神が降りた島(2)
七.潮の声を聞く場所へ
今日は、私たちはなっちゃんの家に集まって、お弁当を食べることになった。
なっちゃんの家の居間は、六畳ほどの和室。そこに叔母さんたち八人がぎゅうぎゅうと座り込んで、夏の暑さと濃い笑い声で、むんむんとした空気が充満していた。
コンビニ弁当を口いっぱいにほおばりながら、私は言った。
「この間、孫たちとお風呂から上がり、バスタオルを用意するのを忘れててさ。居間でビール飲んでた夫の前を、裸のままバスタオル取りに走ったわけ。で、すぐに孫たちのいる脱衣所に戻ったんだけど……往復で夫に裸見られたかと思うと、もう恥ずかしくて、しばらく顔見られなかったさ」
話し終えるなり、周囲から「いやだ!」「見られてるって絶対!」「その晩何事もなかったの?」と大爆笑が起こった。
「あるわけないでしょう。もう私も夫も還暦だよ」
笑いは止まらず、智子さんがテーブルをたたいて「このメンバーで静かにご飯なんて、一生無理さね!」と言うと、全員がまたドッと笑った。
いつもの、どうでもいいような、でもやたらと面白いバカ話に、部屋は熱気と笑いで満たされていた。
わたし――米須順子、みんなからは「ムヌシリ」と呼ばれている。拝所の場所や、沖縄の行事ごとのあれこれも聞かれればたいてい答えられるから、自然とそう呼ばれるようになったけれど、そんな肩書きは、この笑いの中ではどうでもよくなる。
ふと庭に目をやると、荒れ果てた緑の影が揺れていた。なっちゃんはきっと忙しいのだろう。草は生え放題で、庭の片隅に植えられたアカバナー(ハイビスカス)も、雑草に飲まれてしまっている。赤い花びらも、いまはどこかへ隠れてしまったみたいだった。
でも不思議と、それがなっちゃんには似合っている。整えられた庭より、自然のまま、草に覆われて風に揺れている風景が、なっちゃんの生き方そのもののようだった。形にとらわれず、常識に縛られず、あるがままに、ただそこに在る。そんな風に生きているなっちゃんだからこそ、草に埋もれた花も、どこか誇らしげに見える。
お弁当を食べ終えたあと、なっちゃんが台所から氷の入った麦茶を運んできてくれた。
その姿を見て、少し意外に感じた。なっちゃんには、どうもこういう家庭的なことが似合わない。
麦茶を注いで運んでくるその手つきも、どこかぎこちなくて、いつもの自由奔放な彼女とはちょっと違って見えた。
だからこそ、その何気ない仕草が、私たちには少しおかしくて、そしてちょっと嬉しかった。
キン、と涼しげな音を立てながらグラスが並べられ、ようやく場の笑いもひと段落。
汗ばんだ額をぬぐい、麦茶を口に含むと、冷たさが喉をすべり落ちて、体の奥深くまで静かに染みわたっていった。
その静けさの中で、私はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、ちょっと話してもいい?」
カラン、とグラスの氷が小さく鳴った。みんなが麦茶を手にしたまま、私の方を見た。
「この間ね、サザエちゃんが久高島のフボー御嶽に行ってみたいって言ってたでしょう?でも、あそこは今、誰も入れない完全な聖域になってるのよ」
「えっ、いつからそうなったの?」と、ひとみさんが身を乗り出してきた。
「ついこの前まで、観光の人たちも入ってたんだけどね……。写真を撮ったり、石を拾ったり、ひどい時には木の枝を折って持ち帰ったり……。神さまの庭で、そんなことしちゃいけないって、気づかないんだよね」
話しながら、私は胸の奥に小さな痛みを感じていた。
「神さまの場所は、静かに敬うべきなのにね」
「小石一つ、小枝一本でも、そこにあるものは全部、神さまのものだから、勝手に持ち出しちゃいけないの」
その時、ぽつりとしずかさんが口を開いた。
「最近はね、伊計島のフボー御嶽も、無断では入れなくなってるのよ」
「伊計島?」と私が聞き返すと、しずかさんはうなずいた。
「うん。あそこはね、御嶽に渡るには胸まで海に浸かって、小島に行くの。島の人たちにとっては本当に大切な祈りの場所だから、地元の案内がないと行けなくなってるのよ」
「ねえ、なっちゃん、他にも立ち入りが禁止されている拝所ってあるの?」
ひとみさんが聞いてきた。
「実はね、フボー御嶽だけじゃないのよ。久高島のヤグルガーとか、ハビャーン(カベール岬)、それにイシキ浜なんかも、今は立ち入りが禁止されているの」
「他にね、宮古島の大神島にある御嶽とか。それから、渡名喜島のイビガナシ御嶽も、今は地元の人以外は立ち入りを遠慮してもらっているの。実はね、そういう場所、沖縄にはけっこうたくさんあるのよ」
なっちゃんは少し間を置き、声を落として続けた。
「でもね……本来、こういう聖地って、閉ざされたものじゃなかったはずなの。神さまや祖霊とつながる場所は、地域の人たちが大切に守って、祈りの場として開かれていた。でも、最近は観光地化が進んだり、マナーを守らない人が増えたりして、やむをえず立ち入りを制限せざるを得なくなった場所が多いのよ」
少し寂しそうに、なっちゃんは付け加えた。
「立ち入り禁止って聞くと、ただの規制に思えるかもしれないけど、そこには守らなければならない何かがあるの。それを理解せずに従うだけじゃなくて、なぜそうなったのかを考えてみることも、大事なんじゃないかな」
「これから先、きっと観光客はもっと増えるだろうし、SNSなんかで拝所の場所が広まって、知らずに踏み込んでしまう人も増えると思う。でも、そのたびに立ち入り禁止の札を立てるだけじゃ、本当に大切なものは守れない気がするの」
「だからね、私たち一人ひとりが、祈りの場って何だろう、ここで人は何を願い、何を感じてきたんだろうって、心を寄せること。それが、拝所を守るいちばんの力になると思うの。知ること、感じること、そして敬意をもつこと――それが大切」
そして、静かにほほえんだ。
「人の手で石を積んだ御嶽も、自然の中にひっそりとある拝所も、どれも同じように、目には見えない祈りの記憶を抱えてる。私たちがそれを忘れずにいることで、たとえ入れなくても、つながりは切れないと思うの。
拝所ってね、入ることが目的じゃない。そっと思いを馳せること、それだけでも、もう立派な祈りなんだから」
「パワースポットだからとか、珍しいからとか――そんな理由で来る人も、最近はすごく多くなったよね。写真を撮って、エネルギーだけもらって帰るみたいな感じで。でも、それって本当は、とても一方的で、祈りの本質からはずれてると思うのよ」
