穏やかさのノイズ
都市の朝は、いつも同じ色をしていた。壁面の大型スクリーンが淡い青を流し、呼吸を数えるように「鎮静化」の文言を繰り返す。通勤者は目を合わせず、互いの端末に浮かぶ数値だけを確認する。E-Index――感情スコア。生活の通行証。
市役所の窓口で、ミナト・カガミは淡々と番号を呼んだ。
「次の方、申請番号を。……E-Index、42。医療補助は基準未達です。規定ですので」
窓口の向こうの老人は、胸元を押さえたまま、声を削るように言った。
「息が、苦しいんだ。数字が低いと、薬も出ないのかい」
ミナトは規定集のページを指でなぞり、声の温度を一定に保つ。
「緊急外来の一次受付は可能です。ただ、継続的な補助は……。生活指導プログラムへの参加でスコア改善が見込めます」
老人は笑ったのか、咳き込んだのか、判別できない音を漏らした。
「指導? 息をするのも指導がいるのか。……もういい」
背中が小さくなるのを見送った瞬間、ミナトの胸に、ひびのようなものが走った。規定を説明しただけだ。そう言い聞かせようとすると、隣のカウンターから同僚のシオリ・タチバナが身を寄せてきた。
「ミナト、顔、固いよ。窓口って、こっちのスコアも削るからさ。深呼吸、深呼吸」
「大丈夫。規定を説明しただけだ。感情を入れると誤差が増える」
シオリは苦笑し、目だけでスクリーンを示した。
「誤差って言い方、ほんと整合課。……でもさ、誤差にも、痛みってあるよね」
ミナトは返事をせず、端末の画面に視線を戻した。データ整合課。発言ログと生体データの揺らぎを「正しい形」に整える部署。CALMが算出するE-Indexが、都市の秩序を支える。その秩序のために、誤差は消される。消されるべきものは、最初から存在しなかったことになる。
午後、定例の整合チェックを回していたとき、画面の隅で小さな警告が瞬いた。
死亡扱いIDの監視網検知。
ミナトは手を止め、ログの行を拡大した。
「定例チェック……死亡扱いIDが、監視網に断続的に出る? 位置は都市縁部、死角区画。生体反応は……ノイズみたいだ」
誤検知として閉じれば終わる。そういう手続きは用意されている。だが、揺らぎの形が妙に整っていた。偶然の誤差ではなく、偶然に見せかけた規則。
「誤検知で閉じれば終わる。けど、この揺らぎは……作ってる。誰かが」
ログ末尾に残った古い顔写真が表示された瞬間、喉が乾いた。
「……顔写真。氏名、ユイ・サエグサ。死亡記録があるはずだ」
背後から、シオリの声が少し高くなった。
「ミナト? 今、誰の名前、見たの」
「ただの整合対象だ。気にするな」
シオリは笑顔を保ったまま、指先で机を二度叩いた。合図のように。
「気にするな、って言い方がもう気にしてる。……ねえ、お願い。業務の範囲で終わらせて」
「業務の範囲、か。死者がログインしてるのに?」
「その言い方、危ない。……深入りしない方がいい。ほんとに」
ユイ・サエグサ。幼なじみ。数年前、事故で死んだと聞いた。葬儀も火葬も、仕事の忙しさを理由に、ミナトはどこか遠い出来事として処理してしまった。都市が用意した「穏やかな喪失」に乗った。
その夜、ミナトは内部アーカイブを掘った。事故死。迅速な火葬。遺族手続きの簡略化。関係者聴取ログの欠落。整いすぎた書類には、生活の匂いがない。
「内部アーカイブ……事故死。火葬、迅速。遺族手続き、簡略化。聴取ログ、欠落。整いすぎてる」
画面の片隅に、一瞬だけ別のフラグが浮かび、すぐに黒塗りになった。
「情動矯正プログラム……フラグが一瞬出た。権限不足。隠したい項目がある」
背後で椅子が軋む。シオリが、誰もいないはずの時間に席に戻ってきていた。
「ミナト、どこまで見たの? ねえ、冗談じゃなく、監査に引っかかるよ」
「監査が怖いから見ない、で済む問題じゃない」
