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フォード・ファルコン

 シンガポール経由の空の旅は快適といえば快適だったが、そうでないといえばそうではなかった。まずそれはエコノミーの席だったし、中継地での待ち時間を含んで丸一日を要した。だが、食事は出るし、ビールも飲んだ。小さな画面で映画も見たし、適当に眠ることも出来た。だが、パースに到着する頃には、阿部は疲れていた。

 それでも入管で気を抜くわけにはいかなかった。

 なんといっても阿部は身分を偽っているのだ。たとえそれが本物の戸籍で作った本物のパスポートだと言われても、阿部には理解できなかった。だが、それも取り越し苦労だった。何事も無く入管を通り過ぎると、阿部は、ほっと息を吐いた。

阿部の荷物は最小限だった。ほとんどが着替えと身の回りの物だけだ。しかも季節は日本の反対だから真夏である。着替えといっても嵩張らない。バックパック一つあれば事足りた。

 そうやって空港の外へ出ると、そこは既に夜中だった。

 現地時間はサマータイムのため、日本のそれと一緒だ。真夜中の2時。

 現地のスタッフとかいうのが来ているはずだった。阿部は心配になっていた。さっきの入管で阿部の英語能力が大して高くないことは実証済みだ。はたしてこれから先、英語圏の国で仕事なんかになるのだろうか。

 だが阿部は首を振った。

 そんなことを考えてどうなるものでもない。なるようになる。

 そう考えて再び回りを見渡した。照明の中に駐車場が見えた。郊外の私鉄駅のような作りだと思った。このまま歩いて空港を出て行くと、蛙が鳴いている田んぼでも出てくるんじゃないかと思った。

 他の乗客を迎えに来る車も日本のセダンが多かった。ナンバープレートを除けば、それはハンドルの位置さえ一緒だから変な錯覚を起こす。ただ降りてくるのは白人だった。大げさな抱擁をして別れを惜しむ恋人や、仲間を送り出す友人達。

 ところで、オレの迎えはどこなんだ、と阿部は思っていた。

 そうして、いったいどんなやつが迎えに来るのか聞いていないことに気がついた。


「川崎シノブさん?」

 そう声を掛けてきたのは、丸坊主頭の日本人だった。

阿部は一瞬、それが自分の名前だと言うことを忘れていた。パスポートに記載された名前だった。

「あ、そうそう。川崎です」

 男の年齢は想像が出来なかった。若いようにも見えて、そうでもないようにも見えた。日本語で声を掛けられたから日本人だと思ったが、ひょっとしたら中国人かもしれない、と阿部は思った。

「迎えに来ました。ボロですけど、乗ってください。あのクルマです」

 そういう先を見れば、随分と古いステーションワゴンが停まっていた。

「80年代っぽい車だな」

 阿部はつぶやくと歩き出した。

「荷物は?それだけ?」

 男は阿部のバックパックを指差して質問した。

「これだけだ」

「そうですか。じゃあ行きましょうか」

 驚きもせず男はクルマのドアに手をかけた。

 乗り込んで、それが右ハンドルだということに阿部は気がついた。フルサイズアメリカンワゴンかと思っていたが、どうやらそれはオーストラリアの国産車なのだと気がついた。

「パースへは観光で?」

 男はオートマをドライブに入れながら尋ねた。3速オートマチックかよ、と阿部は思っていた。

「さあね。ビザはコンピュータかなんかのやつだったけど」

「イータスビザってやつですね」

 男はポケットからクシャクシャの帽子を取り出すと被った。カウボーイハットのような帽子だった。

「僕はヒデって呼んでください。僕の仕事は川崎さんを今日の宿へ案内すること、それからセルティックコーポレーションのオフィスへ川崎さんを連れて行くこと。あとは今日と明日の2日間の通訳ってところです」

「ヒデ?」

 阿部は胡散臭そうにヒデと名乗った男を見た。

「ああ、みんなそう呼んでるんですよ。こっちではそれが普通なんです。誰も苗字なんかじゃ呼びません」

 阿部は頷いた。

「ローマにあってはローマ人に従えってことだな。OK、じゃあオレはなんて呼ばれるんだ?」

 ヒデは首をすくめた。

「さあ。シノブっていうのはどうですか?」

 阿部は首を振った。

「おれはイマイチその名前が気に入らないんだよ」

 ヒデはクルマをロータリーから闇の中へと運転していた。阿部は国際ターミナルのロータリーを出た瞬間から真っ暗になったのに少し驚きながらも運転するヒデを観察していた。ひょっとしたら、この男は20代の半ばくらいなんじゃないだろうか。帽子をかぶると若く見えた。それに年齢相応の容貌のはずの阿部に丁寧な言葉遣いをする。阿部は29だった。

「じゃあ川崎さん、イングリッシュネームでも付けたらどうですか?」

とヒデは笑った。


 阿部は無意識のうちにクルマの状態を考えていた。

 年式は80年代半ばくらいだろう。3速ATだがトルクはある。音からするとV8エンジンを積んだモデルのようだった。排気量は4リッターくらいか。

「なんて名前なんだ?」

「え?フルネームですか?僕の。それとも、イングリッシュネームの話?」

「いや、悪かった。クルマが専門なんだ。これはオーストラリア製のクルマなのか?」

 うんうん、とヒデは頷いた。

「フォード・ファルコンていうんです。古いボロですけどね。なにせ100ドルで買った」

「100ドル?」

 阿部は日本で両替したオーストラリアドルのレートを思い出しながら言った。それじゃあ1万円くらいじゃないか。

「そんなに安いものなのか、オーストラリアでの中古車ってのは」

「まさか。そんなことはないですよ」

 そう言いながらヒデは空港施設内の道路から一般道へと右折したようだった。だが、明かりが無いのは変わらない。ひどく何も無い。暗くてわからなかったが、おそらくそこはサバンナか砂漠のようなところなのだろうと阿部は思った。

「普通はこんなに安くは無いですよ。でも、これは本当に運が良かった。100ドルなのに、まだ壊れない」

 ファルコンは低いエンジン音を響かせながら速度を増していった。時速100キロくらいで巡航に移る。

「シティーまでは20分くらいです。今日はシティーのホテルの前まで送っていきますから。必要ならチェックインの手続きしますけど?」

「大丈夫。そのぐらいのことなら自分で出来るよ」

 阿部は目を閉じた。少し眠りたかった。自分で運転できない乗り物は苦手だった。目を閉じても結局はエンジン音に耳を澄ましている。

「排気漏れがあるな。後部席の下辺りだな。バルブタイミングも狂っている。それとリアのサスは死んでいるな。デフもおかしい・・・」

 それを聞いてヒデは笑い出した。

「川崎さん、面白い人ですね」

 阿部は目を開いた。

「そうか?」

「本当に車が好きなんですね」

「そんなことはないよ」

 ヒデは左手を振った。

「日本人の悪い癖ですよ、そういうの。自分の好きなことは好きってはっきり言った方がいいんですよ」

 今度は阿部が笑い出した。

「その通りかもしれないな。ここはオーストラリアだから。こっちの考え方でいかないと、これからきつそうだ」


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