第二章 5
「でも、足、怪我してるんだ? そう見えなかったけど」
奈月が利沙の足を見ながら、智代もつられたように言った。
「怪我って、骨折してるの?」
利沙は、改めて、二人に向き直って、
「話す前に、ランドセル、下ろしたら?」
そう言われて、二人は顔を見合わせて、
「あっ。そうだった」
慌しく自分の机に置いて、利沙の前に座った。利沙は、いすに座ったまま、
「……怪我っていっても、骨折したわけじゃないの。
……ちょっと、神経を傷つけてうまく足を動かせないの」
と、右足を二人の前に出して、
「触られても、感覚がないの。足をついても力も入らない。だから、杖がないと歩く事もできないんだ」
そう言うと、智代が、
「ちょっとって、事故? 交通事故とか」
「…………」
その質問に、利沙は答えられなかった。
まさか、事件に巻き込まれて、犯人にナイフを刺されましたなんて、答えられるはずもなく、
「まあ……、そんなところかな」
と、何とか言えた。
「いいんじゃない。そんな事」
奈月の一言で、
「そうだね、理由が何でも、杖を使うって事だもんね」
智代も、あっさりと応じた。
「ありがとう」
利沙は、それしか言えなかった。
「だって。言いたくない事の、ひとつくらい誰にでもあるでしょう?」
奈月が大人びて見えた。
「奈月、言ってない事があったんだ。なに? どんな事があるの?」
「うるさい。智代こそ、色々あるでしょう?」
二人の他愛無いやり取りを聞きながら、
「どっちが年上か分からないね」
利沙が、ため息混じりに言うと、智代が突然、
「あっ。利沙って、何年生? 何歳?」
「そうだ、聞いてなかった。高校生くらいだよね?」
智代の声の後を引き継いで奈月が聞いた。
「十六歳。学校は行ってないから。行ってたとしたら、高校二年かな」
それを受けて、
「高二か、夕実と一緒だね。……学校行かなくていいの? いいなあ」
智代が、本当にうらやましそうに言うと、奈月は冷静に聞いてきた。
「学校行ってないって、どうして? 高校行かなかったの?」
「ぜんぜん行ってなかったわけじゃなくて、去年、やめたから。
……夕実って?」
「夕実は、この部屋で一番年長の東城高二年。
……ええっ。高校中退したの。せっかく受験して合格したのに? 信じられない」
いきなり会話に入ってきたのは、いつの間にか帰ってきた中学生の女の子だった。
「里美。いきなり、びっくりした」
奈月が振り向いて声をかけると、
「ごめんごめん。びっくりした?」
利沙があっけにとられていると、
「私、里美。中学三年。よろしく」
「はじめまして。利沙です。よろしく」
里美は、自分の机にカバンを置いてから、強引に二人の小学生の間を割って入り、
「はじめまして。高校中退したって事は、受験合格したんでしょ。なんでやめるの?
もったいないじゃない。なんで?」
里美は自分のペースで話を進めていた。
利沙は、勢いにちょっと戸惑った。
「……まあ。色々ありまして」
「今年二年で、去年やめたって事は、一年の途中でやめたって事でしょう?
それって、入学してすぐやめたって事? やっぱり、なにか合わないとかあるって事?
せっかく受かったのに、なんでやめちゃうの?」
「すぐってわけじゃないけど。……ねえ。何を興奮してるの、里美?」
利沙は、里美とは正反対に、落ち着いた口調で言うと、
「だって、私、受験生だよ?
