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ヴァニティ・フェア  作者: もののふいつかみ
政治色号地区『ウイスタリア』
1/10

ウイスタリア

 広大なサバンナを一台の車が走っていた。

 何度も行き来してできた轍の上を、慣れた様子で進む。自動操縦の車内には運転手はおらず、後部座席に男女が二人座っているだけ。

 なんでもないような景色をなんでもないように見ていた女が、疲れたような声で言った。


「……広いわね」

 

 白皙の肌と長い金髪は、ブルーの瞳と相まってその美貌をどこまでも美しく呈していた。白いブラウスに茶色のロングスカート、素っ気ない靴。どことなく女の陰りと合い、さながら舞踏会を夢見る少女のような儚さがあった。


「……」


 一方男は黙っていた。焦げ茶色のコートに顔を埋め、考え込むように眉間に皺を寄せて目を瞑っている。

 女と同じく小汚い格好をしていたが、浅黒い屈強な体格、茶髪で彫りの深い顔は、人を二三殺めてきたような風貌で妙な緊張感を持っていた。

 オーディオスピーカーからは小粋なカントリーが流れていて、途中ラジオのDJが小話を挟んで視聴者を楽しませていた。しかし車内に視聴者はこの陰のある男女二人だけ。後は助手席に忘れられた数枚の硬貨が、振動による擦れでチャリチャリと笑っているだけだった。

 見ても分かる通り、楽しんで聞いている余裕は二人にはない。


 理由は簡単。――二人は逃げていた。


 これが遠い愛のお話で、逃避行に明け暮れここまでやってきたのだとすれば、純愛小説を一本書けてもなんの不思議もないだろう。幸か不幸か女性は美貌持ちだ、映画という手もある。

 しかし事態はそんな腐れメロドラマにはならなかった。

 二人の間に鎮座する傷だらけの大きな青いバッグ。女はそれを、眠る我が子に触れる母親のような優しい手で押さえていた。

 バッグの中身は大量の薬物。いくつものビンの中には透明な液体が揺れ、布を緩衝材にして丁寧に収まっているそれらは、何の変哲もない水のようにも見えた。

 これが、甘美な愛の物語を黒々とした闇へと貶めている元凶である。


「噂のとおり、おかしなところね、ここは。開けっ広げていて、ちょっと奇妙。一応ウイスタリア地区の領地なのよね。街のゲートは見えているのに、全然近づいている感じがしないわ」


 地平線まで広がるサバンナにはアカシアの木が点在し、草食獣の群れが遠くの方で土煙を立たせていた。先頭を目で追いこし、車内の窓枠を隔ててフロントガラスの方へ視線をやると、街の景観が見えた。

 青空に映える純白の円柱が遥か上空、天を突くように伸びていた。

 柱の先には巨大な雲が座し、シンプルながらその街の威圧感は凄まじく、数時間車で移動していてもまったく近付いている気がしなかった。


「なんの為にあるんだ、ここの自然は」


 今まで腕を組んで俯いていた男は、そっと窓の方を見て言った。腰にぶら下げた一丁の拳銃が車内の揺れによって跳ね、ドアにぶつかってゴツンと重みのある音をたてた。


「人の手が加えられた様子が無いわね。魔術で作られたものじゃなくて、本当に自然のままなんだわ。もしかしたら、何千年も前から存在しているのかもしれない。そうだとすればものすごい価値のあるものよ。それを維持しているウイスタリアも、きっと研究が進んでいるのね」


 目先の自然は、厳しい野性の姿ではあったが少なくとも平和に見えた。恐らくこれから向かおうとしている場所とは正反対の姿だ。

 広がる原始の風景に感心する女に、男は注意した。

 

「エルミ、あまり期待はするんじゃない。あそこには何があるかわからないんだぞ」


 エルミと呼ばれた女は心外な声を上げた。


「あら、地獄でも想像してろっていうの? ねえマリク、私達は随分逃げてきたわ。逃げて、逃げて、疲れ果てて、もうあそこに行くしか方法がなくなったから、こうして向かっているわけよね。あそこには常識なんてものは通用しない。悪だって正義に成り得る場所なんですもの。だから私達だってきっと……」