「怖いんじゃない。……終わるの。あなたの生活が」
その言葉が、脅しではなく祈りに聞こえたのが、いちばん恐ろしかった。
翌日、ミナトはログに残る位置情報を辿って都市の縁へ向かった。監視の密度が薄い区画。整備されていない歩道。公式案内のない地下入口。そこに、不自然に新しい誘導サインが貼られていた。
「都市縁部の死角……誘導サインが公式導線じゃない。誰が置いた」
地下通路に足を踏み入れた瞬間、複数の声が同じ名前を呼んだ。だが声紋が違う。まるで別々の人間が同じ台本を読んでいる。
「カガミ・ミナト。止まれ」
「誰だ。声紋が違う……同じ呼び止めを複数人?」
闇の中から現れた人物は、顔の輪郭が曖昧だった。光を吸う布で、肌の反射を消している。
「声紋で人を数える癖、職業病だな。安心しろ、ここは監視の外」
低い声。名乗りは短かった。
「カナメ」
ミナトは周囲を見回した。監視の外など、都市に存在するはずがない。
「監視の外なんて、都市にあるはずがない」
「ある。薄いところ、破れたところ、わざと空けたところ。君が見つけたのは“都市が最も隠したい種類の例外”だ。死亡者のログイン」
ミナトは反射的に身構えた。
「俺は整合課だ。例外は誤差として処理する」
カナメは笑わない。ただ、言葉だけが刺さる。
「君の仕事は整合じゃない。切り落としだ。数字からはみ出たものを、なかったことにする」
ミナトは否定しようとした。秩序のためだ。社会不安を防ぐためだ。だが、窓口の老人の息苦しさが、言葉の前に立ちはだかった。
「……違う。俺は秩序を保ってる」
「秩序が誰を守ってる? まあいい。拒むなら拒め。これは一回限りの鍵だ。使うかどうかは君が決めろ」
カナメは小さなデバイスを投げて寄こした。受け取った瞬間、冷たさが掌に残った。
「ノイズ……反体制ネットワーク? 俺を巻き込む気か」
「巻き込まれてるのは最初からだ。君が気づいただけ」
鍵の示す座標は、公式地図に存在しない。廃棄された配管の隙間を抜けた先に、臨時拠点があった。そこには、配線と端末と、街の裏側の匂いが詰まっていた。
迎えたのは、軽口の似合う男だった。
「よう、整合課。手、洗った? ここ、衛生基準ゼロだからさ」
「ふざけるな。俺は証拠もない話に乗る気はない」
男――リツ・マシロは肩をすくめ、端末を回転させた。
「証拠なら、ほら。矯正プログラムの仕様断片。感情を抑えるんじゃない。記憶連鎖と関係性を切る編集。再結束の可能性を減らす」
ミナトは画面を睨んだ。
「治療だろ。危険情動を抑えて社会を安定させる」
カナメが背後から、紙の束のようにログを差し出した。監査ログの断面。矯正対象、死亡扱い、遺族手続き簡略化、聴取ログ欠落。
「治療の名で、死亡処理と戸籍改竄が常態化してる。これが監査ログの断面。整いすぎる書類。君なら読めるだろ」
ミナトは、喉の奥で名前を転がした。
「……ユイが、その対象だと言いたいのか」
「可能性が高い、ってやつ」リツが言って、指を鳴らした。「断言はしない。断言した瞬間、こっちの頭が軽くなる」
ミナトは自分の仕事を思い出す。数字を正しくする。誤差を減らす。
「俺の仕事は、数字を正しくすることだ」
「正しく“見える”ようにすることだろ」カナメの声は平坦だった。「で、君は今、見えないものを見た。さて、どうする」
答えはまだ出なかった。ただ、帰宅して母の顔を見たとき、別の痛みが形を持った。
古いラジオを棚から引き出し、周波数を合わせた瞬間、母のミサキが手で耳を塞いだ。
「やめて。……その音、いや。消して。お願い」
「ごめん」ミナトは電源を切り、息を整える。「……父さんの話、してもいいか」
ミサキは一瞬、空を見た。そこに答えがあるかのように。
「……お父さん? ミナト、あなた、疲れてるのよ。最初から……いなかったでしょう」
