第三章 5
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ある平日の昼間。三光園の食堂にあるパソコンの前に、一人座っている子がいた。
さっきから見ている限り、悪戦苦闘しているのが分かる。
それを後ろから、ずっと見ている影があった。
「何してるの? それに、なんであんたがここにいるのかな?」
「……そっちこそ、なんでここにお前がいるんだよ。友延、利沙?」
振り向いた男の子が、声を掛けた子に呼びかけた。
「橘こそ、何をしてるの? しかも、さっきから非効率的な事してるよね?」
利沙は、橘がさっきから悪戦苦闘しているパソコンを覗き込んだ。
からかうように。
「利沙。友延利沙。なんでここにいるんだ? しかも今頃、学校はどうしたんだよ?」
改めて驚いた橘は、慌てていた。
「橘こそ、学校は? もしかして、ずる休みしたの?」
「違うよ。テスト休み。俺達の所は少しずれてるから、今日がそうなんだよ。
だけど、利沙は、……何してんだよ。それにこんな所で?」
「何も。学校は行ってないし、知ってるでしょ? やめたんだよ。
それにここ、今、お世話になってるの」
「学校の事なんか知ってるよ。
そうじゃなくて、今は、いや、そんな事が言いたいんじゃなくて。
ああぁ、もう……。
お前がいきなりいなくなるから、いや、違う。
そうじゃない……」
「何、言ってんの?
さっきから、何してるのかと思えば、パソコンの調整してたの?
これ、システムファイル覗いてるんでしょう。
どうして?」
「ああ、これか。
これ調子が悪いから、見てくれって頼まれたんだよ。
でも、これってお前がしたらいいんじゃないか?
ここにいるんなら、俺をわざわざ呼びつけなくても」
「ああ、それはない」
利沙は、あっさり言った。
「なんで?」
橘は、不思議そうに聞いた。
「なんでって、私、ここのパソコン触れないから」
ますます、橘は分からなくなった。
「コンピューターのプロがいて、使えるとはいえ、なぜ高校生の俺が呼ばれるのか、理由が分からないな。
触ってなくても、直す事くらいできるだろう?」
橘の言う事も、一理ある。
「うぅん。そうなんだけど、人のものには手を付けられないからね。色々あって」
「ふぅん。まあいいけど、ややこしそうだな?」
橘は、気のない返事をした。
それに対して利沙は、
「何してるの。そんなに難しい。どこで困ってるの?」
橘の顔の横から覗き込んだ。
橘は、とっさに少し離れた。
びっくりした。
「なんだよ。いきなり。そんなに見るなよ?」
橘は画面を手で隠した。
その慌てぶりが面白くて、利沙はからかうように、
「なんで、見せてくれないの?」
何度も、橘の左右から無理に覗こうと試みた。
その光景を見た職員がいたが、後になってこう言った。
「まるで、普通に子どもが、じゃれあっているようにしか見えなかった。
いつもなら構えた印象がある利沙が、
その辺りにいる、普通に家から学校に通って、同級生と話す光景と変わりなかった。
あの時だけは、利沙が普通の子に見えた。
普通って言うか、いつもの、周りに気を遣って、
わざと物分かりのいい子を振舞っている感じは、全くなかった」
その職員は、声を掛けようとは思わなかった。
利沙があまりに自然で、その雰囲気を壊したくないと思ったからだ。
利沙と橘のやり取りは、利沙の勝ちで終った。
「ほら、こんな事で躓いてるの?
なんだ、手こずってるように見えたけど。
大した事ないじゃない?」
「うるさいな、俺はこれでも頑張ってるんだよ。
……だから言ったろ? お前がしろって」
「うるさいって。何? せっかく手伝ってあげようと思ってるのに。その言い方」
橘は、利沙に対して本気で怒っていた。
「なんだと? 手伝うって言うなら、もう少し早く言えよ。
そしたら、こんな事で時間とられなかったのに」
「何? 手伝って欲しいなら、早く言えばいいじゃない」
「言わせなかっただろ? そういう事。
使っちゃいけないみたいに言ってたくせに」
そこまで言って、二人ともほぼ同時に吹き出した。
「何、言ってんだろうな? 俺達二人して」
「本当。おかしい、おかしくて笑いが止まらない」
そのうち、利沙が、
「じゃあ、どこを困ってるの? 手伝うから」
橘も、素直に、というか、待ってましたと、ばかりに、
「ここ。ここが分からない。
こっちは出来たんだけど、どうもこれが分からない。
利沙には、分かるか?」
利沙は、与えられた資料とパソコンの画面を見比べて、
「これって、基本にちょっと毛が生えたくらいだよ。
大丈夫、橘でも出来る。言う通りやってみて」
利沙は、橘に指示を与えながら、時々画面を見た。
「……ここまで行くと、もうあと少し、この画面でおかしい所見つけてみて」
橘が画面に見入るが、表情は芳しくない。
「分からないな、どこが? って、どこもおかしくないぞ」
「そっか、じゃあ、十三行目四番目のつづりを確認してみて」
利沙は、たいして画面を見ずに指示をするが、
「利沙は、分かってんのかよ? さっきから全然見てないだろ。
俺と向かい合わせに座ってよ。
……どこもない、変なところはない。つづりも合ってる」
利沙は、余裕で、
「分かってるわ。大丈夫、落ち着いて見て。
つづりにRが出てくるけど、二番目のRは小文字じゃなくて、大文字になってるかを見て欲しいんだけど」
橘は、もう一度見直して、ハッとした。
「……小文字だ。大文字じゃない。でも、なんで分かった?
