第三章 4
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一月終わりのある日曜日。
三光園の会議室に、二人の人影があり、目的の人物が現れるのを待っていた。
‘コンッコンッコンッ’
ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
「失礼します」
会釈をしてドアを開けて、待っていた人物がすっと入ってきた。
ちょうど二人と向かい合わせになるところの椅子に座った。
「お久しぶりです。小立先生」
「久しぶり、友延さん。元気そうだね?」
「はい。元気です。利沙でいいですよ。今更でしょう?
小立先生もお体どうですか? 無理されてるんじゃないですか。
あっ、私がいた方が大変だったか?」
利沙が冗談っぽく話すと、
「そうか? 利沙。そんな事ないよ。でも、ありがとう」
小立先生は、まじめに応じた。
「えっ、なんで、お礼を言われるの?」
利沙は、小立先生が言った「ありがとう」の意味が分からなかった。
「私は、君の役に立てたのかな? 短い時間でしかもあんな事になってしまった。
なのに君はお礼を言ってくれる」
「そんな事気にしてたんですか? 小立先生は十分してくれました。
だって、私を引き受けてくれたし、色々わがままも聞いてくれた。
それって、私にとって凄い事なんですよ」
利沙はまるで、「今日のご飯は美味しかった」とでも言うみたいに、あっさりと言った。
「そうか、そうだったか」
小立先生は、ため息をつくように言い、利沙が答えた。
「そうですよ。先生は十分にしてくれました。ありがとうございました」
利沙の言葉に、小立先生は、どう言っていいか戸惑った。
それを見て取ったのか、
「先生。今日は、どんなご用なんですか? 確か話したい事があるって聞きましたが?」
利沙は、軽い口調で聞くと、
「そうだ、利沙にどうしても、話しておきたい事があるんだよ」
利沙は、その言葉を不思議に思った。
もう、小立先生とは関係ないにも関わらず、わざわざ訪ねて来るなんて、理由が思い当たらなかった。
……たった一つを除いて。
「利沙。事件の事なんだが。全部聞いたよ、夕実が話してくれたんだ。すまなかった」
「なぁんだ。話しちゃったんだ。黙ってたら良かったのに」
利沙は、呆れたように言うと、こう続けた。
少しからかうように、
「やっぱり、黙ってるの辛かった。誰かに聞いて欲しくて、苦しかった。夕実?」
もう一人の来客の夕実と呼ばれた少女に話しかけた。
「えっ? ……」
夕実は、うつむいていたが、急に顔を上げた。
するとそこには、利沙が微笑んでいた。
「図星でしょ。誰かに話したいって思っていたんでしょ?」
その言葉に、小立先生が、
「私が、無理やり話させた。夕実は利沙と約束したからと、なかなか話してくれなかった。
利沙がいなくなってから、夕実は人が変わってしまったのかと思うほど、人との付き合いをしなくなった。
だから、事ある毎に夕実には声をかけたよ。
困っている事、悩んでいる事を聞こうと頑張ったが、言ってくれなかった。
だから、利沙が少年院から出たと知って、初めて話してくれた」
「そう、頑張ってたんだ。でも、話したら同じでしょう?」
利沙の態度は変わらない。
どちらか言うと、冷たく言った。
「約束なんて、関係ない。
こういう事は、早いうちにちゃんと話してもらわないといけない事だ。
夕実の事を考えての事らしいが、話さなければ、何も終らない事だってある」
「知ってますよ? だから、ずいぶん頑張れたんだな、って思いました。
もっと早く話すと思ってたから」
「……すまなかった。私がもっと早くに気づいていれば、ここまでにはならなかったかもしれない。
本当にすまなかった」
小立先生は、利沙に頭を下げた。
友実も、
「ごめんなさい、利沙。どうしても謝りたくて。無理を言って連れて来てもらったの」
頭を下げた。
泣いているようにも見えた。
利沙は、
「大丈夫。そんなの気にしてないし、もうとっくに終った事でしょう。そんな事。
……それより、顔洗ってきたら。洗面所、廊下の突き当たりだよ」
その言葉で、夕実は部屋を出て行った。
利沙は、楽しんでいるかのような態度だった。
夕実が出て行ったのを待って、
「利沙。君は、いったい何を考えていた?」
小立先生は、疑うように利沙の方を見た。
「何も、ただ夕実が大変だったんだなあって。
先生やみんなの中で嘘をつくのが、大変だったろうと思ったの」
利沙は、楽しむように言うと、小立先生が少し興奮気味に、
「利沙、君。楽しんでいたのか?