なっちゃんは静かに息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「拝所は、観光のためにあるんじゃない。そこには、土地の人たちが代々守ってきた思いや、神さまとの約束のようなものがある。だからこそ、たとえ足を踏み入れなくても、ここに祈りの場があるって感じて、敬意をもって接すること。それだけでも、ちゃんとつながることはできるんだよ」
そのまなざしは真剣で、言葉には揺るぎない想いがにじんでいた。
「大切なのは、何かをもらう場所だと考えるんじゃなくて、何かに感謝し、何かを委ねる場所だと気づくこと。そうすれば、きっと、私たちの拝所との関わり方も変わっていくと思うの」
なっちゃんの言葉が静かに空気に溶けていったあと、由美子さんがふっと小さくため息をついた。その音には、深い敬意と、どこか拭いきれない戸惑いがにじんでいた。
私は、その気配を感じながら、麦茶の入ったグラスをそっとテーブルに戻し、ゆっくりと口を開いた。
「でもね、もし、そういう場所が当たったら……どうする?」
「その時はその時さ。もしそういう拝所が当たっちゃったら、またみんなで考えようよ」
智子さんが笑って、また部屋にほんのりと温かい空気が戻ってきた。
「ねえ、しずか弁護士。あんたの拝所カルタに、そういう拝所も入ってるの?」
裕子さんが興味深そうに訊ねると、しずかさんは少し得意げに笑ってうなずいた。
「うん、もちろん入ってるよ。フボー御嶽も、大神島の御嶽もね。ちゃんと読み札には『立ち入りはできません』ってことも書いてある。遊びながら、自然に学べるようにしたかったから。ただのパワースポットじゃないんだって、ちゃんと伝えたくてね」
「じゃあ、またいつものようにじゃんけんで勝った人が、次行く拝所を選ぶってことで始めようか」
しずかさんはそう言いながら、そっと鞄の中から一束の拝所カルタを取り出した。
「拝所、増えたの?」
「うん、今、五十七枚になったよ」
しずかさんはカルタを広げながら続けた。
「読み札の文章は、良寛に書いてもらってるの。来月くらいには完成させようかなって思ってるんだけどね」
「百枚、百人一首みたいに作るのは難しいの?」
ひとみさんが尋ねると、しずかさんは少しだけ眉を寄せて考えるような顔をした。
「拝所はたくさんあるから、作るだけならそんなに難しくはないの。でもね、たぶん誰も知らない拝所ばかりになって、カルタ取りとしてはあんまり面白くない気がするのよね」
「どうして?」
「例えばね、沖縄市の田原にある満喜世御願所とか。歴史はあるんだけど、知らない人の方が多いでしょ?」
たしかに、私もそれは聞いたことがなかった。
「そういうのばっかりになると、遊びとしては難しくなるかもね」
「うん、だから今はちょっとずつ、みんなが知ってるそれなりに知られている拝所を織り交ぜながら作ってる。作るのは大変だけど……まあ、頑張ってるの」
「うん、応援してる。きっと素敵なのができると思う」
しずかさんは、ほんの少し照れたように笑った。
「じゃ、いこうか。いつものように――じゃんけんぽん!」
手のひらが空に舞い上がった。じゃんけんの声が重なり合う一瞬の静寂――そして、私が勝ってしまったのだ。
不思議と、そうなるような気がしていた。まるで、天がそっと背中を押してくれたように。
予感が当たったのか、それともこれが天の導きなのか。私は自分の手を見つめ、深く息をついた。
これはきっと、お告げなのだ。ならば喜んで従おう。
しずかさんが差し出した拝所カルタから、私は七枚目の札をゆっくり裏返した。
その札には――「ヤハラヅカサ」と記されていた。
静かにその言葉を読み上げると、しずかさんがふっと微笑んだ。
「ね?ちょっと変わった拝所でしょ」
その言葉に、さっきしずかさんが語っていた伊計島の御嶽のことが思い出された。
胸まで海に浸かりながら、祈りの場へと向かう――そんな光景を想像しながら聞いていた。
伊計島の御嶽のように、ヤハラヅカサも海に守られた拝所だった。海の中にある、特別な拝所。
ふだんは海の中にひっそりと隠れていて、その姿を見ることはできない。
けれど、潮が引くと、静かに姿をあらわす。
海が、胸の奥にしまっていた秘密を、ほんの一瞬だけ語りかけてくるように。
みんなの視線が、私の引いた札に集まる。
ざわりと、心に波が立つ。行く先は決まった。次の旅は、海の底から現れる神々の記憶を訪ねる――そんな一日になるのかもしれない。
そして今日、私たちは新原ビーチの駐車場で落ち合うことになっていた。
私が乗った車は、しずかさんが運転し、助手席になっちゃん、後部座席に良寛さんと私の四人。
もう一台は恵さんの車で、由美子さん、裕子さん、智子さん、ひとみさんの五人が同乗している。
どうやら私たちの車が先に到着したようで、恵さんたちの姿はまだ見えなかった。
ヤハラヅカサは、潮が引いたときにしか姿を現さない拝所。あまりのんびりしていると、潮が満ちてしまい、見ることができなくなってしまう。
しばらく待ってはみたけれど、これ以上待つと潮が戻ってしまいそうだったので、申し訳ないけれど私たちは先に出発することにした。
ヤハラヅカサまでは、海岸沿いを歩いておよそ二十分ほど。
良寛さんは、しずかさんの肘を軽くつかみながら、並んで歩いている。良寛さんが誰かにつかまって歩く姿なんて、今まで一度も見たことがない。
風が少し涼しくなってきた海沿いの道を、私たちは並んで歩いていた。足元の砂に時折小さな波が寄せては引き、潮の香りがやさしく鼻をくすぐってくる。
「ねえ、ヤハラヅカサって、どんなところなの?」と、しずかさんが私の方を振り返った。
私は歩きながら、ふっと微笑んで答えた。
「ヤハラヅカサはね、琉球の神話に登場するアマミキヨが、ニライカナイからやってきて、まず久高島に降り立って、そのあと沖縄本島に最初に足をつけた場所だって言われているのよ」
「へぇ、神さまが最初にこの島に来た場所なんだ……すごいね」と、しずかさんは感心したように声を上げた。
隣を歩いていたなっちゃんが、どこか誇らしげにうなずいてから、ゆっくりと話し始めた。
