第一章 28
小学校五年生の学校行事に、臨海学校がある。泊りがけの校外学習。
多くの子ども達にとって、初めての校外学習。楽しみにしている、行事の一つに間違いない。
もちろん持ち物は決まっているにもかかわらず、その準備から楽しくて仕方ない。
出発の頃には、たった二泊しかないわりに、盛り上がり方は、最高潮に達していた。
利沙も、荷造りの時から、ワクワクした気持ちを抑える事ができなかった。
準備はとっくに終わったはずなのに、カバンを側に置いたまま落ち着かなかった。
明日は出発の日となると尚の事、落ち着かず、いつまでも眠くならず、そわそわとしていた。
ふとんに入ってからも、明日からの事が気になって、いつまでも眠れずにいたが、その事は特に苦痛になる事もなく、朝には普通に目が覚めた。
いつ眠ったのかはさっぱり分からなかったが、すっきりと目覚める事ができた。
しかもいつも起きるよりもずっと早く。
母親はとっくに起きていて、兄の弁当を作っていた。
利沙はその様子を見ていたが、そのうち持って行くカバンの方へ行くと、ファスナーを何度も開けては閉めて、開けては閉めてを、繰り返していた。
その様子に気づいた母親が、
「何してるの、何回も開けたり閉めたり。そんなに繰り返してたら、ファスナー壊れるわよ」
「だって、気になるんだもん。初めてみんなと一緒に夜寝るんだよ。いろんな事するって言ってたし、楽しみだなぁ」
「何言ってるの。勉強しに行くんでしょ? ふざけてると怪我するわよ。
ちゃんと先生の言う事聞いて、みんなに迷惑かけるような事しないようにね」
「分かってるよそんな事。ねぇ、それよりこのカバン、お兄ちゃんも使ってたんだよね? 私くらいの時」
「そうよ。お兄ちゃんも、そのカバンで臨海学校行ったわよ。
そんな事より早く準備しなさい。昨日のうちに持ち物は準備終わってるでしょ。
後は利沙の準備だけね。食べたらさっさと着替えてね」
そう言いながら、利沙の朝食の準備を手早く整えた。
「はぁい。でも、嬉しいな」
利沙は、食卓についても、カバンに目を移した。
それを見て、再度母親が、
「早く」
そう言われて、慌てて食事をした。
それを見ていた兄が大笑いして、
「利沙。早くしないと、置いて行かれるぞ」
と、冷やかした。利沙は、
「そんな事ないもん。ちゃんと間に合うよ。お兄ちゃんこそ、遅れちゃうよ。」
お互いに食べながら話していると、
「ほら、二人とも早くしなさい。遅れるわよ」
母親のその声に二人同時に、
「はぁい」
……そんなやり取りが、懐かしく利沙の目に映っていた。
そんな事とは思いもよらない立石は、利沙がすっかり静かなのに対して、
さっきの母親とのやり取りがショックだったのだろうと、勝手に解釈していた。
そのためになんと声をかけようか迷っていた。
利沙は、ずっと窓の外に視線を向けたままだった。
立石は車を走らせながらも、ずっと利沙の様子を気にかけていた。
時々ルームミラー越しに見ていたのだが、その雰囲気を利沙が察したのか、
「どうかしました? 立石さん」
突然声をかけられて、一瞬驚いたが、
「そんな事ないけど、……。あっ、そうそう、おなかすかない?」
慌てて話題を探って言ったが、ちょうど、もうすぐ十二時になろうとしていた。
「もうお昼だし、お昼ご飯済ませてから行ってもいいかもね。どう、いいアイデアでしょう?」
我ながら満足した。
内心ほっとしながら、改めて利沙の様子を伺おうとルームミラーを見ると、利沙と目が合った。
利沙もルームミラーを見ていたからだ。
「そうですね。でも、遅くなりますよ。立石さんも忙しいでしょう。
さっさと私を送って行ってから、ゆっくりお食事して下さい」
立石は、利沙のその言葉に、強い抵抗を感じた。
「子どもがそんな事気にしないの。
大人が一緒に食べようって言ってるんだから、素直にいただきますって言えばいいのよ」
語気荒く言ってから、申し訳なさそうに、
「ごめん。怒っているわけではないの。ただ、あなたが気にしないでいい事なのよ。
こういう時は、大人が決めた事に対して、意見する必要はないの。分かった?」
こわごわと後ろの様子を伺うと、利沙はなんでもなかったかのように、
「すみません。では、ご馳走になります」
と、頭を下げた。それを見て、立石は安心した。
利沙が自分を警戒したのではないかと思ったからだ。
しかし、今の利沙からはその様子は見えなかった。ほっとして、こう続けた。
「そう、それでいいの。ラーメンとかどう?
