【愛が滲む】
唇を押し付けて混ざり合う白息。君の睫毛がきらきらして、朝焼けのなかにそっと愛を落とす。
「おはよう。」
『おはよう。』
くす、と笑ったあとに下がっていく君の瞼にくちづけて、のっそりと起き上がった僕は食パンをかじる。甘く広がるイチゴジャムが君を包み込むように、あたたかい愛の中で眠れるように、君が君でいられるように。
ネクタイを閉めて鍵を閉めて、電車に乗り込むまでのあいだ僕は、君が過ごした幾夜を思う。
✱
上司に連れられて来た、タバコと香水のむせ返るような匂いのギラギラした場所。露出度と比例する売上に囚われた女達が酒を注いで、はっきりしなくなった思考に漬け込まれ搾り取られる金。
僕はこの場所が、嫌いだ。
君の存在を初めて捉えたのは、顔を赤くしたオヤジを支えながら店を出ていく姿。
僕は、その時感じた気持ちの名称を知らない。胸の奥深くからじわじわと広がる赤いインクが染みになって、渇く間もなく注がれる生ぬるい水の中でぷかぷかと浮いているような、気持ち。
眉で八の字を描き笑う君の瞳の隅に、寂しさをみつけた。濃い化粧をとったときに現れる、本当の唇の色を知りたいと思った。
その後、何かに促されるようにしてもう一度あの店に訪れていた僕に、自分自身驚きながら、どこか納得していた。すべては彼女に会うために。
君を指名して飲むお酒はどんどん進んで、僕は君の横顔を眺めているだけでよかったのかなと思う。これじゃ他の客と同じで、君を商品として見ているようで、静かな自己嫌悪に陥った。
「ねえ、何かあったの?」
明らかにテンションの低い僕に、心配しているかのような口調で聞く君。接客相手でしかない僕は、なるべく君に近づきたくて、少し強引だったかもしれない。
気づいて欲しかった、僕は他の客と違うって。勝手に他人に期待してた、今日あったばかりの君に。
君の瞳の隅っこに、僕を映してもらいたくて。
『いつもこんな事してるの?』
バスローブの紐をくくりながら、洗面所にいる君に向かって何気なく聞いた。
「こんな事って?」
『客とホテルで、』
「してるよ。」
食い気味に答えた君に、そうなんだ、としか言えなくて、不甲斐ない自分が嫌になる。これをサービスだと思って欲しくなくて、今日僕は、彼女を抱く気は無い。
何やら携帯を触っていた彼女の手が止まり、僕と目を合わせた。
「…しないの?」
『しないよ。』
そう、と呟いた彼女と、お互いに背を向けてベッドに寝た。君の綺麗な白肌に、僕の欠片が落ちた音が聞こえた。
そのうち、背の向こうから小さく聞こえてきた寝息を確認して、僕も目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、君がいなくなっていて傷付くなんてお門違いだと分かっていても、このままここにいて欲しかった。
君は素顔を見せてはくれなかったけれど、少し素直になってくれた気がした。
シャンプーの匂いが鼻をかすめて目を覚ます昼、君のぬくもり感じてみたい。
✱✱✱
あの夜私たちは、柔らかい時間の流れのなかで、何かを共有した。
彼の寝息がそばにある昼過ぎ、まだはっきりしない意識、私は何かに満たされていた。
男と共に過ごす夜は、数えられないほどあった。彼と過ごす夜は、これから二度と訪れないかもしれない。私が目を覚まして、彼が夢のなかにいる今、私がここから姿を消すのは普通のことで、私と彼は嬢と客。
肌寒い空気にふれた肌がパッと蒸発して、ピンク色の部屋と混ざりあい、彼の寝息を溶かす。
どこにもやれない寂しさを、彼にぶつけても許してくれるだろうか。鏡張りの天井越しに、彼の薄らと開いた目の奥を覗く。
「おはよう。」
かすれた声が左から聞こえて、そのまま右へと流れそうになった言葉を掴んで返す。
挨拶だけ交わして、まるい空間にふたり、浮いている。
私たちだけの時間が、流れている。そんな気がした。
✱
ラウンジを見回すことが多くなった私は、目の前のオジサンの愚痴を聞くことを諦めた。
忙しかった仕事が楽になるとともに、私のなかにぽっかりと穴があいて、できた空洞にとにかくアルコールを注いだ。
小指くらいの愛情が欲しくて、夜の街をさまようけれど、ここから見えない星たちに追いつめられていく私、どれだけ願っても叶わない夢。
職とは似合わない大きなリュックから取り出した大きなノートに、殴り描く姿。あの日見た彼の寝顔。