「その証としてね、今も海の中に石碑が立っているの。琉球石灰岩でできていて、潮の満ち引きのたびに波に洗われながら、静かに、でも確かに、そこに立ち続けてるんだよ。誰かが守っているというより、あの場所そのものが、神さまの気配に包まれている感じ。見に行くたびに、胸の奥がふわっとあたたかくなるの。ああ、ここに本当にはじまりがあるんだって、思うの」
「でもね、その石碑、いつも見えるわけじゃないの。潮が満ちているときは、海がそっと包み隠すように、水の底へと沈んでしまうの。でも、潮が引いたとき――海が長い沈黙を破って、そっと秘密を打ち明けるみたいに、その姿を現すのよ」
「なんだか、胸に沁みる話ね」
しずかさんが、穏やかに微笑みながらつぶやいた。その声には、深い余韻を感じとったような静かな感動がにじんでいた。
「ねえ、想像してみて」
なっちゃんは足を止め、遠くを見つめるように言った。
「何千年、何万年も昔。神さまが最初にこの島に降り立った瞬間。その足跡が、いまも海の底に残っているって……すごいと思わない?」
そして、少し声を落とすように、言葉を結んだ。
「海と空と祈りが出会う場所――それが、ヤハラヅカサなのよ」
なっちゃんの言葉を胸に刻むように聞きながら歩いているうちに、私たちはいつの間にか目的地にたどり着いていた。
目の前には、干潮の浜にそっと顔を出したヤハラヅカサの石碑が静かに佇んでいた。
けれど、恵さんたちの姿はまだ見えなかった。
何かあったのかしら……。私たちは少しだけ心配になりながら、静かに波音を聞いていた。
良寛さんは、私たちのやりとりに言葉を挟むことなく、ただ静かに耳を傾けていた。
無言のまま、穏やかな気配だけをそこに残して。
潮が引いた浜は、まるで別の世界だった。
海の底だったはずの場所に、私たちはいま、足を踏み入れた。
波が去ったあとに残された小さな貝や海藻が、陽の光に照らされてきらきらと光っている。
足元に広がる濡れた砂は冷たく、踏みしめるたびに、地球の深呼吸を感じる。
ヤハラヅカサへ向かって、静かに歩く。
遠くにぽつんと現れた石碑は、どこかこの世のものではないように見える。
何千年、何万年も前からそこにいて、誰かの祈りや、悲しみや、願いをすべて見つめてきた存在。
近づくにつれて、心が静まっていくのがわかった。風の音も、波の気配も、ただ背景になっていく。
やがて、ヤハラヅカサの前に立つ。
その場に立った瞬間、胸の奥にふっと風が吹き抜けた。
言葉にならないものが胸に広がって、喉元まで込み上げてくる。懐かしさと、畏れと、安心と。
この場所が、ただの「場所」ではないことは、誰に教えられなくてもわかる。
私たちは、いま確かに『はざま』に立っている。
生と死の、現世と神世の、時間の向こう側とのあわいに。
私はそっと目を閉じて、小さく手を合わせた。
何かを願ったわけではない。何かを感じた、というだけだった。
でも、それで十分だった。
そこへ、なっちゃんの声が、ぽつりと背中越しに聞こえてきた。
「ここ、ただの石碑じゃないね。魂が立ち止まる場所っていうのかな……」
私が振り返ると、なっちゃんは真っ直ぐ石碑を見つめていた。
「さっきから、胸の奥がぎゅってしてて……なんだか、すごく懐かしい人に会ったみたいな気がするの」
なっちゃんの目が潤んでいた。涙ではなかったけれど、確かに何かが揺れていた。
「この海、覚えてるって、体のどこかが言ってるの。不思議だけど……なんとなく、わかる気がするの」
その言葉に、私はそっとうなずいた。
良寛さんは、ヤハラヅカサの前に静かにしゃがみ込むと、祈るように手を合わせ、しばらくその場に身を委ねていた。
波音と風の音だけが響く中、彼の背中が、ふわりと揺れた。深く息を吸い込んで、それをまた丁寧に吐き出す。この場所の空気を、全身で感じているかのように。
やがて彼は、そっと両手を伸ばした。ためらいがちに、けれど確かな思いを込めて。
潮に洗われ、わずかに丸みを帯びた石の表面に、指先が静かに触れる。
その仕草は、遠い記憶を手繰るかのように、驚くほどやさしかった。私は思わず息をのんだ。
彼は決して、乱暴に触れたわけではない。ただ、見えないぶん、手で感じ取るしかないのだ。
風の流れ、石のぬくもり、祈りの残り香――そして、そこに宿る神の気配を。
指先から心へと、祈りを交わすように、彼はそっと、石の表面を下から上へとたどっていく。
私たちは、その姿をただ黙って見守っていた。
目には見えなくても、これほどまでに深く、これほどまでに丁寧に、神さまに触れようとする人がいる。
良寛さんの背中には、神さまに手を伸ばす子どものような、無垢で真剣な気配が宿っていて――なぜだか胸が熱くなってくる。
――神さま、どうか、失礼のないように。
その祈りは声にならずとも、彼の全身から、静かに響いていた。
きっと私たちは、それぞれの感覚で、この場所と再会しているのだろう。
やがて私たちは砂浜まで戻り、ふと足を止めて無意識に振り返った。
そしてヤハラヅカサに向かって、静かに一礼した。
誰かが声をかけたわけでも、合図をしたわけでもない。
なのに、私たち四人は、まるでひとつの心でつながっているかのように、同じタイミングで頭を下げていた。
なっちゃんが私の横に並び、ふと顔をこちらに向けて話しかけてきた。
「ねえ、この近くに、「浜川御嶽」っていう聖地があるの、知ってる?」
その声は、秘密をそっと教えてくれるみたいにやさしかった。
「アマミキヨがこの島に上陸したあと、最初に身を落ち着けた場所だって言われていて、小さな祠がひっそりとたたずんでて、あたりはね、不思議なくらい静かで、時が止まってるみたいなところなの」
私はうなずきながら、なっちゃんの語る風景を心の中に描いていた。
「そこから石段を下りるとね、すぐに浜に出られるの。白い砂浜がずっと続いてて……その景色が、また特別なの」
なっちゃんの目は遠くを見つめていた。心の奥に大切にしまっていた記憶を、そっと取り出すように。
気づけば私たちは、その言葉に導かれるように、静かに浜川御嶽へと足を向けていた。
浜川御嶽は、木々に囲まれた小さな祠がひっそりと佇む、どこか懐かしい空間だった。
鳥のさえずりがかすかに聞こえ、木漏れ日が苔むした石段を優しく照らしている。人の気配はなく、ただ風だけが、木々を揺らしながら静かに通り抜けていく。
祠の前には、古びた香炉が置かれ、今もしずかに祈りの煙を受け入れているようだった。
私たちは、祠にそっと一礼し、その奥に続く石段を下っていった。
すると、目の前にふわりと現れたのは、誰もいない砂浜。白く柔らかな砂が遠くまで広がり、波が静かに寄せては返していた。