私食べたいなと思ってるのよね、おいしい所知ってるのよ。いいでしょう?」
後ろを見ると、利沙は笑顔で、
「いいですよ。おまかせします。私、そういうの良く分からないし、立石さんの行きたい所に連れて行って下さい」
頭を下げながら言う利沙を見て、立石は気が大きくなっていた。
「任せなさい。美味しいって言わせて見せるから、期待してて」
自信満々に言う立石は、正直ほっとしていた。
利沙が笑顔を見せてくれたから。
立石は、車を走らせながらもちょっと嬉しかった。
利沙に子どもらしい表情を見る事ができたから、なんだか嬉しくなった。
しばらく走ると、ラーメン屋ののぼりが見えてきた。
車をそこの駐車場に止めると、
「さあ、着いたわよ。ここが美味しいラーメン屋さん。行きましょう」
立石は、利沙のために、車のドアを開けた。
利沙は、両手の杖を支えに車から降りると、少し驚いた。
そこの駐車場に止まっていたのは、たった今、乗ってきた立石の車だけだったからだ。
お昼時、飲食店なら一番混み合っていてもいいはずなのに、今一台しか止まっていない。
ちょっと不安になった。立石はその疑惑を察した。
「大丈夫よ。味はいいから。でも、一つだけ言わせて。
ここ、私の実家。父がしているお店なの、本当は定休日なんだけど、今だけ開けてもらったの。
どうしてもあなたに食べて欲しかったから、ごめんなさい。でも、……本当に美味しいのよ」
立石の必死とも思える言い様に、利沙は圧倒されながら、頷く事しかできなかった。
「……分かりました。でも、私なんかのために、そんな事までしてもらってもいいんですか?」
「私なんかなんて、言うものじゃないわよ。
それにかまわないの、私が食べて欲しいんだから。気にしないで食べてちょうだい」
これまた、自信満々に答え、店に入るように促した。
利沙もそれに従い杖を使ってゆっくりと店に向かって歩いた。
入り口に着いた時、声をかけてきた人があった。
開店時には掛かっているはずの、暖簾がなかったにもかかわらず、
「今日、開いてますか?」
と、聞いてきたのだ。
「いいえ。お休みです。ちょっと用事があって寄っただけですから」
立石はそう答えると、その人はつまらなそうに歩いて行った。
それを見て、とびきりの笑顔で、
「ね。有名でしょ?」
利沙に耳うちしてきた。
ちょっと自慢そうに。利沙は、それに笑顔で返した。
「さあ、入りましょ。父が待ってくれているはずよ」
入り口のドアに鍵はかかっておらず、ガラスの引き戸を開けた。
開けた途端。
「いらっしゃいませ」
威勢のいい声が掛けられた。
利沙は、その声に一瞬ひるんだ。というか、足が止まった。
「こんにちは。おじゃまします」
そう言うのが精一杯だった。
「さあ、入って!」
立石の明るい声に背中を押されるように、椅子に座った。
杖を横に置き、利沙は改めて店の中を見回した。
すると、とても整頓された、清潔な内装が目に飛び込んできた。
とても居心地がよくて、いつまでもこの中にいたいと思わせてくれた。
しかも、店の中いっぱいに、ラーメンのスープの匂いがつまっていた。
ここは、とても居心地がいい。そう思っていると、
「ラーメンでいいよね? ここ、餃子も美味しいけど、食べられる」
立石が聞いてきた。
「ラーメンはいただきます。でも、餃子はやめておきます。これから、人と会うから」
利沙のその一言に、
「そうよね。そうね……じゃあ、シューマイにしよう。それなら大丈夫」
そう言ったかと思うと注文しにカウンターに向かって行った。
身軽だ。
利沙はそんな印象を受けた。すると、
「友延さん、他に食べたいものある?」
と、ふいをつくほどの声で、カウンターの前から聞いてきた。
「いいえ」
利沙は、一言だけを返した。
立石は、OKと手で合図してきた。思い切りの良い笑顔で。




