何も知らない愚者達
まるでプリンセスになった気分で、光の街へと足を踏み入れていく。
身に纏っているのは土埃のたったブラウスとロングスカート、それから薄手だが風避けにはなるコートを一枚だけ。ガラスの靴などなかったが、それでもくたびれたこの靴は何か特別なもののように思えた。
街を闊歩すればするほど、この街の不思議な空気はエルミの胸を躍らせた。
「中心街の建物はどこかの建築様式を元に造られているわね。一階は広く取って、上に行くほど間隔が狭くなっている。金融色号地区の『マリーゴールド』の辺りに近いかしら。お店なんかはレンガを積んだだけの簡単なものが多いようね。石材はどこから調達しているのかしら……。それにしても、人の往来が絶えないわね」
目新しさに楽しい疑問が次々と沸いて出てくる。
街に入って絢爛の次に驚いたのは、何と言ってもここの人種の多様性だった。
地区によっては獣人やオーガなどの亜人は差別を受けることもあるが、この街は全てにおいて寛容だ。首元に羽を持つ者、角や尻尾をもつ者、原初人類の形で何もない者。人種は勿論、性別や貧困、皆それぞれ地位はあるだろうが、それで誰かと争うような雰囲気は感じられなかった。
闇に塗れて閉ざされたこの街は、同じ穴の狢、差をつける方が面倒で楽しくないのをわかっているのだろう。外の世界からは暗黒だの悪だのと蔑まれているが、その外の人間達の方が競争社会で個人の価値を比べ合いしているとはなんとも皮肉なことだった。
「日光が差さないのに植物があって、暮らしている人も皆笑顔だわ。照明の琥珀色がキラキラしていて本当に綺麗。なんて透明感なんだろう」
ただの街がこんなに人工照明を焚いているだけでは、こんな気持ちになるはずはない。感心しつつ道を歩み進めていくと、とある路地裏の入り口が目についた。
「キラキラの秘密は裏側にあったりしてね」
ふと好奇心に駆られ、その路地裏へ足を踏み入れた。
「おっと!」
「あッ……。ごめんなさい!」
人目を気にして前を見ていなったため、人と衝突してしまった。
咄嗟に頭を下げて謝罪をした。
「こちらこそ、まさかこんな所に美女が迷い込むとはつゆ知らず。大変失礼を。お怪我はありませんか?」
「いえ、はい大丈夫です。すみません、私がこんなところに入ってしまったものですから」
「……この街へは初めてですか?」
そう尋ねる男を見上げると、なんとも見蕩れるペリドットに似た黄緑の瞳を持っていた。髪は赤く少しぼさついている。顔はやや童顔だが、穏やかな笑みは男性独特の愛嬌を内包していて、こちらが自然と気を許してしまうような人物だった。
すぐに意識を戻したエルミは、苦し紛れにも言い訳をした。
「い、従兄がここらへんに住んでいると、便りが届いたものですから。観光ついでに様子を見に来たんです」
男は「そうでしたか」と、一層深い笑みを作ってエルミを安心させた。
「でしたらご案内しましょう。僕はこの街に元々住んでいる者です。こう見えて顔も広いので、名前さえわかれば必ず探して差し上げましょう」
「いえ、あの。実は従兄と私は仲があまり良く無くて、会えないのならそれでも全然構わないのです。どうか、お気になさらず」
手紙のやり取りはあるのに仲がよくないと、やや矛盾めいた断りを述べるエルミに、男は何を気にする事も無くお茶へと誘い出た。
「どこかへお急ぎの様であれば、無理にとは言いませんが、ここは寒いでしょう。外を出歩く時は暖をとりながら休憩するのが、この街を歩くコツなのです」
「ええ、……はい。そうですね、少し暖かいものが欲しいと思っていました」
このとき彼女は、無意識に了解してしまっている自分に驚きさえした。以前の逃走の日々なら街の路地裏に入ろうなどとは、考えもしなかったはずだ。
ところが彼女はこの街の意外性と、そこに住む人間の世俗的な態度にすっかり安心しきっていた。
「僕はアカリ・ルーベンスと言います。貴女のお名前は?」
「私は、エルミ。エルミ・マッカレーといいます」
それからアカリと名乗った男は、ありふれた身の上話と共にエルミを近場の喫茶店へと案内した。
