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シーケンシャルトランスミッション

 阿部とヒデは腹ぺこだった。

 ガソリンを入れたときにミートパイを食べただけで、あとはコーラしか飲んでいなかったからだ。しかし食べるものは誰も持っていなかった。宿も、とうに売店を閉めていて、ありつけるのは、やっぱりコーラかファンタだけだった。しかも自動販売機は1缶2ドルの割り増し料金だった。

「次からは食料を積んで走ることにする」

 阿部はそう宣言したが、だからといって現在の状況はかわらなかった。

「マリアたちは平気ね」

「ああ、そうだろうさ」

 どうにもならないので、阿部はさっさとベッドに潜り込んだ。シャワーは一つしかなかったから、エツコ、マリアと先に使った。ヒデは「後でいいですよ」と阿部に順番を譲った。

「ヒデ、おくゆかしい日本人だね。いいお嫁さんになるよ」

 エツコが言う。いずれにしても業務のような手早さで皆がシャワーを浴びた後、明かりを暗くした。

 阿部は疲れから、すぐに寝入ってしまった。マリアは起きているようだったが、阿部の睡眠の邪魔にならないように、じっとしていた。仕事に忠実なところは、阿部が良く知っていた。翌日のドライブは重労働だった。睡眠不足は安全に関わる問題だった。ヒデも疲れていたのだろう。エツコだけが、一人眠れずにいた。

 どうしてわたしは、こんなところにいるのだろう。

 ベッドを抜け出すと、脱いでいたジーンズに足を通して外へ出た。

 枯れかけた芝の上へ座ると耳をすませた。

 オーストラリアは夏の真っ盛りだった。だけれども、湿度が低いために夜は比較的涼しい。エツコは空を見上げると星を眺めた。

 その時、一台のクルマがモーテルの駐車場へ入ってきた。時計は12時近くだったはず。こんな夜中に何処へ行っていたんだろう、とエツコは思った。遊ぶところはないのに。

 だいたいモンキーマイアでは携帯電話さえ使えないのだ。

 クルマは新しそうな黄色いやつだった。月明かりを反射する感じから、それが新しい車だと思っただけで、エツコにはクルマの種類や年式を当てる知識は無い。それが黄色いファルコンXR8で、タカが運転しているのを知ったのは、それから数分後のことだった。


 タカはエツコを見た時、自分の目を疑った。

 わざわざターゲットの方から出向いてくるとは。鴨がネギ背負って、とはこのことだ。あとはどうやって連れて行くか、だが。

 深く考えていても仕方が無い。それに見知らぬ他人というわけでもないし、な。さっき命を救ったばかりだ。本人の命では無いが。

 ファルコンを停めると、タカは降りて行って声を掛けた。

「一緒に来るか?」

「ああ、さっきの人ね。よくここがわかったわね?」

 エツコは一瞬だけタカを見つめた。それから数秒、考え事をした。

「行くわ。いろいろ事情も知りたくなってきたし。だけど条件があるわ」

 タカは面食らった。そんな簡単に付いて来るというなんて。しかも条件まで言い出すなんて。いろいろセリフを考えていた自分がバカらしくなってきた。この女は、何を考えているのだろう。それとも、スカイラインのやつら、よっぽど待遇が悪かったんだろうか。

「モンキーマイアリゾートに戻って荷物を取って来たいの。それとキッチンハンドのジョブ、明日までだったの。だから明日の夜にしてほしいんだけど」

「本気で言っているのか?」

「本気よ。自分の言ったことにはスジを通したいの。仕事は明日までっていう契約になっているの。あと一日ぐらい調整してくれたっていいでしょ?それで契約どおり働いて、気持ちよく給料を貰ってから出発したいの」

「命がかかっているんだぞ?」

「わたしは殺されないんでしょ?」

「そうかもしれないが、連れ去ろうってやつなら他にも出てくるかもしれない」

 そう言うとタカはリョウのことが頭に浮かんだ。普段は信じていないが、こんな時ばかりは神頼みもしたい気分だった。

「わたしの安全の確保は任せるわ。あ、まだ名前を聞いてなかった。教えて?」

「・・・タカ、と呼んでくれていいよ」

「いいわ、タカね。じゃあクルマまで連れてってよ。助手席のドアは自分では開けないから、よろしくね」

「奴隷みたいだな」

タカがつぶやいたのをエツコは聞き逃さなかった。

「いいわね、じゃあ奴隷一号にしてあげるわ」


 さっきも走ったはずの道路を、また逆に向かって走っている。

 デンハムの町へはシャワーを浴びに行っただけみたいなものね、とエツコは思った。タカという男、危険は感じなかった。拳銃を隠し持って車から降りてきたにせよ、それを使う意思は感じなかった。