夕実が悩んでいたのがそんなに楽しいのか。
今まで、どんなに長かったか?
利沙に会いに来るのに、どれだけ勇気がいったか、考えてみてごらん。
それでもそんな風に言えるのか?」
利沙は、それでも態度を変えなかった。
それどころか、
「だったら、来なくても良かったのに。
別に、今更会ったところで何も変わらないでしょう。
それに、夕実のためにここまで来たって事ですよね? 先生も大変ですね。……先生って言うのも」
利沙のからかうような態度に、小立先生は、
「私は、利沙の顔を見に来たんだ。
利沙の元気な顔を見たくて来たのに。その言い方は無いだろう?」
「それって、……。夕実の事が心配だったんでしょう?
これからの事もあるから、三年生になる前に、夕実に踏ん切りつけて欲しかったって言うのが、
本音ですよね?」
「そんな事言っているんじゃない。私は、」
「でも、当たっていると思いますよ。無理しなくていいよ、先生。
もう、私には責任がない。
でも、夕実は違う、まだ手の中にいる。
しかも優等生だし、良い所に進学させたい。こんな事で躓かせる事はできない。
だから、夕実から聞いた事をどこにも話してない。
多分、もう十分反省したって事にしたんでしょう?
……まあ、そんな事どうでもいいけど」
利沙は、興味のない言い方をした。
それには小立先生も、
「利沙。せっかく来たのにそういう言い方は無いだろう?
利沙の事、どれだけ心配した事か、病院に行けば、身元確認して以降会えないと言われ、
少年院では面会できなかった。
……あの、怪我だらけの利沙を見て以来、今日初めて会うのに、そういう言い方は無いだろう?」
情けない。
そう言いたそうな姿が、今の小立先生だった。
それには、さすがに利沙も反省した。
「すみません。先生には確かにあの時が最後でしたね。本当にありがとうございました」
利沙は、先生に対して頭を下げた。
「い、いや、別にそんなつもりで言ったんじゃない。
ただ、本当に元気な姿が見たかった。だから、今、利沙に会えて、ほっとしてる。
良かった、と本当にそう思っている。
利沙の声も聞けたし」
「声って。もう怪我は治ってるんだし、話くらいできますよ」
利沙は、いかにも楽しそうに言うと、
「利沙。聞いたんだ。
審理の途中から声が出なくなって、つい最近まで話が出来なかったそうだね?」
「……なんで? その事」
利沙は、ショックを受けていた。
声がでなかった事を知られていた事に。
「芳野という刑事さんが教えてくれたよ。
そのために入所期間が延びたって。
精神的なものが原因だと聞いてる。
そうやってふざけた感じで話しているのも、話せなかった事が関係してるのか?