こんなの普通じゃ見つけられないだろ?」
利沙は、なんでもないように、
「それより、さっさと変更する。その後、まだやる事あるんだから」
急かされた橘は、慌ててキーボードに向かった。
その後も利沙の指示に従い、入力して、一段落すると、
「でも、やっぱり利沙ってすげぇなあ」
「何言ってんの?」
橘の、恐れ入ったという言い方に、利沙はあっさり返した。
「だって、あれだけの事、俺だけだったら、絶対終らない。
なのにこんなに早く、しかも画面なんてほとんど見ないで、……口で言うだけだろ?」
「そんな事ないよ。
橘がちゃんとできるから、これだけの時間しかかからなかったんじゃない。
橘のお手柄よ」
「でも、本当に利沙は凄いよ。何が悪いとかトラブル見ただけで分かるのか?」
橘は、興味深そうに聞いてきた。
「まあね。だって、私これを専門にしてるんだよ?
分からないと仕事にならないでしょう?」
「ふぅん。そういうもんか? 俺には分からないよ。
一人でやってたらシステム全部見てたかも。それでも出来たかどうか……。
助かったよ、利沙がいてくれて、……ありがとう」
利沙は、それには答えず、
「でも、何でここに橘がいるの? 学校は休みとしても、どうしてここなの?」
「あれ、言ってなかった。俺の姉貴がここで仕事してるんだよ。
その関係で、パソコン診てくれるかって?
バイト代出してくれるって言うから来たんだよ。まさかこんなにややこしいとは、思わなかったけど」
利沙は、少し考え込んで、
「……ここに橘って先生、いなかったけど?」
「ああ、それ違う。姉貴結婚して苗字変わってるから。
咲島って言うんだ。咲島礼子。知ってる?」
「知ってるよ。礼子先生。橘のお姉さん、だったんだ?
知らなかった。そうか、……」
「なんだよ? 何が言いたい? ……なんとなく想像はつくけど」
「似てなぁい。ぜんっぜん、似てない。本当に礼子先生の弟なの?
信じられない。礼子先生美人なのに、橘が弟? 似てない」
「……分かってるよ。みんな同じ反応するから。
でも、姉貴だよ。年は少し離れてるけど」
「ふうん。そう、ちょっとコンプレックス持ってたんだ。お姉さんに?
……大丈夫。お姉さんは凄くきれいだし、優しいし、人気者だし。
でも、橘も優しいじゃない。貴重な休み使って、ここまで来てあげるなんて。
なかなか出来ないよ。……そっかぁ、礼子先生と兄弟だったんだ。そうか」
利沙は、何度も頷くように呟いた。
それを見て橘は、
橘は、少し照れくさそうに、話題を変えた。
「それより、学校なんでやめたんだ?
何か事件に巻き込まれたって聞いたけど。
それって、俺達に……学校に迷惑かけるとか、それが理由か?