言葉が、部屋の空気を凍らせた。
「いなかった? そんなはず——」
ミサキは笑おうとして失敗し、代わりに制度の安心を繰り返した。
「スコアがあるから大丈夫。落ち着いて暮らせるの。ね、余計なこと考えないで」
その夜、家庭用端末の古いバックアップを掘ると、通院記録の欠落と家族構成データの改訂痕が見つかった。空白は、偶然ではなかった。
「……バックアップに欠落がある。通院記録も、家族構成データも改訂痕。ユイだけじゃない。うちも、切られてる」
翌週、職場に監督官が現れた。オオトモ・レンジ。柔らかな物腰。優しい声。だが、その優しさは手続きの刃だった。
「カガミさん。お時間、よろしいですか。最近のアクセス傾向に、少し“揺らぎ”が見えました。心配でして」
「業務上必要な参照です。規定の範囲内だ」
オオトモは頷き、まるで相談役のように言った。
「ええ、ええ。罰したいわけではありません。戻れる道を、いつでも用意しておきたいだけです。相談窓口や鎮静プログラムも——」
ミナトの口から、思ってもいなかった言葉が滑った。
「鎮静が必要なのは俺じゃなく、この制度の方だ」
オオトモの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「その言い方は、不安を増やします。……死者の記録に触れるのは危険です。あなたのために言っています」
「俺のため、か」
その日から、ミナトのE-Indexは落ち始めた。公共交通が弾く。職場端末の機能が削られる。住宅ゲートが一拍遅れて開く。隣人の挨拶が薄くなる。会議で、誰もミナトの意見を拾わなくなる。
シオリは距離を取りながらも、帰り際に小さく囁いた。
「ミナト、会議で発言、控えた方がいいよ。みんな、あなたのスコア見てる」
「見てるのはスコアで、俺じゃない」
シオリは目を伏せ、決心したように言う。
「……帰り際に一つだけ。整合課の旧サーバ室、監査ログの写しが残ることがある。たまに、消し忘れ」
「どうして教える。危ないだろ」
「危ないのは、最初から。……でも、全部が嘘になるのも、嫌」
ミナトは旧サーバ室に潜り、職務権限を限界まで使ってCALMの学習データに触れた。そこにあったのは、表向きの「危険情動」ではない。重く評価されている特徴量は、他者との連帯可能性だった。
会話の相互参照。集団行動の芽。同じ怒りの語彙の共有。
ミナトは息を吐いた。
「CALM学習データ、評価特徴量……“危険情動”より重いのは、連帯可能性。会話の相互参照、集団行動の芽、怒りの語彙共有」
自分の仕事が、何を整えてきたのかが、やっと輪郭を持つ。
「個人の危険じゃない。結束の確率を刈り取ってる」
ノイズの拠点に戻ると、カナメが短く言った。
「やっと言語化したな。君の内部の言葉で。スクショじゃなく監査ログで抜け。改竄されない形で」
「……渡す。俺が読める形で整える。誰が見ても“手続きの異常”として残るように」
作戦は決まった。都市中枢の放送インフラを使い、全市一斉スコア更新の瞬間に証拠を流す。
リツが配線図を広げた。
「放送計画、いくよ。全市一斉スコア更新の瞬間に差し替え。差し替え可能なのは、最大で七秒。冗長系が生きてると三秒」
カナメは冷たいほど落ち着いていた。
「英雄譚は要らない。誰の手柄にもならない形で、事実だけを残す。視聴者の感情を煽る文言は削れ」
「煽らない」ミナトは言った。「監査ログの形式で出す。改竄死亡記録、矯正フラグ、評価ロジックの重み。読む人間が読めば終わりだ」
「読む人間が読む前に、上書きが来るけどね」リツが笑う。「だから、秒数の勝負」
その頃、ユイの生存ログは濃くなっていた。廃駅の奥、使われなくなったホームの暗がりで、ミナトは彼女と再会した。
「ミナト……久しぶり」
穏やかに笑う癖は変わらないのに、距離の取り方だけが別人だった。
