよ。言ってみれば、エツコはトライバイテックの開発したランビィエキャスト、そのオリジナルだとも言えるんですよ。未だプロトタイプでしかないランビィエキャストとは違い、完成された原型モデルってわけなんです。それをライバル企業が手に入れようとしてるわけっすから。破壊命令が出てもおかしくないんすよ」
「オリジナル(原型)モデルって、エツコねえやんは人間なのよ?機械じゃない」
「そんなこと俺に言われても、殺害命令を出したのは俺じゃないっすから」
今里はハイウェイを下りると一軒の家の前にクルマを停めた。すでに先ほどの中古ファルコンが停まっている。今里はサニーにクルマの中で待つように言うとトランクを開けた。
「阿部さんのクルマに取り付けたものと同じものです。ランビィエキャストの影響を防ぐことができるのは、今日、オフィスで実験済みです」
「それをいつの間に・・・」
サニーは今里をにらみつけた。
「これは世界に2つしかない機械です。一つは阿部さんのクルマに載っています。俺たちはこれを使ってエツコを追います。さあ、取り付けを手伝ってください。サニーは協力するしかないんすよ」
ああ、エツコという名前だった。
僕の名前はなんだったろう。エツコは僕の名前だろうか?いや違う。エツコは殺さなきゃ。誰かに殺してもらわなきゃいけない。じゃあ僕の名前はなんだろう。思い出せない。
また景色が見える。たくさんの人がエツコを殺そうとした。けれど、みんな間違えた。僕はみんなに伝えたのに。みんな間違えた。
けれど、もうそれもどうでもいいか。
さっき、またエツコが見えた。あの子はかわいい。
でも、怖い。エツコは僕よりも強い力を持っているらしい。そもそも僕の力もエツコに出会ったから使えるようになったんだって誰かが言っていた。あれは誰だったんだろう。僕はその後、どこかに閉じ込められた。自分の手足が見えない。けれど、他の誰かの見ているものは見えるんだ。
エツコは、ずっとそうだったんだろうか。
あの時、僕は撃たれた。意識が遠くなっていった。もう死ぬんだって思った。
僕は夢の中でエツコに会っている。エツコが僕をこっちの世界へ引き留めた。あの時、きっと僕は死ぬはずだったんだ。エツコは僕を助けてくれた。
でも、助けてくれたけれど、僕は閉じ込められた。
どうしてエツコは最後まで僕を助けてくれなかったんだろう。タカはどうして僕を見捨てたままなんだろう。
タカ?
タカって誰だったっけ?
思い出せない。
頭が痛い。
考えることが出来ない。考えようとすると、すごく頭が痛いんだよ。
ああ、もうどうでもいいや。
その小さな町でガソリンを補給した。阿部は先を急ぎたかったのだがエツコは食事にしたいと言い張った。
「阿部くん、ミートパイくらいしか売ってないけど食べなきゃおなか減っちゃうよ」
「ミートパイ?テイクアウトしろよ」
ミートパイとは、言ってみればパイ生地の肉まんを大きくしたようなものだ。
「運転しながら食べるつもり?だって阿部くんのスカイラインは運転難しいんでしょ?死にたくないわ。座って食べようよ」
日差しは西に傾きかけていた。しかし日陰のない乾燥した砂地はじりじりと熱せられて今にも燃え出してしまいそうだった。エアコンの効いた車内ならまだしも、こんなところで。しかし、エツコはすでに木陰のベンチに向かって歩き出していた。
「わかったよ。しょうがない」
阿部はスカイラインのドアをロックするとエツコを追った。
「このままシドニーまで行くの?大陸横断ドライブになっちゃうね」
「いや、とにかく逃げ回っていろというのがサニーからの命令だからな」
「いつまで?」
ミートパイを口いっぱいにほお張りながらエツコは尋ねた。
「さあな。連絡あるまでだな。トライバイテックだってオレ達を見失えば諦めるだろ」
「そんなのいつになるかわからんやん」
エツコはもう一つの包みを阿部に渡した。それは周りの気温より、少し温かいような気がした。まあ、オーストラリアの名物だっていうしな、と阿部は思った。
「ねえ、阿部くん」
「なんだ?」
「もうさ、こっちから出向いていってやっつけちゃおう。そのトライバカとかっていう機械だって、壊しちゃえばいいんでしょ?」
「壊せればな。逃げているうちはいいんだ。敵は後ろからやってくるからな。追いつかれないように逃げればすむ。だがな、こっちから向かっていったら敵と正面衝突になっちまう。忘れているようだがな、敵は80パーセントの無関係な人間を操ることが出来るんだ。そのうち行動に移す可能性は2割くらいか。サニーのいうことを信じるならばすれ違うクルマの10台に1台は突っ込んでくるぞ」
「やっかいね。けど、その操られているっていう人だけどさ」
「ああ」
「それって、わたしがコントロール出来るんじゃないかって気がするのよ」
阿部はミートパイを一口飲み込んだ。作り起きのミートパイだな。肉汁が生地に染み込んでしまってベタベタだった。
「つまり、ハッキングされている人間をさらにハッキングするってことか?」
「そう。正面衝突してくるとしても私がそうさせないようにすればいいんじゃない?」
阿部は考えていた。遠くからコントロールしているトライバイテックよりも近距離のエツコの影響力の方が強いのではないか。いや、その精神波に距離という要素が関係するとしてだが。
「だめだ。危険すぎる」
「どうして?わたしはきっとうまくいくと思うけどな」
阿部は立ち上がった。
「オレ達のことだけじゃない。そのコントロールされている人間のこともだ。二重のハッキングを受けるのは危険なんじゃないのか?それは自分の中に3重の意思が存在するってことだろう?そんなことになってマトモでいられるものなのか?」




