第二章 9
「利沙。起きて」
待合室で待っていた利沙は、いつの間にか椅子の背もたれに寄りかかって、眠ってしまったらしい。
迎えに来た小立先生に起こされて、初めて自分が眠ってしまった事に気づいた。
「あっ、はい」
寝ぼけ眼で返事をすると、
「長く待たせちゃったかな? ごめんね」
「いいえ。今、何時ですか?」
利沙は、身支度を整えながら、
「今? 今は四時十分だよ」
「私がここに来たのは、四時くらいだったので、そんなに経ってないのに」
利沙は、少し驚いた。
もっといっぱい眠っていた気がしたから。
「そうか、それは良かった。じゃあ、帰ろうか?」
利沙は、杖を使って立ち上がろうとしたが、うまく立てずふらついた。
すかさず小立先生に支えられ、
「大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。ちょっとふらついただけだから」
そう言いながら、今度は杖を使って車に向かって行った。
もう、ふらついていなかった。
車に乗ると、小立先生から話しかけて来た。
「今日はどうだった。さっきの様子を見ると、疲れたかな?」
「そうかも。でも、もう大丈夫です」
「そうか。無理しないようにな」
「はい」
時々ルームミラーで、後ろに座った利沙の様子を確認しながら、
「どうかな。少しは落ち着いたかな。今日で三日目だけど、やっていけそうかな?」
利沙は少し考えてから、
「好きです。先生の事も、もちろん香先生の事も。だから、やっていけると思います」
「そうか、そう言ってくれるのは嬉しいが、みんなとはどう? なかなか大変だと思うが」
「そうですね。でも、ここの人達は優しいし、私、好きですよ。
はっきり言う人がいると誤解を招く事もあるかもしれないけど、みんなが、関心があるって事でしょう?
それって素晴らしいし、何よりあったかい。誰かの事を自分の事のように考えられるって。」
「そうかな。でも、なおさら馴染むには難しいと思うが、そこはどう思う?」
「これからだと思うので、あまりあせらずやっていくつもりです。
でも、私、小立ホームのみんな好きだし、こんなに人ってあったかくって、居心地がいいものだと、
久しぶりに感じられたので嬉しかったです」
「そう。それは良かった。……久しぶりに、か」
「ええ。今までいた所は、三百六十度、敵しかいなかったから。凄く居心地いいです」
「敵、ね。……そうか、とにかく困った事があったら言ってくれればいい。一緒に考えていこう」
「はい。お願いします」
きちんとした受け答え、礼儀正しい所作。
どれも少年院で培われたものかもしれない。
あまりにもきちんとしすぎていて、よそよそしい印象が強い。
しかし、子ども達の中では、特にそこまでは感じない。なぜだろう?
つい思ってしまう。
車が小立ホームに着いたのは、四時半を過ぎた頃だった。
小立先生が先に入っていき、利沙がその後に続いた。
利沙は、玄関で杖の先についた泥を落としていた。
小立先生は、なんだか騒がしい食堂の方へ向かった。
すると、子ども達全員が食堂で香先生相手に興奮していた。
先頭になっていたのは啓太だった。
「香先生、本当なんですか? 答えてください」
「…………」
「どうした? みんなして集まって。何があった?」
小立先生が入っていったのは、ちょうど啓太が香先生を責めていた時だった。
「小立先生。ちょうど良かった。香先生は何も答えてくれないんです」
「なんだ、いったい? 私が知っている事なら答えるぞ。何でも言いなさい」
小立先生は、香先生に近づいて、子ども達に向き直った。
その腕を香先生は、強く引っ張った。
それに対して、
「大丈夫だよ」
そう言って、香先生の方に笑顔を返した。
利沙は、その頃になって食堂に姿を見せた。
「だったら小立先生。利沙が少年院を出てきたばかりだというのは本当ですか?」
啓太の言葉に、小立先生は、絶句した。
「な、なに言ってる?……」
「利沙は、少年院に入っていたのですか? 香先生は答えてくれません。小立先生なら答えてもらえますよね?」
「……いったいどうしてそんな事を?」
「俊が聞いてきたんです。少年院ってどこにあるのかって。
驚きました。俊が少年院なんて言葉を知ってたなんて。
詳しく聞くと、昨日の夜、ここに消しゴムを取りに来た時、先生達の話を聞いたらしくて。
その時、利沙は少年院にいたって。出てきたばかりだった言ってたと、俊がさっき聞いてきたんです。
少年院の話本当ですか? 本当なら」
「本当なら、どうだと言うんだ?」
「その言い方。本当なんですね? だったら、利沙を追い出して下さい」
「何を言い出すかと思えば。それに利沙が少年院に入っていたからといっても、今は良くなっているのだから」
小立先生は、しどろもどろになっていた。
小立先生のこんな様子は今までにない事だった。
小立先生はいずれ、利沙の事を、話す時がくるかもしれないとは思っていたが、
まさかこんなに早く、しかもこんな形で、その時がくるとは思っていなかった。