大通りから離れた場所。街の絢爛から隠れたやや暗がりの路地裏に、その店はあった。オレンジ色の裸電球や電飾が飾られ、深緑色のテントが張り出しているこじんまりとした店だった。落ち着きがあって休むのに丁度いい。冷たい空気を解すように、コーヒーの薫りがほんのりと熱を持ち揺蕩っていた。
アカリはレディファーストでエルミを店内へと招き入れた。
「街にはいたるところに喫茶店がありますが、ここは穴場なのです」
「まあ、そうなの?」
テーブル席で、アカリに下げられたイスに恐縮して座った。
「老舗のコーヒーショップで溜まるのが粋だと信じてやまない輩が多いのです。そこから溢れた者がさらに近場の店に溜まり、そのまた溢れたものがまた近場に溜まっていく……、そういう仕組みができているのですよ。暗黒の地と噂では聞いているでしょうが、人間の本質、流行に乗りたい精神というのは外の人間と変わりません。だからこういった路地裏の目立たない店というのは、くつろぐにはもってこいの場所なのです」
「なるほど。……中々興味深いですわ」
「エルミさんも、もしや流行には敏感なのでは?」
アカリは楽しげに尋ねた。
久方ぶりのマリク以外の男性に、エルミは少しずつ楽しくなっていった。
「ええ。と言っても、ここ最近はファッション誌を広げる暇もなくて。ホワイトリリーにも、行きたいとは思っているんですけど……。ほら、あそこ毎年各ブランドが新作を発表するでしょう? ショーを見に現地へ行ったりしていたんですよ。こんなボロボロな見た目をしていたら想像もできないかもしれませんけど」
叩くようにスカートを撫でるエルミに、アカリも戯けて返した。
「そうおっしゃるのなら私だって、ボロボロです」
確かにアカリの服装もあまり綺麗とは言えない。元々服にお金をかけるタイプではないのだろう。言動は紳士的であるのが妙に可笑しくて、エルミは微笑した。
「お店は充実しているのに、どうして新しい服を買わないの?」
「無精が昂じて、レストランなどの必要な店以外は行かない者でして」
「あら、素敵な顔をしていらっしゃるのに、勿体ないわ」
「いやはや、それこそ勿体ないお言葉で。それを言うのなら貴女だって美しい、このウイスタリアではこんな美人は滅多にお目にかかれません」
「御世辞がお上手なのね」
「本心ですよ。それに私なんぞは正装もしっくりこない質ですから」
エルミは傷の無い綺麗な肌を光で火照らせながら、アカリの顔をのぞきふむふむと考えた。
「髪がボサボサなのがいけないわ。整髪料でしっかり整えれば正装でも映えるはずよ」
「参考にしましょう」
店主がコーヒーを入れたカップを二つ持ってきて、テーブルに置いた。無言。その店主はまるで気高い騎士のような態度で軽くお辞儀をすると、カウンターの中へ戻って行った。
「注文していないのに、コーヒーがでるのですね」
不思議そうにエルミが言った。
「喫茶店に入ってコーヒーを頼まない人はいませんから」
「それもそうね」
「温かいうちにどうぞ」
そう言って自分のカップには手をつけず、まじまじとこちらを見るアカリ。そう凝視されては飲み辛い。ふとコーヒーに何か混ざっているのではと疑った。
「あなたは、お飲みにならないの?」
思わずそう尋ねると、アカリは頭を掻きながら照れるように言った。
「実は熱いものが少し苦手なのです」
「まあ、ミルクやお砂糖を入れれば少しは柔らかくなるはずよ」
「いいえ、それはしてはいけません」
「……なぜ?」
戒めるように首を振って言うアカリに、エルミは訝しげに訊く。
「この街の規則です。頼んでもミルクも砂糖も出てきません。もし違反した場合は店共々罰せられます」
「ミルクやお砂糖で?」
あまりに馬鹿馬鹿しくてつい大声を出してしまった。はっとしたエルミはちらりと店主の方へ視線を向けたが、依然とした沈黙で食器を片づけていた。しかしそれが寧ろ無言の叱咤を受けているような気がして、エルミは誤魔化すように閉口した。
「僕もここ以外でそのような規則があるのを聞いたことがありませんから、驚くのも無理ないでしょう。ふざけているように思えますが、しかしこの規則、思いのほか根深い問題でして……」
