第二章 21
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春という季節は、なかなか来ないわりに、来たら来たで、あっという間にいなくなる。
初夏やら、梅雨やらにとって替わられる。
春は、夕方から夜が明けるまでが、とにかく冷え込む。
それまでが冬、という季節だった事を忘れさせないかのように。
夜の十時。
病院に一台の救急車が滑り込むように入ってきた。
運ばれてきたのは、十代と思われる少女。
身元を証明出来るものは何も持っておらず、意識不明のまま運ばれた。
この少女は、ある民家の裏庭で発見された。
裏庭といっても、山の斜面だった。
何か落ちてきたと思い外に出た住民が、良く見ると人の様な、人形の様な、
とにかく何があるのか分からないというので、110番した。
駆けつけた警察官が近寄ってみると、人が手足を縛られている事。
体は冷えきっているが、まだ息がある事が判明。すぐに救急車を呼んだ。
その救急車が運んだのが、あの少女だった。
身元不明の瀕死の少女。
体中に暴行を受けた跡があり、しかも、手と足を縛られて、口をテープで塞がれていた。
どこをどう見ても、事件を疑わない余地はなかった。
すぐに身元調査が行われたが、これは意外にも早く分かった。
念のため指紋照合を行う事で、前科のある指紋にヒットした。
そこで、改めてその少女が、今の住所地にしている場所に問い合わせると、
行方が分からないという事だった。
その後、預かり先の小立ホームから先生を招き、少女の身元が判明した。
友延利沙。
これが少女の名前だった。
利沙は、ベッドに眠ったままだった。
顔にはあざがあり、唇は切れガーゼで覆われていた。
両手にもあざと出血、両手首には細くて深い傷が周回していたため、ガーゼと包帯が巻かれていた。
足も同様で、右足は骨折もあった事で。
ギプス包帯が巻かれていた。
静かに眠る利沙は、穏やかな顔をしていた。
その横には、駆けつけた小立先生が座っていた。
小立先生は、警察からの連絡をもらい、慌てて病院に駆けつけた。
病院に来てすぐ、利沙が運ばれた初療室に案内され、治療が終わってから、身元を確認した。
初療室から病室に移された利沙は、見た目こそ痛々しそうに見えるが、
命に関わる事はないと説明を受けた。
利沙と確認した時、正直違う事を祈った。
人違いである事を。
しかし、事実は残酷だった。
朝見た利沙と、今ベッドに眠る利沙が、同一人物とはとても思えないほどに変わっていた。
小立先生は、座っていても涙が自然に溢れてきた。
しかも、利沙が発見された状況を聞いて、益々感情を抑えられなくなった。
それと同時に、子どもを預かる事の難しさも痛感した。
「なぜ、守ってやれなかったんだろう?」
そんな気持ちが、どっと溢れていた。
悔しくて自然と拳を握っていた。
利沙をこんな風にした犯人は、捕まっていない。
警察により周辺の捜索が行われていた。
小立先生は、利沙の包帯だらけの手を握った。
「ごめんな。ごめんな」
ずっと、そう言って手をさすっていた。
そこへ、警察官がやってきた。
「小立さん。すみません。いいですか?」
その声に、我に返った小立先生は、
「はい。何でしょうか?」
涙は拭ってあった。振り向くと警察官がいた。
病室から外に出た小立先生は、警察官から、意外な言葉を聞いた。
「小立さん。提出してもらった友延さんのパソコンから、
今回の事件に関係のありそうなメールが出てきました。
これです。見てもらえますか?」
出された一枚の紙には、メールの内容と思われるものが書いてあった。
内容を見る限り、自分からホームを出て行った様子が読み取れた。
「本当にこれが? まさか?」
「事実です。心当たりはありませんか? なんでもいいので」
「いいえ。全く分かりません。でも、信じられません。本当にこれが? ……」
「そうですか。ありがとうございました。何か思い出した事があれば、教えてもらえますか?」
「……はい」
小立先生は呆然とした。
「利沙が、自分から外に出た?」
事実が小立先生を、襲った。
しかし、それと同じくらい、そうかもしれないとも、落ち着いて考えると思えてきた。
病院の医師から、今日は帰るように言われ、ホームに戻る事にした。
この後、小立先生は利沙と、一度しか会わなかった。
翌朝。
「あら、目覚めましたか? 友延さん」
利沙はベッドの中で、目を開けた。
そこに声を掛けたのは看護師だった。
「おはようございます。どうですか、どこか痛みますか?」
「…………」
利沙は、自分の状況が分かっていなかった。
目は覚めた。
でも、なんだか体の居心地が悪かった。
悪いというより痛い。そう、痛かった。体中のあちらこちらが痛かった。
動かそうにも動かない。
しかも顔はヒリヒリしていた。
ガーゼのテープが突っ張った感じもする。
「友延さん。分かりますか?」
看護師は優しく声をかけてくれる。
「……はい」
何とか声を出したが、利沙が思っているよりずっと小さかった。
「待っててください。今、先生呼びますから」
目が覚めた利沙は、医師の診察を受け、やっと、自分の置かれた状況を理解する事が出来た。
色々診てもらい、命の危険はないが、かなりの怪我を負っている事。
右足以外は一ヶ月くらいで治るだろうという事。
右足は骨折しているので三ヶ月はかかる事。
医師による診察の後、今度は警察から事情を聞きたいと申し入れがあり、それに従う事にした。
「私は、刑事課の芳野と言います。こっちは富田です。よろしくお願いします」
利沙は、二人を見て、
「友延利沙です。よろしくお願いします。こんな格好ですみません」
利沙は、ベッドに横のなったままだった。
刑事二人は、こう切り出した。
「いいよ、気にしなくて。体は大丈夫かな? つらくなったら言ってくれたらいい。
先生からも、無理はさせられないと言われているから」
「はい、大丈夫です」
利沙は、元気、とはいえないまでも、何とか話せるまでになっていた。
「そうか、良かった。
今回君に何があったのか、知りたいと思ってね?
