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マグナ

 衝突の直前、そのフェンスが日本でよく見るヤワなものではなく、明らかに侵入者避けの頑丈な鋼鉄製のものだということに阿部は気づいたがアクセルは緩めなかった。グワッシャ、という金属が捻れるような衝突音の直後にマグナのボンネットは真ん中から折れ曲がり前方の視界の下半分ほどを遮った。続いて金属同士がこすれあう鋭い音が響いた。マグナは右にハンドルを取られて車体が流れた。

 メルセデスのドライバーは目の前の障害物に向かって突進していく白いマグナに恐れをなしてブレーキを踏んでいた。マグナはまっすぐに、その高さ10メートルほどのフェンス壁に突っ込むとフェンス同士の繋ぎ目を破壊して向こうへと突き抜けた。フェンスは大きく歪み一部の繋ぎ目が破壊されたことで通り抜けることが出来るほどの隙間が開いたのだ。だが、それは映画で見るようなあっけない破壊ではなく、偶然に傾いたフェンスの隙間を突き抜けたといったほうが正しいような光景だった。マグナのボンネットは激しく歪み、ルーフは落ちてきたフェンスの重量で潰されていた。時速180kmは出ていたはずのマグナは衝突の瞬間に半分以下の速度に落ち込んでいた。衝突の瞬間にはマグナの後部は地面から1メートルは浮き上がっていたように見えた。

 阿部はスピンし始めたマグナにカウンターをあてて車体の安定を取り戻した。予想以上の衝撃に阿部は顔をしかめた。ステアリングを支えきれず阿部は右腕を激しく捻っていた。

ほとんど力が入らない。左手だけでステアリング操作をしながらもマグナは回転はしないまま走り続けていた。

「マリア!」

 前方を見たまま阿部は怒鳴った。返事はなかった。

「マリア、大丈夫か?!」

 すばやく後ろを振り返るとマリアは後部席と前部席の間に倒れていた。その腕の奇妙な角度をみて阿部はぞっとした。

「マリア!」

 叫んでみても、答えるものはいなかった。

 

 シンヤは車内の奇妙な静けさにとまどっていた。

 サニーは、じっと後部席から運転するジュンの背中を睨んでいるように見えた。エツコは自分が座っているシートの染みを避けようと変な角度で体を傾けていた。それはシンヤが以前にインドネシアのインスタント麺である、ミーゴレンをこぼしたものだったが、この雰囲気では言い出せないと思った。運転するジュンは、何を考えているのかわからない表情で真剣にハンドルを操っていた。時々、変なダジェレを言うジュンのことをシンヤは信用していた。ドライバーとしての腕も確かだ。再び視線をエツコに戻すとシンヤは、とにかく何か話題を作ろうと思った。

 その途端、

「あ」

 と気の抜けた声でエツコが声を立てた。

「シンヤくん、まずいわ」

 緊張感のないトーンのまま、エツコはシンヤの顔をまっすぐに見て言った。

「え?エツコねえやん、なに?トイレ?」

 サニーがエツコに振りかえった。

「違うねん。マリアちゃんがまずいわ」

 事情を飲み込めないシンヤは「え?どうしたんですか」と言ってみる。マリアっていうのは、たしか阿部さんのマグナに乗っていたハーフの若い白人の名前だったはず。どうして突然にマリアのことをエツコが言い出したのかわからなかった。それに、エツコという女性にシンヤは、まだ名前を教えていなかった。

「ジュンくん、ユーターンして。助けに行かなくっちゃ」

 エツコはバシバシっとシンヤの座る助手席を叩いた。

「それって、阿部さんとマリアちゃんに何かあったってことなん?テレパシーで分かったってことなん?」

 サニーがエツコの目を覗き込んだ。

「そうやねん。マリアちゃん、大怪我してる。助けないと、助けないと死んじゃうかも」

サニーは何か痛みを感じたように顔をゆがめた。マリアを助けたい気持ちは、すごくある。けれど・・・

「ダメ。マリアちゃんはエージェント。エツコを危険から遠ざけるために一生懸命になっていたから。エツコねえやんを安全なところに行かせるまでは助けにいけない」

サニーは泣きそうな気持ちだった。

「その、マリアちゃんって、どこにいるの?」

 唐突にジュンが低い、魅力的な声で言った。

「もしも、マリアちゃん、を助けて、それでエッちゃんも助かれば、助けに行ってもいい、違う?」

 奇妙に説得力のある声だった。不思議なトーンでジュンは話す。


 エツコもそうだった、とサニーは思っていた。このジュンという青年もそうだ。

 今回のミッションで出会った人は、みんな楽観主義だと思った。あっちもこっちも全部うまくやって、両方ハッピー、みたいな感じがある。マリアちゃんを助けてエツコも危険に晒さないなんて出来るわけがないと思った。けれどサニーは黙っていた。エツコは饒舌に話し始めた。

