リンゴジュース
仕事も無事終わり、アカリ達は街に向けて路地を歩いていた。
『APPLE』――“Additional PsychoPath named Lucent Evil”、これが人を化け物に変える薬の正体であった。
アカリは青いバッグを肩から下げ、大事そうに抱えながらコウに説明をする。
「『液化魔術』つってな。魔術の発動を液体保存できる技術なんだが、基本的には空調や魔導灯に使われるくらいで、医学には浸透していなかった技術なんだ。高度な技術が必要な上、触媒に使う液体も高価でな。個人はもちろん企業としても精製が難しい。地区の税金使ってようやく普及できるような代物なんだよ。こいつは服用の後、もう一度薬を摂取すれば身体が元に戻るパーフェクトリターンの術式モデルを使っているが、こうも完成度が高いものは恐らく世界で数えるくらいだな」
コウは縛られていた節々の痛みを気遣って聞いていた。
「そんなものが、このウイスタリアになあ……。そりゃあ統制局長からの命令がくるわけだ。そんな高価なもの持ってよくゲート潜ってこれたよな」
「ゲートは中央局管理だ。つまりわざとだな」
「わざと?」
推測ではあったが、これは実に的を射ている考えだった。
医学系で二位の権威を持つエバーグリーンが、たかが平研究員である男女二人を捕えられないとは考えにくい。むざむざと液化魔術の精製機器を壊させたのも、地区外に持ちださせてから二人を追い込むのも、地区の動きとしては遅過ぎる。不自然とも言える対処であった。
ならば、こんな回りくどいやり方でウイスタリアにこの薬を持ちこませたのはなぜなのか。
例えばこんな話なら辻褄は合う。
「化け物薬で街を襲わせる計画だったとかな。奴らは最初から正義感の強いあの二人をターゲットにしていたのさ」
「ちょっと待て、それって地区が率先して計画したってことか?」
「俺も液化魔術の医学利用は国営新聞で知ったくらいだからよく知らねえが、バレなきゃいいと思ったんだろ。治外法権で他地区との接点も薄いこの街が、いつまでも世界のトップを謳ってるのがムカつくんだろうさ。ウイスタリアは医学系の権威一位『スペアミント』としか医薬品の取引はしていないからな。逆恨みってやつだよ」
コウは呆れていた。地区を挙げての嫌がらせとは、医学をまとめなくてはいけないスペアミントの統制局長も苦労者である。
「中央局からしてみれば、それで落とせるもんなら落としてみろ、っていうとこだろうな。ホワイトトードの指示で俺が対処すれば、まず問題ないと踏んだに違いねえ」
「ってことは、このサプリメントは何のために?」
コウはそう言って、マリクから没収したであろうサプリメントのパウチを取り出した。純食物由来の健康補助錠剤食品のパッケージ。これが今回の騒動の元凶であると、アカリから説明を受けていた。
医薬品であれば、確かに街の規定に抵触するだろう。
「サプリメントは医薬品じゃねえだろ」
「……は?」
アカリはしたり顔で自身を指差した。
「それは俺の仕業」
「なっ……!」
「この薬は俺が貰うんだ」
思わず絶句するコウに、「あったりめーだろ」とアカリは薄汚れたバッグに頬ずりした。
「お前これがどんなものかは説明したよな? 高度な精製技術、高コストで中々作れない。特にこれは軍用に兵器利用できる代物で完成品、その上実証済み。この量だから、出すとこ出せば大儲けだぜ。俺にはもう金塊に思えてならねえんだよ。顔がニヤける」
まるで好きな子からプレゼントをもらったような喜び方だ。
ホワイトトードから薬の話を聞いた時点で、アカリはこのプランを考え始めていた。そしてわざとエルミの前に姿を現し、街に好印象を持った彼女の性格を考慮した上で、その後の儲けの算出まで組み上げていたのだ。
エルミの警戒心が下手に高まってしまい、薬を飲んで化け物になるまでは想定していなかったようだったが、それでも並みの人間の手腕ではない。
「信じらんねえ……、俺も一杯喰わされたってわけか。ひとにこんな健康サプリの回収命じやがって」
「そう不貞腐れるなって。確かにホワイトトードから命ぜられたのはこのAPPLEの回収だ。しかしサプリメントを医薬品扱いにしてしまえば、この薬は無罪放免ってことよ」
「たった今サプリメントは医薬品じゃねえって、言ったばかりだろうが」
「だーから、医薬品って申請すりゃいいんだよ。あのクソ局長がそんなこといちいち確認するわけないだろうが。ここはウイスタリアだぜ? これがAPPLEですってサプリメントを中央局に出せばオッケー」
「奴がいるのは統制局だろ。中央局の連中はどうすんだよ」