見上げれば、雲一つない空が高く広がっていて、空と海と大地がひとつに溶け合うような、そんな景色だった。
なっちゃんは、砂浜にすっと立ち止まると、そっと目を閉じ、海に向かってゆっくりと腕を広げた。
潮風が髪を揺らし、衣の裾が軽やかに波と語らうようにふわりと舞う。まるで、海と呼吸を合わせるかのような動きだった。
静かに、深く、吸って――そしてゆっくりと吐く。彼女の両手は、見えない何かを抱きしめるように空を撫でていた。
私としずかさんは、思わずその姿に引き込まれた。
なっちゃんの後ろに立ち、見よう見まねで同じように腕を広げてみる。潮の香りと太陽のぬくもり、そして波の音だけが、私たちを包んでいた。
――不思議だった。
ただゆっくりと呼吸し、空に手をのばしているだけなのに、心が静かになっていく。日々のざわめきが遠ざかり、波のリズムと心が一つになるような感覚。
「……ねえ、感じる?」
気功の動きを終えて、なっちゃんが振り向いた。目は細められ、どこか夢見るような優しい光を湛えている。
「この海、すごく古い記憶を持ってる。私たちが生まれるずっと前から、祈りと願いがここに降りてきていたの。だからね、こうやって体を開いていくと……その声が、体の奥に響いてくるのよ」
私としずかさんは黙ってうなずいた。
この風、この波、この空。全部が、今日ここに来るように仕組まれていたような気さえしてくる。
「目に見えないものこそ、本当は一番大事なのかもね」
なっちゃんがぽつりとつぶやいたその言葉は、風に乗って浜全体に染みわたっていった。
ふと振り返ると、良寛さんが砂浜に片膝をつき、右手をそっと地面に添えていた。
目を閉じ、風の音と波のリズムに身をゆだねながら、指先で静かに砂をなぞっている。
ときおり、砂を「とんとん」と軽く叩くその動きには、言葉を超えた何かと対話するような気配がある。
それは、目には見えないけれど確かに存在するもの――地の奥に眠る記憶、この場所に染み込んだ祈り、あるいは、ずっと昔からここに宿る何かと向き合っているようにも見えた。
良寛さんの背中は、どこか大きく、そしてとても静かだった。彼のまわりだけ、時間が少しゆっくり流れているような気さえした。
私は思わず息を潜めて、その姿に見入っていた。まるで、大地と心を通わせる術を、彼がほんとうに知っているかのように――。
その様子を同じように見つめていた、なっちゃんがやわらかく声をかける。
「ねぇ良寛、今日はずいぶん静かね……感じすぎて、言葉を置いてきちゃったの?」
良寛さんはふっと笑い、ゆっくりと立ち上がると、海風に頬をなでられながら静かに答えた。
「風の音も、波の鼓動も、潮の匂いも……全部、身体の奥まで染み込んできて、言葉にするのが、もったいなくなってさ……」
なっちゃんは黙ってうなずき、そっと隣に寄り添う。
良寛さんは空を仰いで、少し間をおいてからつぶやいた。
「ここ、なんか不思議だよな。空気も音も、ちょっと違う気がする。ずっと大事にされてきた場所って、こういう感じなのかもな……」
なっちゃんは目を細めて言った。
「うん、きっとこの場所、良寛のことを待ってたんだと思うよ」
「待ってた?」
「そう。ちゃんと感じてくれる人を」
その言葉に、良寛さんは少し照れくさそうに笑った。
でもその笑みの奥には、目には見えない何かとそっとふれ合った人だけが持つ、静かな感動がにじんでいた。
そしていつもの調子で、ぽつりとつぶやいた。
「気功の仲間とばっかりつるんでたら、近所の人に『そのうち空中浮遊でも始めるんじゃない?』って言われそうでさ。もうすでに変人枠なのに、これ以上未確認生物扱いされたら困るんだよねぇ」
風がそれをさらって、空へ、海へ、どこまでも運んでいった。
そうして、ヤハラヅカサの時は、静かに、けれど確かに、私たちの心に刻まれていった。
八.天から降りたアマミキヨのまなざし
あの日、私たちは朝からわくわくと胸を躍らせて、少し早めに出発した。今日はヤハラヅカサへ行く日。琉球の神々にご挨拶をする、大切な一日になるはずだった。
だが、そんな穏やかさは、突然の衝撃で一変した。
赤信号で車を止めた直後、背後からドンッという大きな音と共に、車体が揺れた。私たちは一瞬、何が起きたのかわからず顔を見合わせた。
「えっ?なに今の……」と智子さんが声を上げ、恵さんが「やばい、ぶつけられた!
まさか……!」と叫んだ。
私は思わずハンドルを握る手に力が入り、言葉が喉に詰まった。
私――仲真由美子。ふっくら体型のせいか、みんなからは冗談まじりに「アグーネーネー」と呼ばれている。そんな私が運転していたその車は、警察を呼び、現場検証が始まることで、ようやく「事故」だと実感した。
加害者の男性が申し訳なさそうに何度も頭を下げるが、私たちの気持ちは次第に苛立ちと焦りに包まれていった。
「あと何分かかるの?もうとっくに待ち合わせの時間、過ぎてるよ」と裕子さんが苛立ち気味に言い、恵さんも腕時計を睨みながら「最悪。神さまが呼んでくれてたのに……」と吐き捨てるように呟いた。
私も気が焦るばかりで、深呼吸しても胸の奥がざわついたままだった。
そんなとき、助手席で黙っていたひとみさんが、小さく呟いた。
「今日は、行っちゃだめだったのかな……」
その言葉に、私たちは一瞬、言葉を失った。
確かに、どんなに急いでも、もうどうにもならない時間だった。空はまだ青く、風も柔らかいのに、私たちは、目的地に辿り着けないまま、ただ車内で時間を持て余していた。
ヤハラヅカサ。琉球の聖地。あの海の向こうで、神々は静かに私たちを見ていたのだろうか――行けなかった今日を、何かの意味として受け取るべきなのか。私はただ、ため息とともに目を閉じた。
一週間後、いつものファーストショップのテーブルに、私たちは集まっていた。いつものようににぎやかな声が交差している。
「アグーネーネーたち、まさか事故に巻き込まれてたなんて……」と、しずかさんが心配そうに言うと、「そうそう。電話も繋がらなかったし、どうしたのかと思ってた」と順子さんも頷く。
「うん……信号で止まってたら後ろからドーンって。もう、何が起きたかと思ったよ」と智子さんが苦笑しながら言うと、恵さんが「私なんか、ヤハラヅカサでみんなと一緒に行くのをどれだけ楽しみにしてたか……。あのときほんと泣きたかった」と泣きそうになった。