「ユイ。……本当に、生きてたのか」
「“生きてる”って、言い方が変だね。うん、生きてる。たぶん」
「たぶん、って何だ」
ユイは言葉を探すたびに、途中で糸が切れるように黙った。
「思い出そうとすると、途中で途切れるの。あなたのことも、全部は繋がらない。……でも、あなたを巻き込みたくなくて、私から切った」
胸の奥が熱くなった。
「守るために? 俺は守られたんじゃない。制度の都合で“残された”だけだ」
「ごめん。あの時、選べる言葉が少なかった」
「謝るな。怒ってるのは、君じゃない。……いや、怒りの向きが分からない」
ユイは小さく頷いた。
「分からないままでいい。分からないって言えるの、ここでは強いよ」
放送計画が進むほど、ミナトのスコアは臨界へ近づいた。行動範囲は削られ、端末は常に警告を出し、街は彼を避けた。正しさを証明するほど孤立する、という構造が骨に染みていく。
そんな中でユイは、別の目的を口にした。
「中核に、矯正対象者の未消去バックアップが残ってる。解放するには、中枢サーバを物理的に切り離すしかない」
リツが即座に反発した。
「待って。スコア配信を止めたら、医療配給も交通も就労ゲートも止まる。社会的コスト、洒落にならない」
「止めない限り、誰も戻れない」ユイは揺れなかった。「切られた関係は、ずっと“なかったこと”のまま」
ミナトは二人の間で、初めて秩序と生の優先順位を問われた。
「秩序が先か、生が先か……。俺はずっと、秩序の側に立ってた」
そして、自分の家の空白を思い出す。
「でも、秩序が人を切るなら、俺はその外の責任を引き受ける。放送も、切り離しも、やる」
決行前夜、カナメは作戦を最小単位に分割した。
「決行前夜。作戦は最小単位に分割。誰かが捕まっても全体は出ない。連絡は一回、確認は三回。感情で動くな」
リツが肩をすくめる。
「感情で動くな、って言いながら、感情がないとここまで来ないの、皮肉だよね」
「皮肉は余裕の証拠だ。余裕があるなら手を動かせ」
その夜、ミナトの端末に匿名のメッセージが届いた。入退室記録の穴と鍵更新タイミング。シオリの癖のある言い回し。
「……シオリから、入退室記録の穴と鍵更新タイミング。匿名だが、彼女だ」
「善意は信じるな」カナメは即答した。「情報だけ信じろ。使える」
ミナトは寝室の母を見た。穏やかな寝顔。そこに父の不在が自然として固定されている恐ろしさ。証拠媒体を胸ポケットに入れ、家を出た。
更新時刻。中枢の感情スコア配信局。
リツが配線盤に潜り込み、指先だけで世界を変える作業を始めた。
「一系統、落とした。二系統、遅延入った。今だ、整合課。秒で流し込め」
ミナトは端末に監査ログを叩き込む。改竄された死亡記録。矯正フラグ。CALMの評価ロジック。
「改竄死亡記録、矯正フラグ、評価ロジック……出ろ。穏やかさの皮を剥がせ」
都市中のスクリーンに、数秒だけ別の世界が映った。穏やかさの下で行われている編集の痕跡が、手続きの形式そのままで露出する。
だが、カナメの声が通信に割り込む。
「外部撹乱、限界。治安側、非常事態宣言の準備に入った。上書き来るぞ」
直後、画面が白くなり、柔らかな声が全市に流れた。
「市民の皆さま。不安は扇動です。深呼吸してください。正しい手続きが、あなたを守ります」
オオトモ・レンジの声だった。事実はノイズとして塗り潰され、鎮静化メッセージが上書きされた。
ミナトは歯を噛み、呟いた。
「上書き……消される」
ユイが、迷いなく次の手を選んだ。
「なら、次。バックアップを解放する。サーバを切り離す」
リツが一歩下がる。
「本気か……。止めたら、街が止まる」
「止まらないと、ずっと止められたまま」
リツは配線を握り直した。軽口の消えた目で。
「……短い混乱で、長い支配を割る。言ったの、俺だっけ。分かった。やる」