高校行くのにどれだけ勉強すればいいのか、考えただけでもうんざりしてるのに。
それを、あっさりやめられるって、それはすごいよ。受験勉強だってしたんでしょう?」
「そうか。ごめんね。確かに言われる通り」
「でしょう? ……もしかして勉強難しくてついていけなかったとか。赤点取ったとか。なの?」
里美は、自分の興味のまま聞いてくる。
利沙も仕方なく相手をする事にした。
どこにでもいる。何でも知っておかないと気のすまない人は。
「そんな事ないよ。赤点取った事はないから」
そんな話を聞いていた智代は、
「赤点って何?」
と、小声で誰とはなしに聞いた。
「赤点っていうのは、テストで悪い点を取ったかって事よ。
決められた点数が取れなかったら、赤点って言われるの」
「そうなんだ。ありがとう」
利沙は、里美の相手をしながら、智代に答えた。
「そうなんだ。あっ。学校どこ? 私、知ってる所?」
「それは、分からないけど。……教えたくない」
不満そうに、
「なんで? じゃあ。公立? それとも私立?」
「公立」
「いいなあ。私も公立ねらいだけど、なかなかたいへんだよ。私は第一志望東城高だけど」
「すごいじゃない。あそこのレベルは、たいしたもんだよ。がんばれ」
「ありがとう。でも、あそこなら、ここから自転車で通えるから決めたの。
実力はまだまだぜんぜんだから。
……だから聞いたの。受験して入った学校、なんで簡単にやめられるの?」
「簡単ではなかったけど、色々あるの。色々」
「ふーん。受験勉強した?」
里美は、覗くように話し掛け、利沙も、それに答えるように、
「した、かな? あまり頑張った気はしないけど」
「いいなあ。しなくて行けるんだ。成績良かったんだ。内申書とか、気になる事多いしな」
「……とにかく、私にできる事なら何でも手伝うから、頑張って」
「話、ごまかそうとしてるでしょ? やっぱり成績良かったんだ? きっといい学校いったんだろうなあ」
「だから、なんなの? ずいぶん突っかかってくるのね」
すると、高校生の夕実が帰ってきて、
「最近、成績下がってきてるんだよね?」
「……おかえりなさい。はじめまして。利沙です。よろしく」
「ただいま。私は、夕実。よろしく」
夕実もカバンを置くと、利沙の前に自分のいすを引っ張ってきて座った。
「高校二年。利沙も?」
「ごめん。学校は去年やめた。行ってたら、同じ二年」
「そっか。学校どこだったの?」
「あんまり言いたくない。そっちは、東城高?」
「そう。頑張ってるでしょ。ここから、……大学行けるとは思ってないけど。
でもね、一応頑張ろうかなって」
「大学、行かないの? 東城高なら行けるでしょ?」
「成績はね。でも、お金かかるし、やっぱり考えるよ」
「……そうか、大変なんだ」
「そう。でも、高校中退するって、勇気あるね? 私は無理、なんとしても卒業だけはしたい。
それより、言いたくないような学校なの?
あっ、もしかして岩井尾高? あそこならやめたくなるかも」
「違うよ。さすがにあそこには行ってない」
岩井尾高とは、成績のみならず、素行の問題としても悪い方で有名な学校だった。
「じゃあ、どこ。教えてくれてもいいでしょ?」
夕実は、しつこく聞いてきて、体をくっつけて来た。
「聞きたいの。どっちかというと、東城より上じゃないとは思うけど。で、どこ?」
「……言うまで、聞くの?」
「そのつもり。だって、やっと入った学校、一年も行かないなんて。……やっぱり、知りたい」
夕実は、面白いものでも見るように、側を離れない様子で、利沙は仕方なく、
「西城高」
小さい声で言うと。
「西城? なんで、すごい所行ってて、やめるかなあ? もったいないよ」
「……あんまり言いたくなかったんだけど」
「なんで、あそこ行ってたなんて。中退か、もったいない。なんでやめたの?
西城高ってIT関連の企業の就職率、めちゃくちゃ高いでしょう。
進学率だってそれなりにあったよね?」
「そうだね」
「そうだよ。……でも、やめちゃったんだ?」
「そういう事。もういい? この話したくない」
「わかった」
「ありがとう。それより、何か用があったんじゃないの? それ」
夕実は、手にプリントを持っていた。
「そうだった、香先生に渡さなきゃいけないんだ。行ってくる」
「いってらっしゃい」
そう言って夕実を送った。
里美は二人の会話をずっと聞いていた。話が終わると、自分の机にむかって勉強を始めた。
少しショックを受けたようだった。
目指す東城高はレベルも競争率も高い。
自分の実力以上に頑張らないと、ちょっと難しい。
西城高でも、今のままでは入れない。
なのに、そこをやめてきた本人を前に、平然とできるだけの心は、持っていなかった。
小学生達は、いつの間にかいなくなっていた。
自習室に宿題をしに行ったらしい。
利沙は、自分の机に向き直り、改めて情報収集を続けた。
そして、いつの間にか利沙の周りに人だかりが出来ていた。
利沙は、それになかなか気づかなかった。
集中していた事もあったが、時間が惜しかった。とにかく、気が急いていた。
時間だけが過ぎていた。
日が傾き、部屋の中は夕焼けに染まっていた。
その頃には、子ども達も宿題を終わらせて、手伝いや、当番に忙しく動いていた。
そんな時に、香先生の声が、
「ごはんですよぅ」