「でも……思いって、たとえ行けなくても、ちゃんと届いてるんじゃないかな」と、なっちゃんがぽつりとつぶやいた。
「うん。行けた組は行けた組で、また特別な感覚があったけど、行けなかったアグーネーネーたちがいたら、もっと深い時間になってたかもね」としずかさんが優しく笑う。
「また行こうよ。次は全員で、ちゃんと」と、なっちゃんが明るく言ってくれた。
その言葉に、テーブルの上のグラスがひとつカランと鳴った。誰もが笑い、そして少しだけ切ない気持ちでうなずいた。
ヤハラヅカサ。その名前は、まだ私たちの胸の奥で、潮のようにゆっくりと満ち引きを繰り返していた。
その余韻が静かに漂う中、店の奥まで差し込む陽射しの中に、ふっと人の影が揺れた。良寛さんだった。
控えめな足取りで、良寛さんがドアをくぐる。自動ドアの静かな開閉音とともに、風が少し入り込み、ふわりと店内の空気が揺れた。
その姿を見つけた順子さんが「あ、来た」と小さく声を上げると、店内の空気がぱっと和んだ。
肩には、大きくて平たい鞄をひとつ提げている。何か特別なものでも入っていそうなその形に、思わず目が留まる。良寛さんは「ふふ」と笑いながら、テーブルの間をすり抜けてこちらへやってきた。
「それ、何持ってるの?」と智子さんが尋ねると、良寛さんは少し照れたように鞄を撫でながら答えた。
「実はね……沖縄の神話を題材にした紙芝居を作ってみたんだ。アマミキヨとシルミチューの物語をね」
そう言って、少しはにかむように笑った。
「絵は、知り合いの画家さんにお願いしてね。色もやわらかくて、すごくいい雰囲気に仕上がったって聞いてるんだけど……どうかなあ」
その言葉に、ひとみさんが首をかしげた。
「紙芝居?」
「そうそう、あの昔ながらの紙芝居。子どもたちに神話をもっと身近に感じてほしくて作ってみたんだ。見せたらきっと、目をキラキラさせてくれると思ってね」
「でもね、いざ自分でやるとなると……ちょっと自信がなくて。読むテンポとか、間の取り方とか、声の出し方とか……いろいろ気になっちゃって」
「だから今日は、みんなに見てもらえたらって思って持ってきたんだ。もし気に入ってくれたら、どこかで活用してもらえたら……うれしいんだけど」
そう言って、良寛さんは鞄の中から『はじまりのしま』と書かれた紙芝居を取り出した。そこには、色鮮やかでどこか懐かしさを感じさせる、温かみのある絵が描かれていた。
太陽、海、空――そして神々の姿。まるで遠い記憶に触れるような、心の奥に残る風景が、やさしい色彩で広がっていた。
「うわあ……すごい!」と、恵さんが思わず感嘆の声を上げた。
「この絵、めちゃくちゃ上手! この画家さん、本当にすごいね」
そこへ、なっちゃんが目を丸くして覗き込みながら、声を上げた。
「ちょっと待って、この一枚……風の匂いがする! ねえ、わかる? この絵の中から、潮風と森の香りが混ざった、まだ誰も目覚めてない静かな朝の空気、伝わってこない?」
みんなが思わず顔を見合わせて笑った。
「そういうの、なっちゃんしか感じ取れないと思うよ」と智子さんが肩をすくめると、なっちゃんは首をかしげながらも真顔で言った。
「だって、祈りの記憶って、絵にもちゃんと残るんだもん。この紙芝居、神さまがちょっと微笑んでる感じがする」
「いやあ、そこまで言ってもらえると……なんだか、こっちが照れちゃうなあ」と良寛さんが頭をかいた。
場がふわっと和み、誰もがちょっと心をほどかれるような、そんな時間が流れていた。
「むかしむかし、風と海と空だけがあったころの話です」
「人も、動物も、植物さえもいない、しんと静まり返った世界が広がっていました」
しずかさんが紙芝居の裏に書かれた文章を、ゆっくりと丁寧に読み上げた。
読み終えたところで、順子さんが興味深そうに尋ねた。
「この紙芝居、良寛が考えたの?」
すると、良寛さんは少し照れくさそうに笑いながら、静かに答えた。
「そうだね、琉球の神話をもとにして、自分なりにまとめてみたんだ」
その声には、物語への深い想いと、どこか少年のような純粋さがにじんでいた。
「神話をそのまま語るというより、子どもたちの心に、小さな灯がともるような――そんなお話にしたくてね」
「琉球の神話って、とても奥深くて、どこかあたたかいものがあるでしょう」
「昔からこの島に流れてきた『祈り』のようなものを、子どもたちにも感じてもらえたらと思ってね」
「それが、いつか心の支えになるような記憶として、静かに残ってくれたらいいな――そんな願いを込めて、この紙芝居を作ってみたの」
一枚一枚、紙芝居が回されていくたびに、誰もが静かにその絵に見入った。目を合わせ、小さな感嘆の声があちこちで漏れた。
「じゃあさ」と、しずかさんが提案した。
「私が預かっておいて、私たちそれぞれが空いた時間に、公民館とか保育園とかで読み聞かせするってのはどう?」
「それ、いいかもね」と裕子さんも頷いた。
「うちの子どもたちにも、読んであげたいな」と、恵さんもにっこりして言った。
「一か所にしまっておくより、いろんな場所で子どもたちに見せてもらえた方が、紙芝居もきっと喜ぶと思うな」
「良寛、それでいい?」と、しずかさんがたずねた。
良寛さんは、ほんの少し目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。
「うん。そうしてくれると……とても嬉しいよ」
「ところで、次はどこの拝所に行くの?」
「まだ決まってないの。これからみんなでじゃんけんして決める予定なの」
いつものように、和やかな笑い声の中でじゃんけんが始まった。
今日は誰が勝つのか――そんな軽い緊張と期待が、空気の中にふわりと漂っている。
そして、勝ったのは私だった。
「やった!」
手のひらに渡された拝所カルタの束を、三度切り、そして、上から七枚目をゆっくりと裏返す。
そこに書かれていたのは、浜比嘉島のシルミチューだった。
その瞬間、あちこちから「わあっ」と歓声が上がった。
「やったー、シルミチューだ!」
「今度こそ、事故らないで行こうね!」
「絶対に行こうよ、今回は!」
笑い声がはじけるように広がっていった。みんなはこの場所を心待ちにしていたのだった。
「良寛、拝所カルタの読み札作っているんでしょ?」と裕子さんが尋ねた。
良寛さんは少し肩をすくめて、照れたように笑った。
「いや、僕は文章を考えてるだけでね。実際に読み札として仕上げてるのは、しずか弁護士だよ。字も絵も、彼女が全部やってくれてる」