 エルミの言葉を、マリクは噛みつくように遮った。


「だからなんだというんだ。俺達がやったことは許されてはいけないんだ。だからといって、あの街に行けば悪が正義に成るわけじゃない。ちょっと他の奴等と混じって目立たなくなるだけさ」


 にべも無くマリクは最後に言った。


「お前はただ、その薬を守ってさえすればいい」


 エルミは目を伏せ、手に触れているバッグの、真新しかった頃の感触を思い出してみた。たしか丈夫にと思って、強い生地と表面に塗料が塗られていたものを選んだはずだったが、今ではその面影は無い。

 過激な逃亡生活を、そのバッグ一つがまざまざと見せつけていた。


「もう逃げなくていい、追われる恐怖を持たなくていいのよ。自由に生きられる。毎日お出かけして、ご飯を食べて、ぐっすり眠れる。今はそれを考えただけで幸せよ。そしてそんなことができるあの街は、きっと地獄なんかじゃない。貴方といれば……」


 マリクは何も答えなかった。


「あの街に行けば、私達きっと、幸せになれるわよね?」


 エルミはサバンナに視線を戻してそう言った。殆ど無意識の問いであった。

 しかしそれでもマリクは口を開こうとはしなかった。

 彼の視線の先には肉食獣が狩りをしている所が見えた。ずっと向こうの方で。逃げる獣と追う獣、そこに映っているのはあるべき自然の姿だ。あれが自然のルールだとするならば、それをみて平和と感じる自分達は不自然だろうか。


「まるで見せつけられているかのようだな」

「……え?」

「いや、なんでもない。気にするな」


 視線を寄こしたエルミの優しい表情は、窓の外を眺めるマリクの目には映らなかった。

 獣がどうなったかはわからない。草に隠れて見失ってしまった。あの狩りの結果を見届けられなかったのは、少し残念だと、マリクは思った。


 ◇ ◇ ◇


 街の内部に入るためには四方にあるいずれかのゲートを潜る必要があった。周囲は幅数キロにわたって谷になっており、サバンナ側からでも容易に行き来ができるよう丈夫な橋がかけられていた。マリク達の車は西側の橋を進む。

 透明な管のような橋からは眼下を覗く事が出来た。その谷は想像を超えた姿で現れ、谷底を見た瞬間、エルミは息をのんだ。


「なんて高さなの……」


 千メートルはあるかと思われる広大な谷底の絶景が、そこにはあった。

 青空色に染まった川を中心にして苔のように緑が伸び、崖には地層が微細な模様を描いている。あまりにスケールがでか過ぎて薄い地層のように錯覚するが、平均して六十メートルもの厚さがあった。