「ねえ、わたしが一緒に行かないって言ったら、どうするつもりだった?」

 タカは考えていた。

「そうだな。諦めて帰ったよ」

 残念ながら、それは嘘だった。神経を尖らせていたエツコにはお見通しだった。

「ねえ、知っているでしょ、わたしのこと。嘘ついても駄目なんだから」

 タカはくすぐられた時のような笑い声で言った。

「そうだった、そうだった。忘れていた。他人の心が見通せる特殊能力の持ち主だった」

 エツコはさびしそうに笑った。

「いつもじゃないわ。出来るだけ使わないようにしている。不自然な関係を作りたくないから。だからしゃべり続けるの。話している間は他人の心の声は聞こえないの。たぶん、集中していないからだと思うわ。うるさいって思うかもしれないけど、そうしていないと聞きたくない声が聞こえるの」

「なるほどね。だからおしゃべりなのか。噂は聞いていた、パースで。よくしゃべるやつだって」

 それには答えないでエツコはシートバックに体をよじった。

「ねえ、なにか食べるものないの?」

「クラッカーとワインぐらいしかないぜ」

「いいわ、それ。どこにあるの?わたしのワイン」

 しゃべりながら荷物をかきまわすと、エツコはワインボトルを引き抜いた。

「わあ、パック入りじゃないワインだわ。高いやつ?」

「いや、そうでもない。20ドルくらい」

「充分だわ。コルク抜きは?」

 運転しながらタカはダッシュボードから多徳ナイフを取り出した。直線道路にはぶつかるものもない。少々ふらついても事故にはならなかった。

 エツコはワインのコルクを苦労して開けるとコップを探したが、見つけられなかったので、そのままラッパ飲みした。それから、そのボトルを突き出して「飲む?」と聞いた。

「いや、運転してるから」

「そっか。それはマズいわ。ワインはおいしいけど。残念ね」

そういうとエツコはワインを、また一口飲んだ。


 マリアはクルマの音を聞いた気がした。

 あれはフォードのV8ね、とマリアは思っていた。彼女の父親はカリフォルニアでカーディーラーをしていた。おかげでマリアはクルマに詳しくなった。それが縁で阿部と知り合ったし、マリアのような仕事には役に立つことも多い。

 阿部を起こさないように、そっとベッドを抜け出すと窓際に寄ってカーテンの隙間から外を覗いた。ちょうどエツコが黄色いフォードのピックアップに乗り込むところだった。

マリアは阿部を起こすかどうか躊躇して、眠りこけている阿部を起こしても運転は無理だと判断した。阿部のジーンズからスカイラインのキーを引っ張り出すと外へと飛び出した。黄色いピックアップは駐車場を出て行くところだった。スカイラインへ駆け寄ると飛び乗ってエンジンをかけた。

 その轟音で阿部は目を醒ました。

 すぐさま飛び起きて窓に駆け寄るとスカイラインが動き出したところで、そのガラス越しにマリアの姿が見えた。部屋を振り返るとマリアとエツコがいなかった。

「いったい何が起きているんだ」

 阿部はぼうっとする頭で呆然とスカイラインの丸い4灯テールライトを見送った。

 マリアはファーストアイドリングのままクラッチを繋いだ。ぐいっと前へ出る感覚に、慌ててステアリングを握り直した。久しぶりにバカみたいに重たいクラッチだった。

「ミッションは・・・ホリンジャーのシーケンシャルだって言ってたね。じゃあシフトアップにクラッチ操作は必要ないね」

 ほっとしたようにつぶやくとアクセルを踏みつけて加速した。まだ充分に温まらないエンジンが吼え、後輪を簡単に横滑りさせた。マリアは慌ててカウンターを切ろうとしたが、一瞬、遅れた。パワステを外してなくて良かった、とマリアは思った。スカイラインは道路上で進路を取り戻し、再び前へと進む。

「落ち着くね、マリア」

 自分に言い聞かせるようにして前を見る。

「どうせ道は一本ね。あの黄色いピックアップが何処へ行くか確かめるだけでいいね。スピードは必要ない、落ち着くね」

 マリアはカーディーラーの父からレーシングカーの手ほどきを受けたことがあった。実際、地元のサンデーレースに出場した事だってある。あの時はサンダーバードのレースカーで500馬力だった。パワステなんか無かったし、クラッチだってもっと重かった。シフトも通常のHパターンだったし・・・スカイラインは内装はノーマルのままだったし、外見も後期型R33セダンのままだった。色はメタリックブルーで派手だが、速そうには見えない。少なくとも、普通のスカイラインにしか見えない。

 でも、阿部が言うには推定800馬力以上を発生するエンジンに純レーシング仕様のミッション、それからレーシング仕様のブレーキ。そして、ただの後輪駆動。GTRのような4WDは組み込まれていないから、800馬力の出力を加重のかからないFR車の後輪で路面に伝えることになる。そのじゃじゃ馬っぷりは普通のレーシングカーの比ではない。おそらくアクセル全開なら3速でだってホイールスピンするだろう。1速や2速なら、何処へすっ飛んでいくか分かったものではない。


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