君は、何も身元を示すものを持っていなかった。
だから、それを調べるのに時間がかかったよ。
ただ、君については警察に身元を示すものがあった。
それで君が今お世話になっている、小立さんに来てもらって、確認してもらった。
ただ、夜も遅かったし、ホームの事もあるので帰ってもらったがね」
「そうですか。先生、来てくれたんですね」
利沙は、なんとなくほっとした。
「君に過去、何があったかも把握している。
それでいくつか疑問があるんだが、答えてもらえるかな?」
「はい、何ですか?」
「そうか、では、疑問は大きく分けて二つだ。
一つめは、君をこんな目に合わせた人物は、君の事を知っていたかどうか、
そして君も相手を知っているか。どうかな?」
利沙は戸惑っていた。
「これは大事な質問なんだ。
なぜなら、君と知らずに暴行を加えたなら、
犯人を捕まえていない今、また、同じ様な犯行が繰り返される可能性がある。
でも、これが君自身を狙ったものなら、次の犯行が起きる可能性は低くなる。
ないとはいえないがね。どうかな、犯人は、君を友延利沙と知っていたかな?」
利沙は、迷った。
全部話して済むなら話したい。
でも、それがどういう事か分かっている。
それに、肝心な事は何も知らないのだ。
利沙自身にも分からない事の方が多いのに、何を話せばいいのか。
それに、この芳野という刑事、顔や言い様は優しいが、目が笑っていない。
嘘や冗談は受け付けない雰囲気を漂わせている。
利沙が今まで会った事のない、一番厄介なタイプだ。
ごまかしは通用しないだろう。逃げられるものなら逃げ出したい。
でも、逃げられない事は分かっている。
こうなったら肝を据えるしかない。
なるようになれ。いける所まで行こう。
利沙は覚悟を決めた。
「知ってました。私が誰か。でも、顔は知らなかったみたいです。
友延だなって聞かれましたから」
「そうか、話す気になったみたいだね。良かった。
でも、君と知っていたのか?
では、君は相手を知っていたのかな?」
「知りません。あんなやつら」
芳野は、ある事に気づいた。
「奴ら、って言ったね。
犯人は複数いるのか? 何人いた。
二人か、三人か?」
「五人です。男ばかり。結構若いと思います。
身に着けている物とか言葉遣いとか」
利沙は、慎重に言葉を選んで話していた。
「そうか、若い男五人。
それで、他に何か分からないか、名前とかお互いをどう呼んでいたとか」
利沙はしばらく考えて、
「そういえば、リーダーみたいなのを、マサノブって呼んでいたと思ったけど」
「マサノブか、年は、若いって言ったが学生かな、それとも社会人どっちだと思った。
感じたままでいい、意外に雰囲気が違ってたりするから」
「私は、まだ学生かなって思いました。お金がないって言ってたし」
そこまで言って、ハッとした。これ以上は言えない。
「そうか、学生かもしれないか?」
そこまで聞いて横にいた富田に、
「少年課にも当たれ、もしかしたら(該当者が)出るかもしれん。
今までの(情報)で当たれ(と、伝えろ)」
富田は、そう言われてすぐに携帯電話を手に、病室から出て行った。
それからしばらくして帰ってくると、芳野に耳打ちした。
それを聞いて、芳野はうんうんと、頷いた。
「ありがとう。役に立ちそうだ。
それからもう一つ、これからは君に関する事だが、いいかな?」
「はい」
ここまで来たら引き返せない。
利沙は、ちょっと緊張した。