「マリアちゃんの気持ちとリンクしてるわ。状況がわかる。マリアちゃん、倒れてる」

「怪我はひどいのかな?」

 ジュンはファルコンの速度落とすとバックミラー越しに尋ねた。

「ひどいわ。強くシートにぶつかった。意識が薄くてよくわからないけど、右腕を骨折してる。阿部くんがマリアちゃんに後ろの席に行くように命令した。その後、何かに衝突したんよ。だからふっとばされてぶつかった」

「マグナは動いている?」

「クルマは動いてるわ」

「阿部っていう人にはリンクできないのかな」

 ジュンの言葉に、サニーもシンヤも、はっとした。そうだ、それでこちらと状況をやりとり出来れば、もっと状況がつかめる。

「それは・・・」

 エツコは皆に見つめられて言い淀む。

「それが・・・あの阿部くんっていうのだけは苦手やねん。なに考えてるかわからん」

 エツコは皆の視線から目をそらす。

「とにかく、マリアちゃんにメッセージを送ってみる。ジュンくん、悪いけどユーターンして、あたしの言うとおりに走ってくれる?」

 サニーは何も言わなかった。ジュンの不思議な声のトーンに説得されてしまったように思えた。いや、そう言い訳しているのはわかっていた。何故だかわからなかったけれど、不思議とうまくいきそうな気がした。それが経験と知識に照らし合わせてみて、完全に間違った判断だとは思っていたけれども。


 阿部はマグナが走り続けられるのは長くない、と思った。

 衝突の衝撃でボンネットは大きく曲がって視界の下半分を隠していたが、それは大きな問題ではなかった。それよりもバンパーのすぐ後ろに位置するラジエーターに損傷があるのが問題だった。ラジエーターはガソリンを燃やした燃焼エネルギーでエンジンが過熱しないように冷却するための装置だ。それが損傷するということは、エンジンが異常過熱して壊れてしまうということだ。ルームミラーで後方を確認すると、メルセデスはフェンスの向こうで動き出すところだった。諦めたとは思いにくい。

 フェンスの内側は工場のようだった。遠くから見えた施設の感じから、阿部は、それが浄水施設だろうと考えていた。オーストラリアは慢性的な水不足に悩まされている。そこで海水から脱塩して飲用水を作るのだろう。インド洋へ伸びる大きな施設にはライトブルーのカラーリングが施されていた。

 どこかに入り口があるはずだ。

 阿部は勘を頼りにマグナを走らせ続けた。水温計はじりじりと上昇している。せいぜい15分くらいでマグナは走行出来なくなるだろう。

 ちらっと後部席を振り返る。

 マリアはぴくりとも動かない。

 状況は最悪だ、と阿部は思った。メルセデスは広大な施設の正面入り口へ回りこむつもりだろう。こちらからすれば唯一の出口だ。

 くそ、出口はどっちだ。

 頭の中で俯瞰図を思い浮かべる。突入したフェンスは海に面している。どう考えても正面出口は海とは反対側にあるはずだ。マグナのステアリングを大きく切り込むとバリバリっという音と振動が伝わってきた。壊れたインナーフェンダーだろう。直進に戻すと音は止んだ。アクセルを踏み込む。歪んだボンネットの先から白煙が盛大に立ち上った。水蒸気だ。破れたラジエーターからエンジン冷却水が噴き出しているのだ。

「カンガルーバーを付けときゃ良かったんだ」

 阿部は自嘲気味につぶやくと水温計に目を遣った。水温は高めだがノーマルの範囲内にある。日本では考えられないほど無駄に広い敷地を駆け抜けていくと建物の表側に出た。ちょうど進入してきた大型トラックの脇を走り抜けると、そのトレーラーは盛大なクラクションを鳴らした。警告のつもりか、それともクレイジーなやつがいるもんだ、と喝采してくれたのか、阿部にはわからなかった。いずれにせよ、停まるつもりはまったくなかった。スピードメーターは機能し続けていて、時速90キロを指していた。ゲートが迫る。警備員の姿をちらりと見たが、突如として現れた派手に壊れたマグナを制止するわけでもなく、ただ呆然と見送った。

「アスタラビスタ、ベイビー」

そうやって、つまらないことを言うということが、実は余裕ではなくて現実逃避だと阿部は知っていた。


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