「なあに、ちょいと儲けを分けるって言えば、協力してくれるダチくらい俺にはいるんだぜ」
呆れてものも言えん、コウはそう言いたげに首を揺らした。
「……はあ、お前って奴は」
「なんだよ、別に儲けを独り占めしようってんじゃないぜ。薬分の儲けはきちんと半分ずつだ。今日仕事をした俺達二人だけの秘密な。ロゼとリオンには内緒だぜ?」
「ホワイトトードから『建前として』って言われただろ」
「いいのいいの、俺あいつがどうなろうが関係ないもん」
どうもこのアカリという男には、大人になれば身についてくるであろう責務というものがまったく養われていない。通常の社会人なら正統な給与の貰い方をするのだろうが、彼は違う。リスクを天秤にかけて貰えるものは貰うのだ。口元に指を立てて悪ガキのように笑うアカリは、周囲に悪戯小僧を囲っても違和感ない程に精神年齢が低くみえる。
世界中を探しても彼ほど狡賢い奴はそういないだろう。
しかしコウ自身、正直よくやったと言わざるを得ない。手放しで褒められないが、臨時収入はコウにとっても願ったりであった。
「……じゃあ、俺達の秘密だな」
「おう!」
二人の友情は容易に深まった。
街の絢爛に入ると、アカリはタクシーを呼び止めた。オレンジの照明に当てられチョコレート色に染まった車に、コウと乗り込む。二人の間にはバッグが鎮座した。青いバッグにはどうも、その場所が気に入っているような面持ちがあった。
ロバの耳をした運転手は気だるそうに尋ねた。
「今宵はどちらまで?」
「中央局まで頼む。おっさん悪いんだが、今日はゆっくり走ってくれるか」
「あいよ」
運転手はウインカーを出して、歩行者より少し早いくらいのスピードで中央局を目指した。
アカリは背にもたれ、痛みを我慢するような溜息を吐いた。隣にいるコウが表情を覗く。
「なんだ、痛むのか?」
「いや、そういうわけじゃねえさ。まあ割とボッコボコにされたけどな」
「よく無事だったな」
「ロゼッタ・ジャムカ様のお陰だよ」
「ロゼ? あいつ来てたのか。研究が忙しいとかで最近ご無沙汰だったじゃねえか」
「防衛魔術をプログラムしておいてくれたらしい。俺もその時は気付かなかったが、パッチに魔術起動終了のアナウンスが入ってな。致命傷は防げたけど……、流石に疲れた」
アカリは瞼を閉じて、静かに呼吸をした。
戦闘に参加していないにもかかわらず、ここまで助力できる魔術師は珍しい。臨時に得た金銭を少し割り振ろうと、アカリは考えた。
「……あいつらいなくなってたけど、よかったのか?」
路地からの帰り道、マリクとエルミは姿を消していた。中途半端に口を開いたバッグが置いてあるだけで、まるで元々そんな人物はいなかったのではと思われるほど、痕跡が無くなっていたのだ。
「ロゼの研究所を案内したんだ。薬は俺に任せろって言ってな。あれだけ魔術干渉が強い薬物を摂取したなら、もう普通の医療機関に掛かっても太刀打ちできないだろ。俺も結構身体打ったし、後で行くつもりだよ」
「さいですか。俺は別に付いていかなくていいよな?」
「お好きにどうぞ。金は口座に入れとくからな」
どうやら本当に疲れているらしかった。通常の軍隊なら小隊規模の相手であったから、当然の結果といえるが、普段前線で動く役割ではないことも原因だったようだ。アカリに薬の知識がなければ完全に息の根を止められていただろう。コウはただぶら下がっていただけの自分を不甲斐なく感じた。
罠に関してはアカリのミスなのではあるが……。
しばらく車は走り、街の様子がゆっくりと流れて行く。
どこの道を走っても変わり映えの無い街並みだが、ウイスキーを流し込んだような情景は飽きることは無い。街の上に神々が座していようが、統制局長が最悪の趣味を持っていようが、街の生活は快楽そのものだった。もしウイスタリアが無くなったとしたら、こんな暮らしはもうどこへ行っても見つからないだろう。
何もかもが特別で満ち、異質であるこの街は、きっと無くなることなどありえない。国家として神々が君臨している以上、ウイスタリアの存在は肯定されなければいけないのだ。
例えそれが、世界から見て邪悪だとしても。
「おい、おっさん」
背もたれに身を預けたまま、外の景色を見てまどろんでいたアカリは運転手に声をかけた。
耳をパタパタさせて、運転手は相変わらず気だるい声で応えた。
「なんだい」
急いでいた歩行者がすぐ傍を走り抜けて行った。線の細い女性が高いヒールを履きながら、小走りに。
その様子を目で追う。
言おうか言わまいか刹那悩んで、アカリは口を開いた。
「……車、遅過ぎだよ」