「根深い問題?」
「ええ。ある噂によると、このコーヒーを贔屓しているお陰で街の安寧が約束されているのだとか」
「御冗談を……」
アカリは真剣な顔で言う。
「街にはコーヒーを製造している会社はありませんし、そもそも夜ばかりでコーヒー豆が育ちませんから個人での作成も不可能です。完全輸入品ですが、冷やしたりミルクやシロップを入れれば本来のコーヒーの良さが薄れます」
「まあ、そうよね。でも、それでわざわざ法を敷くのは、なんだか変だわ」
「そう、これは言わばプロパガンダというやつです。コーヒーをここへ仕入れることが、外の地区にとってこの街との外交となるのです。美味いコーヒーは人気となり、好感が持てれば統制局長がその産地を贔屓するようになるでしょう」
「確かに……、一見くだらなくみえるけれど理にかなっているように思えてきたわ」
エルミがようやく納得のいった所で、店主が無言のまま、トランプ程の大きさのカードを二人のテーブルに置いた。
エルミが覗くと、それは世界中で売られている大手インスタントコーヒー会社のカードだった。箱に付属で入っているものらしく、このコーヒーの産地の農園風景や肌の黒い現地民の笑顔の写真が記載され、商品のこだわりやフェアトレードなどの説明も書かれていた。
そしてコーヒーに合う自社制作のクリームやコーヒーシュガーの項目も。“ぜひお試しあれ”と。
「……、という話があれば面白いと思いませんか?」
疑いの目を向けるエルミに、アカリは程良くなったコーヒーを飲んでそう言った。
「呆れた。いつもこんな冗談を?」
「噂なのは本当です。家で勝手に飲む分にはミルクも砂糖も入れて問題ありません。しかしこと喫茶店のこととなると急に厳しくなるのです。なのでおかしな規則を敷いている理由を皆で想像して楽しんでいるのですよ」
「あら、順序が逆なのではなくて? 理由があるから、規則を敷くのでしょう」
「確かにそうですね。……しかしここは中々基本通りとは言えないことが多いものですから」
「おっしゃること、よくわかりますわ」
二人は楽しげに微笑んで同時にコーヒーを啜った。
しばらくの無言の後、温まった息を吐きながらエルミは言った。
「聞いていたよりも、ここは随分違います」
「……というと?」
「暗黒の地『ウイスタリア』、その街は人間はおろか、悪魔すらも住むのに迷う闇の街。空気は閉ざされ地獄のように寒く、夜を迷わせた空は光を知らない。ただ悪人が蔓延り、死人のように何かを求めて跋扈する」
おとぎ話を聞くように、アカリは目を伏せていた。
「概ね、間違っていません。噂には齟齬が付きものでしょう」
「……それも、そうね」
「お聞きしますが、ご出身はどちらで?」
「私はエバーグリーンの出身です」
「医学色号地区ですか、確か少し前に医学系のナンバーツーになった地区ですね」
「まあ、よくご存じね!」
区外の状況にこんなにも詳しいとは、エルミは驚いた。しかしいくらウイスタリアとはいえ、外の世界との繋がりを断っているわけではない。情報は常に入ってくるのだ。
少し大げさな反応に、アカリはにこりと笑顔で返した。
「国営新聞の記事で読んだのです」
「私がウイスタリアの事をまだよく知らなかった頃、そのナンバーツーになった時の式典で偶然訪れた人に、ここの噂を聞いたんです。暗黒の地だって」
「それはまた、騙されてしまいましたね。ここは立ち入った者のみが感じられる愉悦です。その噂を流した方も、ここへ来ればきっと気に入るでしょうに」
その言葉にはエルミも賛成だった。
「そうよね、この街は楽しみが一杯詰まっていそうだもの。こんなにわくわくする所なら、私だってきっと気に入るわ」
虚ろ気に、エルミはコーヒーを眺める。舌をピリリとした感覚が伝い、コーヒーにまぶしてあったのが胡椒だとぼんやりと気付く。
式典なんてあったなと思い、目を閉じて、遠い日の記憶を探った。生まれてから離れた事が無かった街。初めてそこから離れ、そしてもう訪れる事は無いのだろう。思い入れが無いわけではなかったが、離れる事にはなんの感傷も湧かなかった。