「小立先生。いいですよ。気を遣っていただかなくても」
子ども達の後ろから、利沙の声がした。
自然と利沙の前に隙間が出来た。
まるで、利沙を招き入れるかのように。
利沙は、そのあいた隙間を進んで、ちょうど啓太の前まで来た。
「やっぱり、本当なんだな? お前が少年院に入っていたのは」
啓太が、興奮して利沙を問い詰めた。
「そうよ。この火曜日に出てきたばかり、少年院を出てここに来たのよ」
「だったら、話は早いよな? ここから出て行ってくれ。ここにいて欲しくないんだよ」
脅すかのように迫ってきたが、
「いやよ。私はここを出て行かない」
利沙は、きっぱりと言った。
しかし、それでひるむわけもなく、啓太も、
「出て行けよ。ここには、将来有望なのがいるんだよ。お前のせいで将来をつぶされるわけにはいかない」
「私がいると、将来が暗くなるとでも言うの?」
「ここに来たばっかりのお前には、分からないかもしれないけど。……」
「けど、なに?」
言いよどむ啓太を前に利沙は、
「私がいると、どう迷惑なの?」
すると、夕実が言葉を継いだ。
「迷惑よ。親と一緒に暮らしていないっていうだけで、世の中の人たちは偏見の眼で見る。
親と暮らしてないっていうだけで、悪い子だっていうレッテルを貼る人がいる。
あなたはそんな思いした事はないだろうけど、結構大変なの」
そこまで言って、啓太が、
「だから、俺達は親と一緒に暮らしてるやつに負けないように必死でやってきた。
俺達が何かしようとしても、同じようにスタート地点に立てるわけじゃない。
スタートにいくまでも長い道のりがある。
今でもなんだよ。
それを頑張って、少しでも前に行こうとしてるのに、お前がいるだけで、その足を引っ張られるんだ。
余計な足かせなんかいらないんだよ」
泣きそうになりながら話す啓太の肩に手をやったのが、受験生でもある宏だった。
「就職や、進学には、ホーム出身っていうだけで敬遠される。
そんな事ばっかりだ。ここにいるのは、多かれ少なかれそんな経験してるんだ。
何も知らない人の中には、ホームっていうと、少年院と同じだと思っている人もいる。
そんな誤解を解くのに努力してきたんだ。
なのに、ほんとに少年院に入っていたやつがいるのは、正直不利だ。
俺達も同じだと思われたら、……そう思うと、利沙を受け入れるのは、難しい。そう言いたいんだ」
利沙は、口を挟む事なく聞いていた。
しかし、
「そう? だからって、私は出て行かない」
そう言うと、啓太が、
「出てけよ。聞いてなかったのかよ?」
「いいから、啓太」
宏がなだめながら、
「利沙。今すぐ出て行けって言ってるわけじゃない。居てもいいけど、問題だけは起こさないでくれ。頼むから」
「問題ね。言われなくても分かってる。起こすわけないでしょ」
利沙は、そのまま食堂を出て行こうとすると、
「どこ行くんだよ?」
啓太がからむ、
「部屋に行くの。今日は疲れたし、もう休みます」
「利沙、ご飯は?」
香先生が声をかけると、
「いりません。食べたくないので」
「でも、……」
香先生が引きとめようとすると、啓太は、
「いいじゃないですか? いらないって言ってるんだから」
そんな声を背に、利沙は部屋に向かった。
その後は、静かな夕食の時間になった。
誰も進んで話たがらなかった。
その日は、そのまま消灯になった。
誰もが、心に重たいものを抱えたまま。
小立先生と香先生は、なかなか寝付けなかった。
次の日の朝、いつも通りの朝だった。
ただ、いつもより静かな朝だった。
利沙はというと、特に変わりなく、洗濯と掃除を終えると自分の部屋でパソコンに向かった。
淡々と仕事をこなしていたが、今朝はまだ、誰とも会話を交わしていなかった。
その日の午後も、利沙は誰とも話さなかった。
そして、その次の日も、その次の日も。利沙は自分からは誰とも話そうとしなかった。
先生達が問いかけた事には、あいさつ以外には返事をするだけだった。
小立先生には、車で交わした会話を思い出していた。
「……私好きです。……こんなに人ってあったかいものだって、居心地がいい小立ホームのみんな好きです」
小立先生はこの言葉に、本当に嬉しかった。
でも、今その言葉はどこへ行ったのだろうかと考えると、寂しい気がした。
「私は、友延利沙を、引き受けてよかったのだろうか?」
何度か香先生と話していた。
それと同時に、
ほかの子どもの気持ちを、自分は分かったつもりでいただけだったのか?
そんな事を考えてばかりいた。
そうしているうちにも、時間は過ぎていき、また木曜日になった。
利沙は、先週と同じように小立先生の車で、病院へと向かった。
車の中では小立先生から、リハビリに同行しようかと提案があったが、利沙はそれを断った。
病院に到着して、車を降りた利沙は、
「ありがとうございました。お迎えお願いします」
ほとんど無表情で言うと、すっと玄関に入っていった。
「ああ」
と、だけしか小立先生は言えなかった。




