第3話
レヴァンはそう言うと、鞄を持って小屋の扉を開けた。
そして雨の降る灯りの無い道を一目散に走る。
痛みに耐えるクレアを一人にしたくは無かったが、夜のD地区は殺人や強盗が後を絶たない。
そんな中を少女を抱えて走る方が危険なことだった。
レヴァンは街に向かっていた。
医者を連れて、D地区に戻る、それがレヴァンに出来る精一杯の事だ。
夜の街には王国の憲兵が見回りをしているため、見つかれば捕らえられてしまうが、今すぐにクレアを医者に見せなければならない。
医者に見せても助かるかなどレヴァンには分からないが、そうする他に手段が見つからなかった。
普通、D地区に住む人間が医者を呼ぶ事は出来なが、レヴァンが持っている鞄はずっしりと重く、中にはD地区に住む人間には見合わない金額の金が入っている。
それはクレアと出会ってからの10年間、彼女の夢をいつか叶えるために貯めた金だった。
街に行けば一週間しか暮らせないほどの金だが、診察料としては悪くない金額だ。
レヴァンはこれを持って街に行けば、診てくれる医者がいるかもしれないと考えていた。
舗装も何もされていない踏み固められただけの道を泥を蹴り上げながら走り、そしていつしかD地区と街を隔てる壁の近くまで来ていた。
その壁は、王国を守る外壁としての役目も果たしているため、壁の周囲は兵士が多く、ここが一番の難所となっていた。
走りながら壁を超える方法を考えていたレヴァンは前からくる人影に気が付いた。
慌てて物陰に隠れ、様子を窺う。
夜のD地区で、人間に遭遇するという事は、それだけで危険な事だ。
普通の人間はほとんど出歩くことは無く、いるとすれば金目当ての強盗か、無法地帯なのをいいことに殺人を繰り返す殺人鬼位のものだ。
息を潜めて向かってくるその人物をじっと待つ。
すると、その人物は足を止め一緒にいる誰かと話を始めた。
「うーん、この辺の筈なんだけどな、アレシアどうだ?」
「はい、だいたい合っていると思います」
「そうか」
話している二人の様子を物陰から見てレヴァンは驚いた。
話かかけていた方は20~30代程の男で、短く赤い髪に長いコートを羽織り、煙草をふかしている。そしてアレシアと呼ばれ返事をしたのはレヴァンとさほど歳の変わらない少女で、大きなトランクを抱えている。
使用人なのか、片手には傘を持っていて、男が濡れないように傾けていた。
レヴァンが驚いたのはその男が貴族の様な恰好をしていて、明らかにD地区の人間ではないことだった。
D地区は、出る事はもちろん出来ないが、同時に入ることも制限される。
特別な理由がない限り入ることは許されない。
だがその男は何かを探している様子で、当然、探し物程度では許可されることは無い。
会話を終えた男と少女は再び歩き出した。
よく見ると、男は手や首にいくつか飾りのついた装飾品を身に着けていて、どれも高価なものに見えた。
あれほどの物を差し出せば、頷かない医者はいないだろう。
それを見たレヴァンは、鞄の中に手を差し入れ、護身用に持っていたナイフを握った。
こんな事は間違っていると分かっている。
だが、レヴァンは何をしてでも彼女を助けなければならない。
他人から奪った物で助かったと知れば、彼女はどんな顔をするだろうか、想像するまでもなくレヴァンには分かり切ったことだった。
白い家、庭に咲いた花を手入れする彼女の姿を何度想像したか、もう分からない。
いつしか自分の夢になっていたその風景を失ってしまうという恐怖がレヴァンに決意させた。
「クレア待っててくれ」
物陰から二人分の足音を聞いてナイフを握りしめる。
体の中から殴られている様な強い鼓動と、雨と混じった冷たい汗が流れ、今にも飛び出してしまいそうな体を必死に抑えて、出るタイミングを見計らっていた。
二人はゆっくりと近づいてくる。
一歩踏み出せば手の届く距離。
覚悟をしたはずのナイフを握る手は震えていて、そんな極限の緊張の中で、レヴァンの頭には、自分の死を悟った彼女が、初めて見せた泣き顔が浮かんだ。
その瞬間震えが止まり、レヴァンは飛び出した。