ノッド・オブ・ランビィエ
「大丈夫か?エツコ」
阿部は助手席で丸くなっていたエツコに声をかけた。160キロで走り続けていた。さっきの土煙でパトカーは追跡をあきらめただろうか。あの煙は数分は収まらないだろう。トレーラーだって停車しているはずだ。
あの視界の中で路肩を走り抜けるのは不可能だろう。
「死ぬかと思ったわ」
エツコはシートベルトに寄りかかるように体を起こした。
「どこか怪我してないか?」
腕や腹をさすりながらエツコは阿部をにらみつけた。
「たぶんね。体が千切れるかと思ったじゃない。ジェットコースターだってこんなことにならないわ」
「次からはしっかりと座っていろよ」
「まったくひどい目に遭ったわ。先が思いやられる」
「もうしばらくはこのまま走り続ける。パトカーに追いつかれる可能性もあるしな。パイロットランプも消えていない。敵の範囲にいるってことだ。距離を稼ぎたい」
同時刻、パース。
サニーはセルティックコーポレーション・パース支社のオフィスでテレビを見ていた。
「ねえやんたち、無事かな」
支社のスタッフは8名。すべて15分前までは1室に集まっていた。精神波の影響をキャンセルするためで、有効範囲は1室程度に限られていたからだ。8名のうち6名は科学者であり、脳科学、電波工学を専門としていた。サニーともう一人は作戦の指揮とトライバイテックの動きを監視するために行動している。
テレビではパース市内の映像が流されており、市内各所で暴動、殺人、傷害、事故が多発していた。それはたった半日の間に起きたことであり、その意味するところはトライバイテックの精神波攻撃による影響だと思われた。
「これじゃ無差別テロだわ」
サニーはため息をついた。シドニー支社から送られてきた新たな資料に目を通す。
「ランビィエキャスト?」
「そう、トライバイテックはそう呼んでるらしい」
今里、とネームプレートをつけた男が答えた。連絡要員であり、サニーともう一人の科学者ではないスタッフ、ということになる。ほとんどセルティックコーポレーションから出ることはない。実質的にパース支社はこれまでに活動した履歴などなかったのだ。オーストラリアの支社はシドニーにあり、パースの支社というもの自体、今回の件に関して臨時にダミー会社を作っているに過ぎない。人員は最低限だ。
「ランビィエ?ノッド オブ ランビィエ?」
そう言ったのは、シェリルと呼ばれる科学者だった。研究用白衣を着てコーヒーを片手に近寄ってきた。
「シェリルねえやん、なんか知ってるの?」
薄い金髪、真っ白な肌、しかしそれは病弱な印象しか与えない。もうちょっと日向に出て行かないと病気になっちゃうんじゃないか、とサニーは思った。
「ランビィエの絞輪のことよ。神経細胞の軸策繊維ってわかるかしら」
シェリルは脳科学者だ。
「ちっともわからないっす」
と、今里は答えた。
「ニューロンのこと?」
サニーは神経細胞について少しは詳しくなりつつある。
「ニューロン、というは神経細胞のことよ。人間の脳のうち9割はグリア細胞と呼ばれてる。で、残り1割がニューロン、神経細胞ね」
シェリルはコーヒーをすすると続けた。
「ニューロンはね、3つの部位に分けられるの。細胞体、軸策、樹状突起ね」
「シェリルさん、もうすでにわかんないんですけど」
今里が困った顔で遮った。
「うーん。イメージだけ掴んでもらえればいいんだけど。そうね、あなたの右手を出してみて」
「え?こうですか」
今里はTシャツから伸びる日焼けした腕を差し出した。
「この手のひらの部分、これが細胞体。まあ、乱暴に言えば神経細胞の本体。で、この指の部分が樹状突起。他の神経細胞から信号を受け取る役割をしてる」
シェリルは今里の腕をつかむと続けた。
「指先から信号を受け取って、手のひらの部分、細胞体で電位を発生する。ものすごく簡単に言えば、リンゴを見るという信号を樹状突起、指先で受け取って、それが赤いという情報にする、まあ、一個のニューロンでそれがわかるわけじゃないんだけど。だから、これは乱暴な説明よ。それで、この電気信号を次へ伝えるのが軸策っってわけ。この腕の部分。腕の先はまた、たくさんの突起があって、これが他の樹状突起に信号を伝えていくの。
それでね、この腕の部分。本体は中にある軸策なんだけど、これに連続的にカバーみたいなものがあるの。これはシュワン細胞。このシュワン細胞のことをミエリン鞘と呼んでいるのだけど、まあ絶縁体みたいな役目してるの。それでね、この鞘の間にあるのがランビィエの絞輪」
「やっと出てきましたね。ランビィエ」
「このランビィエの絞輪があることによって、神経パルスの伝達速度は10倍から100倍くらいに加速されるの」
「へえ。なんかわからないけどすごいっすね」
「シェリルねえやん、トライバイテックのランビィエキャストと、そのランビィエの絞輪は関係あるのかな」