だったら気にしなくていい。この事を知ってるのは、私と香先生だけだ。
夕実はもとより、子ども達の誰にも知らせていない。
誰かに知られるのが、嫌だったのか? だったら安心していい。
プライドを傷つけたのなら謝るよ。
でも、利沙は、精一杯頑張っていたんだ、私はそう思う。
悔しかっただろうなって? そう、思った。
それに今は、それを乗り越えて、ちゃんと話をしてる。
私は凄いと思うよ。利沙の事、誇りに思う」
「ふぅん。誇り、ね。……なんで、あんな事したのに、普通、反対に恥だと思うんじゃない?」
利沙は、半分疑って聞いてみた。
すると、小立先生は、
「夕実を庇うつもりだったかどうかは、私には分からない。
それでも、夕実を無事に帰してくれた。
しかも、審理中も夕実の事に触れなかった。
もし、あの時夕実に捜査の手が及んでいたら、多分、夕実は耐えられなかったと思う。
方法が正しかったかどうかと言われれば、利沙がすべて話さなかった事は、間違っていただろう。
でも、結果として夕実にとって良かった。……本当にありがとう。感謝してる」
「感謝、ですか? 夕実だったら、耐えられなかったかもしれないから……?
私、そんなつもり全然なかったですよ。
それに耐えられなかったかどうかなんて、聴取されてもないのに分かりませんよね?
そんな事より、先生は夕実が大学に行くのに邪魔な過去を作らなかった事に、ほっとしたんでしょう?」
利沙は、軽い口調で真剣さは、全くなかった。
「利沙の言う通りかもしれない。でも、私達は真剣だよ」
「そうですか。さっきも言ったけど、もう終った事にしたいんでしょう。
だったらそれでいいんじゃないですか? もう何も気にせず受験勉強して下さい。
……私はここにいる」
利沙には、これ以上関わりたくない気持ちがあった。
利沙は感じていた。
「違う」と。
自分と小立ホームの人達との気持ちに、接点が見当たらなかった。
だからこそ、こういった事はもう終らせようと思った。
そんな二人の会話をドアの外で聞いていたのが、夕実だった。
話の内容に入っていけなくなった。
取っ手に手を掛けたままでいた夕実に声を掛けたのは、ここの職員で、白波先生だった。
「どうしたの、入らないの? さっきからここに立ってるよね。一緒に入ろうか?」
そう言うと、夕実の返事を待たずにドアをノックした。
「失礼します。お連れしました。さあ、入って」
夕実を連れて入ってきた。
そして、利沙に近寄ってきて、耳打ちした。
「いい加減に、敵を増やすな。このままでは誤解を招く。素直になれ、いいな?」
利沙の肩に手を置いて、ポンポンとたたいた。
「しらこ先生。それ、どういう意味ですか? 私は」
「しらこって、言うな」
白波先生は、声を大きくして言った。
「だって、白波鼓太郎でしょう? 略してしらこ。
上手い事言うなって、私、この呼び名好きだもん、しらこ先生。
みんな呼んでるし、……そろそろ諦めたら」
「……とにかく。今は、せっかく来て下さってるんだ、ちゃんと話しなさい。
もう会えないかもしれない。会えるかもしれない。
でも、今ここで会っている事が大切なんだよ。利沙」
利沙は、それには答えなかった。
「小立先生。わざわざお越しいただいて、本来ならこちらから伺うべきだったかもしれないのに。
ありがとうございます」
白波先生は、そう言って軽く頭を下げた。
小立先生も立ち上がり頭を下げた。
「いいえ、私達の方が、一方的に用があったわけですから、お気になさらず」
これを聞いていた利沙は、
「ほら、しらこ先生。今は、私に用があるんだって、ここはもういいから、出てってよ」
白波先生の背中を押しながら追い出した。
「分かったから、出るよ。じゃあ、何か用があったら呼んで下さい」
「はいはい、分かりました」
白波先生が出ると、利沙は、ドアを閉めた。
「これで、邪魔は無いね。小立先生、気になってたけど、パソコンどうなりました?