先生達は何も教えてくれないし、おまけに、利沙が少年院に入ったらしいって噂は流れるし。
……本当はどうなんだよ」
利沙は、戸惑った。
まさかこんな所で、元同級生に会うなんて事、ましてや、話をするなんて事考えてなかった。
「利沙。ごめん、なんか俺、嫌な事言ったか。だったらごめん。
でも、俺だけじゃない。みんな、利沙を待ってたんだ。
帰ってくるって。
だから、……なんでやめたんだ。それが聞きたい」
橘の真摯な問いに、利沙もごまかす事はやめた。
「ごめん。私は、凄いやつなんかじゃない。私はみんなを裏切ったんだから」
利沙の言い様に、橘は戸惑った。
「何、何の事だ。もしかして、宝石店強盗の事?」
今度は、利沙が、ハッとした。
その利沙の表情を見て、橘は続けた。
「いや、はっきりしてたわけじゃない。
ただ、利沙がいなくなった時期と重なるのはこの事件くらいで。
しかも、俺達は利沙の力を知ってた。
だから、もしかしたら、警備システムをごっそり盗む何て事できるのは? って考えて。
……そんな風にみんな思ってたんだ」
利沙は、静かに話し始めた。
「……あの日は、ちょうど文化祭の前日だった。
犯人グループに連れて行かれて手伝わされた。
ハッキングなんてするつもりなかったけど、結果として、私が事件の大半を請け負う事になってた。
……保護観察中に起した事件だったし、ハッキングした事も事実だしね。
それに、捜査員に言われたわ。
……ハッキングしてる時は、楽しかっただろう? って」
利沙は、言葉に詰まった。
橘は、何も言わず聞いていたが、
「それで、ハッキングしてる時楽しかったのか?」
「さあ、よく覚えてない。必死だったし。
でも、釈明も出来なかった。
本当は楽しんでたかもしれない、って思ってね。
だって、脅されて怖かったのか、ハッキングを楽しんでたのか、区別がつかなくて。
もしかしたらって、そうしたら、もう、……外には出られなかった」
「少年院に入ってたって言うのは、本当の事だったんだ」
橘は、はっきりと言って、
「ごめん。でも……」
「いいって。本当の事だから。
そうなると、もう、学校やみんなには迷惑かけたくなくて退学って方法を選んだの。
間違ったとは思ってないけど、結果として、約束を破ってしまって、ごめんなさい」
利沙は素直に謝った。
「そっか、色々あったんだ。
でも、退学してから、もう一年以上なるよな?
ずっとこんな所にいるのか、家には帰らないの?」
橘は、何も気にせず軽く言った。
「こんな所って、その言い方はないよ。橘のお姉さんもここで働いてるのに」
利沙は、すかさず諭すように言った。
「ああ、そういう意味じゃなくて。
だって、ここって親がいない子が暮らす所だろう。
利沙には、ちゃんと親がいるのに、変じゃないか?」
橘の意見は理にかなっているが、
「ここは、……色々よ。親がいても、一緒に暮らせない子もいるの。
理由は様々。
私の場合は、……親と離れたかったし、親もそれに賛成してくれたから、ここにいる」
橘は少し考えてから、
「……大変だったんだ。
ごめん、なんか俺、人の事こんなにずけずけ聞くやつだと思わなかった。
……自分が怖いな?」
「興味、持ってくれたって事でしょう? 嬉しいよ。
とっくの昔の事。忘れてくれてもいいのに、気にしてくれて、……ありがとう」
利沙は、橘の顔をまっすぐに見て言った。
「昔ね? まあいい。元気そうだし、なんか足は大変そうだけど、理由は聞かない。
これ以上おせっかいをするつもりはないから。
それより、相談」
橘は、意味ありげな表情を作った。
「何。その顔、何か企んでるでしょう?」
「おっ、分かる? さすが。で、さあ。もう一度だけでいいから、学校でパソコン教室してくれよ。
あの後、って、利沙が夏に俺達にしてくれたパソコン教室の後。
冬休みにも今度は違うクラスでする事になってただろ?
なのに、利沙が退学して一回もなし。
だから、利沙がやめた後。凄く大変だったんだよ」
「橘。言ってる事が良く分からないんだけど、少し落ち着いてよ」
橘は、息を整えてから、
「……利沙が、一年の夏休みに俺達に開いてくれたパソコン教室。
あれ、凄く良かった。
あのおかげで、成績上がったやつ、俺だけじゃない。
それにパソコン検定だって合格できた。
あの時受けたやつほとんど受かったんだ。
それで、冬休みとかにもやるって言ってたろ? だけど、出来ずにいるよな?
受けたがってるやつ多いし、文句だって言われる。お前達はいいよなって。
それに、利沙は、今学校行ってないんだし。
ちょこっと来て、受けたいやつに、パソコン教室また開いて欲しいんだよ。
いいアイデアだと思わないか?」
キラキラとした目つきで橘は言ってきたが、利沙は冷静に、
「無理よ。言ったでしょう? 私は迷惑かけたくないって。
私が口を出せば角が立つ。第一、学校に行く気になれないし」
「それって、逃げるのか? 何か言われるかもって。
いいじゃないか、そんなのほっとけば、それより、利沙の才能生かそうぜ」