「わからないわね。サニー。けれどひょっとしたらこの部分が外部へのアンテナになってるのかもしれない。まあ、人の脳なんてわからないことだらけだから。トライバイテックだってわかってないのかもしれないけどね。偶然にそういう名前をつけただけなのかもしれないし」
「ランビィエキャストのキャストって放送とか、そんな意味よね。トライバイテックはこの無差別テロを引き起こした装置をランビィエキャストと呼んでいる」
「名前がつくって言うのは悪いことじゃないわ。物事が具体的になる。ランビィエの絞輪についても調査してみるわね。なにかわかるかもしれないし。サニー、わたしはテレビを見ていて本当に怖くなったわ。トライバイテックはいったい何をしようとしてるのかしら。わたしはこれを阻止したい。いや、絶対に阻止しなくちゃいけないわ」
サニーは今里に引き続き情報収集をするように頼むと、自分のパソコンを起動した。本社への報告書を作成する。今回の件は予想以上の被害だと思った。わかる範囲で被害を最小限に食い止めたつもりでいた。しかし、トライバイテックの行動はあからさまだった。
警察へ通報することも考えた。しかし、こんな話が信用されるだろうか。不特定多数の頭の中にメッセージを送り込んでいるんです、と言ったらまるで精神病患者のようだ。集団妄想とも思える。もしも警察を関与させるにしても本社経由で信用に足る情報を集めなくてはならない。
エツコのデータは説得力があるかもしれない。実際に一度は他人の意思を操っているのだから。それにしても、と思う。たったの半日でいったいどれほどの事件が発生しているのだろう。トライバイテックのランビィエキャストは確実性という意味ではかなり信用度が低い。標的はエツコのはずだ。テレビでは死亡者の写真が映されていた。観光の日本人が交通事故で死亡、というニュースだ。黒髪のロングヘア、という以外にエツコに似ているところなんてない、とサニーは思った。ランビィエキャストが不特定多数の脳に送り込む情報はあいまいなのだろうか。
そうじゃない。受け手の問題なのだ。
オーストラリアにおいて外国人であるエツコの顔を判別するのは難しい。日本人と韓国人だって区別はつかないだろう。つまりアジア人の若い女性というだけで危険だとさえ言える。影響はどのくらいの持続性があるのだろう。脳内に一度送り込まれたメッセージは、いったいどのくらいの影響を与え続けるのだろう。記憶の中に刷り込まれたメッセージは長く留まるのだろうか。
別のニュース映像ではブルーのセダンがトレーラーに追突されてぐちゃぐちゃになっていた。車種はわからない。けれど、スカイラインではないことは確かだ。標的以外を攻撃してしまうなんて。こんな機械を作ってなにをする気なのだ。
こんな自体をまったく予想していなかったわけではない。けれど、これは無茶苦茶だ。エツコをパースから遠ざけたのも、エツコ自身の安全もあったが、パースに住む日本人女性を守りたかったし無意味な事故を防ぎたかったからだ。それなのに。
トライバイテックは、エツコ殺害を実験として行っているのかもしれない。
サニーは気分が悪くなってきた。どんな影響が出ても証拠はない、ということか。標的を知っているサニーにとって明白なことだったとしても、それを知らないものにすれば奇妙な偶然でしかない。ぐちゃぐちゃにつぶれたセダンに追突したトレーラーのドライバーも被害者だ。彼だって、操られていただけなんだから。
エツコの能力は、特定の人の意識を操ることだった。考えていることを見抜き、行動を操る。それは個人の心に働きかける。だけど、ランビィエキャストは違う。不特定なすべての人間に同じメッセージを送り込む。それは曖昧で、無意味な事件を大量に作り出す。
無差別テロだ。そして、肝心の標的は逃げ続けている。確実なことはわからなかったけれど、あの男なら逃げおおせるだろう。こんな不確実な影響をもたらす装置では、エツコを殺すことなんて出来ない。
「サニー」
いつの間にか今里が後ろに立っていた。
「なに?どうしたの?」
「下のフロアに侵入者です」
「でも、今日は現地スタッフはいないはずでしょ。鍵も掛かっていて」
「そうなんすけど、誰かが鍵を壊して侵入している」
「まさかランビィエキャストは、このオフィスも攻撃対象にしているんじゃ・・・」
「たぶん、違うっすよ。防犯カメラの映像を見た。サブマシンガンを携帯している。あいつらは戦闘員っすね」
「そんな・・・」
「戦うしかないっす。警察には通報してあるけれど間に合わない。それまで最低20分、ここを持ちこたえなくては」
そう言うと今里はロッカーから拳銃を取り出す。コルト社製10mmオートだった。サニーも引き出しからワルサーPPKを取り出すとスライドを引いて初弾をチャンバーに送り込む。トライバイテックの戦闘員。マリアちゃんが言っていたやつかもしれない。44マグナムで撃たれても攻撃してくるって言っていた。そんなやつ、どうやって止めるのよ?