私は愛を欲してる。彼の、愛を。
気付かないうちに侵食されていた心は、彼で満たされるのを待っていて。
月明かりが負ける程のネオン管の光を、掴み取りたくて。
走っていた。
ビュンビュンと通り過ぎる香水臭さを吸収し、くたびれたスニーカーと一緒に。あなたに会いたくて、あなたのおやすみが聞けるまで、私は眠れないような気がして。
紙に書かかれた住所に、あなたが居てくれればいい。あの日私を見つめた瞳が本物なら、あなたも私を欲しているはずでしょう。そう、思っていたいの。
静かな住宅地に入った頃、早くなった鼓動が悲鳴をあげて、クリーム色の外壁にもたれかかった。
白息がエイトビートを刻んで、街灯のひかりに吸い込まれる。
暗がりのあいだを歩いてくるあなたが、私に気付くまであと3秒。
驚いた様子でこちらにくる彼、私がこの喜びをどう表現するか悩んでいるうちに、静かな鼓動を感じた。
あたたかい胸のなかに、いる。母のようで、父のようで、愛する人のような、抱擁。
見上げた彼は、この上なく切ない表情をしていた。
『…おやすみって言ってほしくて。』
✱
彼の家は、家具が圧倒的に少なくて、広く感じる。
まっさらな部屋で、足りない感情たちが埋まるのを待っているような彼。
「熱いよ。」
『ありがと、』
異常に甘ったるいコーヒーを啜って、不安になる。これは私のエゴなんじゃないかって。我儘に誰かを求めて、もしかしたら彼でなくてもよくて、ただ独りよがりに簡単な愛が欲しいだけなんじゃないかって。
大きな窓から滲む月光だけに照らされた部屋が心地よくて、大人しく夜に包み込まれる。
彼が緩めたネクタイの柄を、忘れないように少し笑った。
✱✱✱
彼女に触れて、触れていないような、さらりと溶けてひとつになったような、妙な気持ちだった。
急いで来たのか、彼女の荒い息が僕の街を白くしていく。
タバコ臭さも香水の匂いも気にならないほど、近くにいて、僕の中にいるみたいで。
あのギラギラした店内での姿からは考えられないようなラフな格好は、派手なドレスよりも似合っているように見えた。
君と歩く家路は、会話さえないものの、冷たい夜風を上手に避けているみたいに、暖かくて温かい。
僕の部屋には物が少ない分、隙間が多すぎる。感情の隙間、君が座っている場所から湯気のように昇っていく、純粋な気持ち。愛。乞う。
熱いコーヒーを啜った瞬間、顰めた眉の間から現れた、あの夜に見た切なさと寂しさ。
ティーカップに染みた愛おしさが色褪せる前に、君とひとつになりたくて、君を満たしてあげたくて。
僕が、満たされたくて。
✱
弾むような切なさのなか、君を抱く。
ベッドに優しく押し倒したら、きらりと光る下着。
同じ匂いを纏った僕達が、この瞬間を忘れるとき、消えるであろうこの感情。
汗がじわりと僕の身体をすり抜け、肌を伝って君を濡らす。とろけるような感覚は、程よい暑さの季節に落ちていくような、刹那。
僕にしがみつく君の指先から逃げ出した愛を捕まえて、食べたい。
僕の全てをかけて、君を愛すよ。この夜を越えて、僕とひとつになって、君は君でなくなる。
暗闇の街中、大きな窓越しに僕達だけが光る。君の過ごしてきた夜のなかの光よりもっと、明るく、弾ける。
涙だけが正直な気持ちを外にこぼして、君を包む腕が震えた。
君は僕を抱いて、僕は君のなかへ、埋め込まれていく。情けない姿もすべて愛してくれるのなら、僕は君と空を飛びたい。どこまでも、飛んでいきたい。そう思った。
愛を欲していたのは、僕の方かもしれない。
『ありがとう。』
僕の涙とふたりの汗が混ざりあって蒸発した。その瞬間に、愛してると言いたくて。
✱✱✱
彼の空虚感を、じっくりと埋めていくように、ひとつになる。
足りないなにか、全てが満たされた瞬間、幸せなんて言葉では表現出来ないほど、じんわりと胸があたたまる。
幾度となく身体を重ねた男達は皆、汚い欲にまみれていて、私はそれが大嫌いだった。
月並みな言葉なんて口にしたくないけれど、誰かに渡したことのない感情を込めて言いたい、愛してる。
『ありがとう。』
あなたが目を覚ました時、私にそばに居させてほしい。
朝日と共に形成されてくあなたを、一番近くで見つめていたい。
END
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