 何とか肉眼で確認できる平地に建物のようなものが見え、そこには柵に囲われた綺麗な緑、農場の風景があった。


「ねえ、マリク。ここ人が住んでいるんじゃないかしら?」

「そんなわけないだろう、こんなところまで来て。どうせ映像だ。馬鹿みたいなデカい空間で威厳を示そうとしているだけだ」

「……そう、なのかしら」


 車がようやくゲートに入ると、門番の検問を受けた。担当したのはカバのような風貌をした男で、大きく膨れた身体を警備の制服に詰め込み、帽子を深々と被っていた。

 警備室からは出てこず、室内にある機器を使って検問を進める。


「珍しいなあ、男女二人だけの旅行なんて」


 カバ男はベテラン親父の貫録で気さくに二人に話しかけた。


「旅行じゃない。移住だ」

「移住? 物好きだな。ここがどこだか知らないわけじゃないだろう」

「暗黒の地ウイスタリアだろ。だからここに来たんだ」


 カバ男は帽子のつば先から眼光を覗かせた。


「訳ありかい。わざわざこんなところ来んでも、逃げ果せる場所ならいくらでもあるだろうに」

「ここは懺悔室か何かか? 俺達は人生相談しにここへ来たわけじゃない。さっさと通してくれないか。それとも、訳ありの人間にはここは通せないとでも言うつもりか」


 マリクの手は腰にある銃に触れていた。撃つつもりはない。ただそれくらいのことはできる。俺たちは本気だというポーズであった。

 カバ男もそんなマリクの様子に肩をすくめて、事務的な忠告をした。


「ここは最後の砦だ。引き返すなら“ここ”しかない。しかしそのつもりがないのなら、わざわざ止める理由も、俺達にはないのさ」


 カバ男は意味深な溜息を吐きながら、手元の機器を操作して車の通行許可を出した。暗んでいたゲート内にオレンジの照明が点灯していく。

 照明は直線に奥へと続いていて、果ては光が混雑しており相当な長いトンネルだと窺えた。

 カバ男はさらに付けくわえた。


「許可が破棄されることはない。お前たちはウイスタリアに容認された身だ。ただし入ったが最後、容易には出られない。タスクフォースでもない限りな。谷底に牧場があったのが見えただろう? あれはここで許可を貰ったものの、決心が付かずに住み着いた奴らのもんさ。畑を耕し小屋を建て、心が揺らいだまま一生を終えるのさ。すぐそこの階段を使えば、時間はかかるがいつでもここへは来られる。身一つでも俺が車を手配してやれる。中に入れば中央局が最低限の生活を保障してくれる。それでも望まないのは、きっと心残りがあるからなんだろうなあ」


 そんな説明を受けて、奥にいたエルミが思わず問うた。


「あの、どうして去ろうとしなかったのでしょう?」マリクが苛立ったように制止したが、構わず続けた。

「みたところ、谷底の環境は決して良いものではないように思えました。集落が見当たらないところをみるに、谷底の人同士お互いを助け合っている様子もないようですし。ここで生活していくより、外へ出た方がまだ――他の地区へ移動した方がまだ、生きるためには良いかと思うのですけれど……」


 エルミの問いに、カバ男はまるで神父のようにゆっくりとした口調で答えた。


「きっと、貴女と同じ気持ちですよ」


 もうそれ以上、何かを語らう必要はなかった。


 ◇ ◇ ◇


 オレンジ色の粒が後ろへ流れるのを数十分も過ぎたころ、ついに車はゲートの内側へと入った。

 途端に広がったのは、想像よりも暗く不気味な空間であった。

 窓のない巨大なビルが均一に立ち並び、道はかなり閉塞的であった。あまりの高さに天辺は闇に溶け込んでいて見えず、辛うじて青白い照明の魔導灯が街の中心へと誘っているだけで、他の光はどこにも見当たらない。


「とんでもなく暗いな。本当にこんなところに人が住んでいるのか?」


 先に口を開いたのはマリクだった。

 ここへ来るまで、自分から口を開いて何かを述べようとはしなかったマリクだが、流石に畏怖の念を隠しきれなかったらしい。無理もないのだろう。先ほどまで実感できていた世界(草木や人、空気や光や熱などのこの世たらしめている認知)がまるっきり消え失せてしまったからだ。これが不気味と言わずになんと言えようか。

 一方エルミは楽天的であった。


「まだ中枢に入っていないのよ。きっと街に入ればいくらかましになるわ。まさしく暗黒の地って感じよね。天辺が見えないのがまるで地下を潜ってるみたいで面白いわ」


 追手の心配が無くなって、寧ろ気が楽になったのだろう。

 マリクは呆れたような視線をエルミに送った後、不安がるのも馬鹿らしくなって不貞腐れたように寝入った。

 周りがあまりにも同じ景色なため、時間と距離の間隔が狂い始めていた頃だった。単調な闇の世界は突然終わりを告げた。

 光の端を捉えたエルミが「あっ」と声を上げると、マリクも目を覚ました。

 次の瞬間、光がぶわっと溢れ返り――――。


「な、なんだこれは……!」

「なんてこと……」


 二人は声を揃えて愕然とした。

 不気味なビルの森を抜けたその先にあったのは、燦々と照る人工照明の海だった。酒気に溺れたウイスキー色の光が街中を照らし、冷えた空気に滲んで幻想的な風景を作り上げていた。人々には活気が溢れ、陽気な笑顔がそこここに弾けて回っていた。