「たとえば、シルミチューならどうなるの?」
そう訊かれると、良寛さんは少し考えるように目を細めてから、ゆっくりと口にした。
「そうだね……たぶん、こんな感じになるかな――『アマミキヨとシネリキヨが住んだとされる洞窟。命の誕生と家庭の守護にまつわる祈りの場。ここは浜比嘉島』そんな感じかな?」
その声には、祈りの地を言祝ぐような穏やかさがあった。部屋の空気が一瞬しんと静まり、札の一文に込められた意味を、みんなそれぞれの胸に受け取っているようだった。
次の拝所巡りが、またひとつ特別なものになりそうな、そんな予感がしていた。
今日は「シルミチューへ行こう」ということになり、参加者はなんと十六名。さすがは誰もが名前を知る有名な拝所だけあって、これほど人が集まるのは久しぶりだった。
それぞれ車を乗り合わせて、シルミチュー近くの駐車場で落ち合うことになった。
私はというと、ひとみさんの運転する外国製の高級車に乗せてもらうことになった。
助手席には私、後部座席には気功仲間の中でもひときわ賑やかなおしゃべりコンビの智子さんと恵さん、そしてその二人の間に割って入るように裕子さんが座っている。
車は浜比嘉島の比嘉集落を抜け、左右に畑が広がる細道をゆっくりと進んでいった。
道幅は狭く、ところどころ草がせり出していて、ひとみさんの運転するベンツには少し場違いな道だった。ピカピカの車体を傷つけまいと、ひとみさんは慎重にハンドルを切っていく。大きな車体が畑の間をそろりそろりと進むたびに、助手席の私は思わず息をのんだ。
途中、少し揺れるたびに恵さんが「わっ」と声を上げて笑いを誘う。その明るい声に車内の緊張もほどけ、そんな空気のまま、私たちは無事にシルミチューの駐車場へと到着した。
すでに他の仲間たちは揃っていて、中心にはなっちゃんが立っていた。私たちも合流し、軽くあいさつを交わすと、さっそく全員で拝所へと向かうことになった。
駐車場のすぐそばには白い砂浜が広がり、透き通るような海が穏やかな波音を立てており、潮の香りと静かな風が、心をふっと軽くしてくれた。
そこから数分、木々に囲まれた緑の小道を進むと、前方に長い石段が現れた。
この石段は「登ることで心が清められる」とも言われているらしい。みんなそれぞれの想いを胸に、ゆっくりとその段を踏みしめはじめた――。
石段を登りきると、木々に囲まれた岩場の奥に、小さな洞窟――「シルミチュー霊場」が静かに姿を現した。
ここは琉球開闢の祖神、アマミキヨとシネリキヨがかつて住んでいたとされる神聖な場所。霊場の奥には岩の祠があり、子宝や安産のご利益があるとされて、特に女性に人気の高い拝所だという。
年の初めにはノロたちによって特別な祈りが捧げられ、多くの参拝者が静かに訪れるのだそうだ。
洞窟の入口に着くと、すでに若い女性が一人、静かに祈りを捧げていた。
白いワンピース姿の彼女は、手を合わせたまま小さくうなだれ、ときおりお腹のあたりにそっと手を添えている。言葉にはならない願いが、その仕草から静かに伝わってきた。きっと、子どもを授かりたいと祈っているのだろう。
私たちは声をかけることもなく、その姿をそっと見守っていたが、祈りはなかなか終わりそうになかった。
「いったん下で待ちましょうか」と、なっちゃんが静かに言い、私たちは石段をそっと引き返した。
しばらくして、その女性がようやく階段を下りてきた。そのとき、階段の脇に立っていた良寛さんが、柔らかな声で問いかけた。
「あれ、お一人ですか?お連れさんはまだ上にいらっしゃるのかな?」
女性は一瞬きょとんとした顔で階段を見上げ、祈りの場に向かって一礼してから、良寛さんの方へ顔を向けてこう答えた。
「いえ、最初から一人で来ましたよ」
「あぁ、失礼しました。私、目が悪いもので……てっきり二人連れだと思ってしまって。ご気分を悪くされたなら、本当にごめんなさい」
女性は少し困ったような、それでいて不思議そうな表情を浮かべながら、私たちのそばを通り過ぎていった。
私はそっと良寛さんに近づいて、「何かあったの?」と小声でたずねた。
良寛さんは微笑を浮かべて、首を軽く振った。
「なんでもないよ。ただの勘違いさ。ちょっと……そんな気がしただけなんだ」
良寛さんのその言葉には、どこか含みがあって、私はそれ以上聞けなかった。
海の風がふわりと吹き抜けて、木々の葉がささやくように揺れた。
私たちは再び石段を上がった。
洞窟の入口に立つと、ひんやりとした空気が肌をかすめ、昼間の陽射しのぬくもりがすっと遠のいていくのを感じた。
中は想像していたよりも狭く、大人が二人入るのがやっと。
結局、中に入るのは私と順子さんの二人だけ、ということになった。
足元に気をつけながら、洞窟内に入ると、自然のままの岩壁を背にした小さな祭壇がある。
「……これが、シルミチューのご神体なんだね」
私がそうつぶやくと、順子さんは静かに頷いた。
祀られていたのは、特別に磨かれた石でもなければ、装飾が施された神像でもない。ただ、そこに「ある」こと自体が意味を持っているような、ひときわ存在感のある霊石だった。
その前には香炉と、小さな供物台が置かれ、地元の人々が手を合わせてきたであろう痕跡が静かに息づいていた。
この霊石には、子宝や家庭の円満を願う祈りが込められるという。昔から、ノロ(祝女)たちが壺に小石を入れ、静かに願いを託してきたと聞いたことがある。いまでも年中行事にはその儀式が受け継がれ、地域の人々の信仰の場として、この洞窟は静かに、けれど確かに生き続けているのだ。
照明もなく、灯籠もなく、ただ自然の岩肌と祈りの空気に包まれたこの空間は、いわゆる「神社」とはまったく違う形だった。でもだからこそ、逆に胸に迫るような厳かさがあった。
順子さんと私は、しばらく無言で手を合わせた。祈るというよりも、耳を澄ますような気持ちで。
外から、遠く波の音が微かに響いていた。時間が止まったようなひとときだった。
洞窟を出ると、柔らかな陽射しが差し込んでいて、外の空気がやけに明るく感じられる。
私たちの祈る姿を、なっちゃんは少し離れた場所からそっと見守っていた。
やがて、静かに――けれど澄みきった声で、ぽつりと呟いた。
「いま、風が耳元でささやいたの。
ここはね、命がまだ言葉を持たなかったころ、世界が、ただ『ある』だけだったときの記憶が、今もそっと眠ってる場所なんだって」