どうもあの街は、自分のような薄情な人間を育てるのに向いていたようにも思える。本気で街と接しないように、お互いの深いところには決して立ちいらないような人が住まう街だった。
「げっ!」
アカリの発した妙な声にハッとして目を開くと、傍に背の高い黒髪の男が立ちすくんでいた。男は両側頭部に角を生やしており、額の血管を浮かび上がらせていた。
アカリの方へ睨みつけ、凄みの効いた声色で男は言った。
「いなくなったと思えば、こんな所でナンパか」
エルミは息をのんで身体を強張らせた。恐怖それ以外に感じるものが無かった。
アカリはがばっと立ちあがってその男に耳打ちをする。何やら言い訳をしているようで、男の方は納得がいったのかいかないのか、「ははあ」と声を零しながら目を閉じて聞いていた。
「……あの、アカリさん」エルミは思わず訊いた。「そちらの方は?」
「ああ。えっと、……友人ですよ。すみません、約束事をしていたのをすっかり忘れていまして。大変恐縮なのですが、ここで失礼させていただきます。本当に申し訳ない」
頭を下げながらそう言うと、アカリは納得のいっていない様子の男を押し出しながら、そそくさとその場を去っていってしまった。テーブルにはきっちり二人分の代金が置かれ、一緒に手紙が添えられていた。
エルミは怪訝に思いながらもその手紙を広げた。
「“コーヒーに黒胡椒を入れるのがこの街の常識”……」
置き土産の手紙をテーブルに放って、エルミは疲れたような溜息を吐いた。アカリとのお茶は楽しかったが、ふと一人になって、自身が昨日まで地獄のような逃走を繰り広げていたのを思い出した。
イスから立ち上がり、声を持たない騎士の店主に礼を一言告げ、少し考えたがもう一度光の街を徘徊しようと試みた。
「エルミ!」
路地裏を出た途端、誰かにきつく呼びとめられた。誰かと思ったが、こんなところで自分の名前を大声で呼ぶ人間など、一人しかいなかった。
「……マリク」
眉間に皺を作った表情で、エルミへ詰め寄る。
「帰ってこないから探しに来てみれば、お前。今の男達はなんだ!」
「そんなに怒鳴らないで、目立ってしまうわ」
「質問に答えろエルミ!」
「なんでもないのよ。本当に。偶然出会ったの。よそ見していてぶつかってしまったのだけれど、何かの縁だからお茶でもどうかって」
マリクは心配したようにエルミの肩を強く掴んで、声を潜めて言った。
「なにも話していないだろうな?」
「ええ、何も言っていないわ。本当よ? お茶をしていただけだもの」
彼女は自身の好奇心について、一切の片鱗をも気付かせまいと注意した。軽薄だったとは思っている。しかしこの先、自分たちがここで暮らしていかなければならない以上、環境に適応すべきだという開き直ったとでもいうような心持は、街に着く前にはなっていたことだった。
「俺達は遊びに来ているわけじゃないんだぞ」
マリクの言葉に、些かエルミを腹を立てた。
「わかっているわ。でも、ここで暮らしていこうって二人で決めたのよ? 暮らしていくってどういうことかわかる? 朝起きたら歯を磨いてご飯を食べて、仕事に行ったり本を読んだり、買い物をしに出かけたり。ちょっと嬉しいことがあった時に行けるお店を探したりして。私達は今は宿住まいだって、いつかは自分たちの部屋を見つけて、模様はどうするのかって決めるの。暮らすってそういうことよ」
「わかっているさ!」
途中から舌打ちをしていたマリクは動揺にも似た叫びで、ついに周囲の目を集めてしまった。
二人は居心地悪そうに互いに別々の方へ視線を向けて、さも恋人の痴話喧嘩のふりをしてみせた。それほど珍しくもないのだろう、周りの視線はすぐに解けた。
根本的な部分ではわかっているのに、互いの性格がすれ違ってしまう。こういった不安を持ち続けねばならないことを、エルミは覚悟した。
「ごめんなさい、マリク」
「……あ、ああ。じゃあ、帰ろうか」
「ええ」
二人は恋人のように腕組みをして、なおかつ周囲の目線に気を配り、自分たちを観察している人間がいないことに注意して宿へ帰った。