「本当に、ここが暗黒の地なのか?」

「……ああ、すごい!」


 二人は窓に張り付くようにして瞠る。

 楽しそうに歩く獣人亜人、様々な人間が通り過ぎていく。そこには悪の片鱗の一欠片も感じさせないような人々が暮らしていた。

 噂との懸隔に戸惑った二人だったが、明らかにここは“暗黒の地”と呼べるような所ではなかった。

 車は街の中をどんどん進み、二人は言葉を失ったまま街の絢爛豪華な景色に塗れていった。


 ◇ ◇ ◇


 街の光から離れ、僅かに魔導灯の照る路地へ入った辺り。

 安宿の部屋に荷物を置くなり、エルミは胸の高揚感を手で押さえつけながら言った。


「なんて綺麗なところなんだろう! まるで夢の国のようだったわ! お店が随分多かった。洋服に雑貨に宝石、パン屋に花屋に本屋、サンドウィッチの専門店なんかもあったわ」

「こんなとこで一生暮らせたら、きっと楽しいだろう」

「私はそのつもりよ、マリク。貴方と二人で、……ずっと」

「……そうかもな」


 ようやく見せたマリクの笑みに、エルミは嬉々と近付き、互いに優しい口づけをした。

 やっと人間染みた行為ができたと思った。恋人でもなんでもなかったが、ここまでの苦悩を一緒に乗り越えた今、もはや二人にはなんの形式も必要とはしなかった。人肌というものが、こんなにも甘美な心持にさせてくれるのを、随分の間忘れていたような気がする。

 緊張の糸がゆっくりと解けていくのを、エルミは感じていた。

 街に酔ったのか、街が酔わせたのか。一切の不安をも拭い去って、まるで旅行をしに来ているような気分で、エルミの足は浮足立っていた。身体を洗ったり身なりを整えたりしながら、ふとベッド脇へ視線をやると、今まで大事に持っていたバッグが目に入った。


「ねえ、……街を見てきてもいいかしら?」


 現実を象徴しているバッグにウンザリし、逃げるような言葉でマリクに頼んだ。


「着いたばかりだ。今日はもう休んだらどうだ」

「興奮が収まりきらないのよ。暗黒の地『ウイスタリア』。噂では悪人が住まい、光の無い街で、焼け焦げたような大地が広がっているって。……でも光が無いなんて嘘。街は塵一つ無く冷え冷えと澄んでいて、まるで洞窟の奥にある金を掘り当てたドワーフの気持ちだわ。歩いたらきっと楽しいと思うの」


 マリクは微笑んで返した。


「相変わらず、メルヘンだな」

「あら、悪い? 男の人はすぐそうやってメルヘン女を子供っぽいって馬鹿にするんだから。魔術だって十分メルヘンチックなのに、男の人は魔術機構がどうのこうのってよく話しているじゃない、それと同じよ」

「わかったよ。俺はもう少し休んでいるから、行ってくるといい。ただし遠くへは行くな、端末も何も持っていないんだからな」


 エルミは嬉しそうに笑みを浮かべて、はしゃぐように古びたフローリングの床を鳴らしてドアノブを握った。


「一時間しても戻らなかったら探しに来てね」

「そうならないように戻ってくればいいだろ」

「時間を気にする自信が無いのよ。とっても不思議な気分なの」


 マリクはその言葉に呆れた。


「一時間だな。ここは思った以上に寒い、コートを羽織って行け」


 エルミは手渡されたコートを羽織って出ていった。

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