私たちは思わず、なっちゃんの方へ目を向けた。
「ここにはね、誰のものでもないはじまりの響きが、まだ残ってる」
「かたちも名前もない願い――それが、そのまま神さまに届いていく……そんな場所なの」
「だからね、ここでは飾らなくていいの。無理に言葉にしなくても、祈ろうとしなくても……心のいちばん奥にある、静かな光だけを、そっと空に預ければいい」
「神さまは、音のない願いのほうが、かえってよく聞こえるみたいだから」
そして、なっちゃんはそっと目を閉じ、微笑んだ。
「私ね、ここに立つと、自分のいのちの向かう先がふわっと浮かんでくる気がするの」
「祈るってね、なにかを求めることじゃなくて……このように生きたいって、自分の芯を神さまに差し出すことなのかもしれないね」
風がやさしく頬を撫で、誰かが小さく息をのんだ。
私たちは、その余韻を胸に抱いたまま、静かに石段を降りていった。
帰りの車中で、ひとみさんが言った。
「良寛、さっきあの女の人に何か変なこと言ってたけど、あれって何だったんだろうね?」
恵さんも続けた。
「二人連れだったって言ってたのに、女の人は最初から一人だったって言ってたよね」
「良寛、目が悪いから勘違いしたって言ってたけど、本当にそうだったのかな」
「良寛って煮え切らないところあるけど、感はすごく鋭いよね。私たちには見えなかったけど、何かを感じ取って二人だと感じたのかもしれない」
「だとしたら、あの女の人のそばに、目に見えない誰かがいて、それを良寛は感じたということなのかな……」
「次は、どこの拝所に行くことになるのかな。楽しみだね」
私は、まだ見ぬ祈りの場所に思いを馳せながら、そっと胸に手を当てた。
次に訪れるその場所で、私はきっと、自分の過去と、もう一度向き合うことになる。
それが癒しとなるのか、あるいは新たな痛みをもたらすのかは、まだ分からない。
けれど、あの風の向こうに、何かが静かに待っている気がしてならなかった。
目を閉じ、耳を澄ます。
どこからともなく、神の息吹のような気配が――確かに、聞こえた気がした。
九.ミルク神に呼ばれて
軽く汗ばんだ額をタオルで拭いながら、女性たちは輪になって立ち話を始めた。
午前中の気功を終えたあとの、この何とも言えない余韻が、私は好きだった。身体の芯からじんわりとゆるみ、頭の中もすっきり澄み渡っている。風がそっと通り抜けるたびに、細胞の一つひとつが深呼吸しているような気がする。
私の名前は上地裕子、背は低いけれど、顔も腕も陽に焼けて、たくましく見えるらしい。細々と畑をいじっていて、収穫したジャガイモやゴーヤー、キャベツなんかを、みんなにお裾分けすることもある。
それだけのことなんだけど、なぜかみんなからは「ハルサー(百姓)」と呼ばれている。
「で、今日はどこ行く?あの新しい食堂、もう開いてるかな?」と、由美子さんが汗をぬぐいながら言った。
「ああ、あそこね。中央パークアベニューに最近オープンしたっていう店でしょ?」と、智子さんが応じる。
「そうそう。豆腐チャンプルーがすごく美味しいって話題になってるところ」
「行ってみようか」
話はあっという間にまとまった。
こういうときの叔母さんたちの決断力には、毎回のことながら驚かされる。
噂は本当だった。
この店の豆腐チャンプルーは、見た目からして普通じゃなかった。ふわふわに崩された島豆腐に、にんじん、ニラ、細かく刻まれた豚肉のスーチカーが絡み合い、まるで炒り卵のような柔らかさ。お箸で持ち上げようとしても、ほろほろと崩れてしまい、気づけば誰もがスプーンを使ってすくっていた。
私も、スプーンの先から立ちのぼる湯気に顔を近づけ、そっと一口含んだ。
「……これは、恵みだ」
そっと口にふくんだ瞬間、豆腐のやわらかさと出汁の滋味が、静かに広がっていった。
命をつなぐもの――そう思わずにいられなかった。
それは単なる味ではなく、大地と海、そして人の手を通して届けられた、小さな祈りのかたちだった。
食後、店を出た私たちは、南風に背中をそっと押されるようにして、いつものファーストショップへと向かった。
いつもの店、いつもの席。でも、その場所でカフェオレを飲みながら過ごす午後のひとときが、今の私にとっては何よりのご褒美になっている。
私たちの時間は、そんなふうに静かに流れていく。誰も急がない。でも、一日はたしかに前へ進んでいる――それが、なんだか心地いい。
自動ドアをくぐると、見慣れた後ろ姿が目に入った。
「あれ、良寛、もう来てる?」
椅子にもたれ、窓辺でアイスコーヒーを飲んでいるのは、間違いなく良寛さんだった。
いつもは30分以上遅れてやってくるのに、今日はめずらしく一番乗り。驚く一同をよそに、彼はただゆっくりとグラスを傾けている。
「いやー珍しいね、良寛。台風でも来るんじゃない?」
「チュラママ、今日は晴れてるよ」と智子さんが返し、店内に笑いが広がる。
テーブルに着くなり、いつものバカ話が始まった。
「朝方さ、目覚ましが鳴って、止めようと思って何度も叩いたのよ。でも全然止まらなくてさ……よく見たら、それ目覚ましじゃなくて、隣で寝てた猫だったの!」
「ひどーい!猫ちゃん、びっくりしたでしょ!」
「でもね、ちゃんと静かになったのよ……って、逃げてったけどね」
「そりゃ逃げるわよ!次から目覚ましの音聞いたら、ビクッてするんじゃない?」
「わかる〜!でもさ、猫ってほんと、どこででも寝るよね」
「そうそう。『寝る子』って書いて猫なんだって」
「なるほどねぇ、だからいつも寝てばっかりいるんだ!」
「うちのなんか、昨日は洗濯カゴの中で寝てたわよ。洗おうと思って持ち上げたら、ぬくぬくしててびっくりしたもん」
笑いが止まらない。ストローでカフェオレをかき混ぜながら、私は思わず吹き出した。
そしてふと、良寛さんの方を見ると……やっぱり、呆れている。
いや、呆れているというより、「あきれながら、楽しんでいる」ような顔だった。
唇の端が、ほんの少しだけ上がっている。そんな表情を見せるのは、かなり珍しい。
「良寛、笑ってる?」
私が声をかけると、彼はアイスコーヒーのグラスを置きながら、小さく首をかしげた。
「いや……笑ってなどいない。ただ、皆さんの話の飛躍力には、感心していただけです」
「なんかそれ、褒めてるのかけなしてるのかわからないわね」
「良寛、杖も持たずに歩いてて、失敗とか怪我とかしないの?」