あれから何もしてないけど。でも、問題ないでしょう?」
「ああ。でも、利沙がいなくなってから、前ほどする事はないかな?」
「そうなんだ、ちゃんとフォローアップしてくれてるので、気にしなくていいのに。
せっかく途中までは出来るようになってたのに」
もったいない、そう言いたそうにしていた。
小立先生は何かにひっかかった。
「フォローアップ。それはどういう事だ?」
「ああ、ただ私の後を引き継いでくれた人がいただろうから、そういう意味ですよ?」
「たしかに、来てくれる人はいたが、一週間に一度位か。そういう事か?」
「なんだ、ちゃんとしてくれてたんだ? 良かった。
もし、邪魔になってるなら片付けてもらいますけど、どうします?」
「いや、そこは考えてなかった」
「そうですか? 大丈夫ですよ、置いたままで。
もし、邪魔なら、来た人にそう伝えて、持って帰ってもらって下さい。……お手間をおかけします」
利沙は、あっさり言うと、頭を下げた。
「いや、そうだな。もう利沙はいないわけだし、そろそろ返した方がいいのかも」
小立先生は、少し考えながら、改めて口にした。
「小立先生のご判断におまかせします。よろしくお願いします」
利沙と小立先生は、お互いに見合わせて微笑んだ。
和んだ時間が過ぎていた。
「そうだ、俊一から年賀状が届いた。
里親の家で楽しくしているみたいだ。クリスマスプレゼントをもらったと書いていた。
お年玉をもらったら、それでおもちゃを買うそうだ。これがそうだ」
小立先生は、俊一からきた年賀状を利沙に手渡した。
利沙は、年賀状を手に取り、じっと見ていた。愛おしむように。
「……元気そうね。良かった。俊にはいっぱい教わった事がある。なのに、何もお返しできてない」
「元気そうだ、毎日学校にも通ってる。最初は、いじめられたらしい。
でも、今では友達が、たくさん出来たそうだ、里親から連絡があった。
困った時の相談は逐次受けてる。俊一なら大丈夫だ。
それより、俊一に何を教えてもらったって?」
小立先生は、伺うように聞いた。
利沙は、それに淡々と答えた。
「子どもって、可能性が色々あるんだなって、それを伸ばすのに、何かをする必要はない。
ただ、子どもの話を聞いてあげればいい。それを教えてくれた」
「可能性か。それはみんなにある。
利沙にも、夕実にもだ。これから色々あるかもしれない。
でも、それでも自分を信じろ、諦めるな……。
そうだ、もう一つ言う事があった。
香先生から頼まれた事があった。
利沙に、お礼を言ってほしいと言われたんだった。」
「お礼? ですか。香先生から?」
利沙が、不思議そうに言うと、
「ああ、利沙、お弁当ありがとう。
いつもいつも朝早く起きて、みんなの分のお弁当作ってくれてただろ?
あれ、表向きは、香先生が作ってくれていたって事になってるが。
本当は、利沙、君が作ってくれたんだろう?
みんな知ってたよ。誰も口にはしなかったが」
小立先生は、明るく笑顔で言った。
「でも、どうして? 同じ材料使ってたのに」
「分かるさ。香先生とは、全然違う。
同じ材料で、ここまできれいな弁当ができるとは、誰も思わなかった。
だから、最初は、香先生、腕挙げたなって、そう思っていたんだが……。
利沙がいなくなって、また元に戻ってね。
そしたら、子ども達から、香先生にお願いがきてね。
前のは利沙が作っているとは知らないから、前のがいいって。
それで、香先生がばらしたんだ。
本当は利沙が作ってくれてたって。
それを聞いてみんなびっくりしてたよ。私も驚いた一人だ。
だから、まあ、香先生と言わず、ホームのみんなからのお礼だ。
本当にありがとう。香先生も助かったって、そう伝えてほしいって、頼まれたんだ。
それに、その話の後から、キッチンに立ちたがる子が増えてね。
利沙みたいに、料理上手になるんだって、今では食事当番が人気の的になってるよ。
……私からも言わせてくれ、本当にありがとう。
いてくれた時間は短かったが、利沙が残してくれたものは、少なくない」
小立先生は、その後も利沙と話を続けた。
しばらく話し込んだ後、三人が会議室から出てきて、利沙は笑顔で二人を玄関まで見送っていた。