切り離し。瞬間、配信局のランプが沈黙し、都市のあちこちでゲートが止まった。
「切り離し完了……ゲートが沈黙した」
遠くから叫びが上がる。
「開かない! 通れない! どうして!」
「スコア、消えた? 嘘でしょ……私、どうすればいいの」
混乱は確かに始まった。だが同時に、誰もが初めて、スコアなしで互いを見て決めることを強いられる。助けるか、見捨てるか。譲るか、奪うか。手続きを待たずに、自分の感情で。
治安部隊の足音が近づく。ユイは端末に指を走らせ、最後の工程へ入った。
「ミナト、退いて。最終工程、私がやる。あなたは逃げて」
「一緒に行く。置いていけない」
ユイは穏やかに笑い、その笑顔だけが昔のままだった。
「置いていくんじゃない。残すの。あなたに、関係を。今度は切らないために」
ミナトは言い返せなかった。言葉が追いつく前に、ユイは扉の向こうへ消えた。
逃走経路で、ミナトはオオトモと鉢合わせた。彼は怒鳴らない。拳も振るわない。救いの形をした檻を差し出す。
「カガミさん。ここにいましたか。戻りましょう。あなたなら救えます。手続きの中で」
ミナトは息を吸い、はっきり言った。
「その救いは、関係を切る救いだ。母から父を、俺からユイを。……もう要らない」
オオトモは悲しむように眉を寄せた。
「混乱は人を壊します。あなたが見た“痛み”は、今から増える」
「痛みを消すために人を消すのが、あなたの秩序だ。俺は、痛みがあっても人を残す」
その後、ミナトは街の影に紛れた。ユイが捕らえられたのか、消えたのかは分からない。ただ、監視網の片隅に“生存”の断片が、ノイズのように残り続けた。
事件の後、都市はすぐには変わらなかった。スコア制度は残り、鎮静化広告も続いた。だが、あの停止の短い時間が、唯一の物差しに亀裂を入れた。
職場では臨時の対面承認が復活し、自治体では相互署名が使われ、商店街では信用が手渡しされるようになった。誰もが、スコアが絶対ではない瞬間を体験してしまったからだ。
ミナトは公職を追われ、身分は不安定になった。それでも、ノイズの一員として動き続けた。派手な革命ではなく、改竄されない「関係の記録」を手作りで残すために。矯正から戻りかけた人々の証言を集め、誰と誰が、どんな声で呼び合っていたかを、消せない形にする。
ある夜、匿名回線が鳴った。シオリの声だった。
「ミナト、生きてる? ……返事しなくていい。もう、追跡が荒い」
ミナトは暗がりで短く答えた。
「生きてる。ありがとう、シオリ」
家に戻ると、母ミサキは机の前で手を握りしめていた。
「ミナト……最近、眠れないの。変な夢を見る。誰かが、私を呼ぶ声」
「どんな呼び方だった?」
ミサキは戸惑いながら、唇を震わせた。
「……ミサキ、って。昔みたいに。ああ、変ね。泣きたくなる」
ミナトはその言葉を、胸の奥で大切に受け取った。
「変じゃない。切られたはずの関係が、残ってる」
ミサキは不安そうに尋ねた。
「あなた、何をしてるの。危ないこと?」
ミナトは頷いた。
「危ない。でも、必要だ。統治より先に、感情とつながりがあるって、証明する」
後日、路地裏の小さな拠点でカナメが言った。
「記録網、次の路地に広げる。証言は“改竄されない関係の記録”として残す。派手にやるな。消えない形でやれ」
ミナトは頷き、息を吸う。ユイの行方は確定しない。けれど、可能性は残った。数字が切り落とせなかったものが、確かにある。
「分かった。……ユイの生存は確定しない。けど、可能性は残った。俺は、その可能性の側に立つ」
都市は今日も穏やかな色を流す。だが、その穏やかさの下で、ノイズは生きている。呼び合う声が、記録の外側で繋がっていく。ミナトは路地へ歩き出し、誰かの名前を、今度は切られないように書き留める。