なっちゃんがそう尋ねると、良寛は鼻の横を指でかきながら、照れくさそうに笑った。
「うーん、何事もないふうに歩いてるけどね、実はけっこうあるんだよ。失敗とか、事故とか」
「へえ、たとえば?」
「電柱にぶつかったり、歩道に出てる看板に気づかずぶつかって『すみません』って謝ったら、ただの看板でさ。『なんだよ、お前かよ』って小さく蹴っ飛ばしたり」
みんなが笑いかけると、良寛は少し声を落として言った。
「実はね、先週もちょっとやらかしちゃってさ」
「やらかしちゃった? なにを?」
「うん。いつものように、風の流れとか足の裏の感覚を頼りに歩いてたんだけど、前にすごくいい香りの人が歩いててね。ほんのり甘い香水の匂いで、『きっと可愛らしい女性だろうな』なんて勝手に想像してさ。つい、その人の後ろをついて歩いちゃったんだよ」
「ふふ、それで?」
「信号で止まって、その人のすぐ後ろに並んだんだ。そしたら――その人、軽く咳払いしてさ、『えへん』って。それから、植え込みにタンをペッて!」
「うわ、汚っ」
「その瞬間、気づいたんだよ。叔父さんだったって」
「えぇぇっ⁉︎」
「もう衝撃でね、頭より体が先に反応しちゃってさ。気づいたら三歩も後ろに跳びのいてたよ」
一瞬の沈黙のあと、ドッと笑い声が弾けた。
「何それ、マンガみたい!」
「香りにだまされたのかー!」
「もしかしてそれ、柔軟剤じゃない?」
みんなが口々に言いながら、手を叩いて笑っている。
中には笑いすぎて涙ぐむ者までいて、テーブルがかすかに揺れるほどだった。
良寛さんも「やれやれ」といった顔で笑いながら、水をひと口すすっている。
何でもない日常。その何でもなさが、心のどこかをじんわりと温めていた。
「ねえ、いつも私たちだけでじゃんけんして御嶽の行き先決めてるけど、今日は良寛が早く来てくれてるし、たまには選んでもらわない?」
「賛成〜!」
「良寛、お願いしてもいい?」
「わかった。じゃあ今回は、僕が選ばせてもらうよ」
しずかさんが取り出した拝所カルタを、良寛さんは両手で丁寧に受け取り、静かに切り揃える。そして一枚ずつ、ゆっくりとテーブルに並べ始めた。
七枚目の札をめくるとき、彼はふと手を止め、札をみんなに見えるようにかざした。
「さて……ここだ」
「どこどこ?」
「漲水御嶽」
「え、聞いたことない……どこにあるの?」
「ムヌシリ、知ってる?」
きょとんとする私たちに代わって、しずかさんが札の読み札を見つけて、読み出した。
「宮古島の創世神「ミルク神」が祀られている聖地。ここは、毎年行われる奇祭パーントゥの出発地点に近い場所……だって」
「えっ、宮古島?!」
「うわぁ、ほんとに行くの?宮古島なんてワクワクする〜」
「でも、日帰りできるの?」
「やろうと思えばできなくはないけど……せっかくだから一泊して、みんなでのんびりしない?家事からも仕事からも解放されてさ」
「それ、めっちゃいい!」
こうして、私たちは「漲水御嶽」を目指して、宮古島への一泊旅を計画することになった。
風の匂いも、海の青も、きっと違うはず。そんな予感が、胸の奥でふわりと広がっていた。
しずかさんが言った。
「早速、宮古島一泊旅行のスケジュール表作るから、参加できるかどうか連絡してね」
「飛行機の手配とか、宿の予約とかあるから、できれば早めにお願いね」
その言葉を皮切りに、テーブルの空気が一気に弾けた。
「やばい、もう今から水着出しておこうかな!」
「あぐーねーねー、水着って……持ってるの?あなたに合うサイズなんてあるの?」
「あるにはあるのよ。二十歳のときに買ったやつ。結局一度も着てなくてさ。着られるかなって思ったけど……いや、たぶん無理だね」
「三十年前の水着?よく取ってあったね!」
「ほんと、アグーネーネーって物持ちいいよね」
「そろそろ、その水着、感謝して手放したほうがいいんじゃない?」
「でもさ、せっかくだから海も見たいよね。朝日とか絶対きれいだよ」
笑い声と笑顔が、テーブルの上にこぼれていく。
いつものお茶時間が、次第に旅支度のワークショップみたいになっていった。
目の奥に浮かんでいるのは、澄んだ空と、透き通る海、そして静かに佇む聖地の姿。
それだけで、もう旅は始まっているような気がした。
那覇空港に集合した私たちは、搭乗ゲート前で落ち着かない様子だった。参加者は全部で九名。顔を合わせるたびに「いよいよだね」「ほんとに宮古島に行っちゃうんだ」と、期待に胸をふくらませていた。
空路はあっという間だった。窓の外に広がる珊瑚礁の海は、絵の具を溶かしたように鮮やかで、宮古の島影が近づくにつれ、誰ともなく無言になっていった。
宮古空港では、良寛さんの古い友人という男性が出迎えてくれていた。名は狩俣伸一さん。優しそうな笑顔と、日焼けした肌が印象的だった。その隣には、明るい目元が印象的な奥さんのマヅルさんも立っていた。聞けば、お二人は地元の拝所に詳しく、今日の御嶽巡りをサポートしてくれるとのことだった。
飛行機を降りた私たちを迎えてくれた狩俣さんは、少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげな表情で言った。
「んみゃーち、みゃーくぬすまんかい! うりから、うぷとぅ まーちょーがりよー」
(ようこそ宮古へ! 今日はゆっくり楽しんでいってくださいね)
そのあたたかな響きに、みんな意味がわからず、ただぽかんと見つめるばかりだった。
すると、マヅルさんもにこにこと微笑みながら、
「うりから、まいーんてぃ楽しみましょうね」と、優しく声をかけてくれた。
二台の車に分乗し、私たちは漲水御嶽へと向かった。道すがら、島の風景が車窓に広がる。さとうきび畑が風に揺れ、小さな集落の赤瓦屋根がぽつぽつと続いている。道の両側にはハイビスカスが咲き、どこからともなく三線の音が聴こえてきそうだった。
狩俣さんが車を止めたのは、静かな住宅街の一角だった。そこに「漲水御嶽」は、ひっそりと佇んでいた。
朱の鳥居も石碑もなく、ただ自然のままの空間――だが、足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
背の高いフクギとガジュマルの木々に囲まれたその場所は、時が止まったように静かだった。鳥の声も、風の音も、どこか遠くで響いているようで、私たちは声も出せず、時の流れに取り残されたように、そこに立ち尽くしてしまった。
「ここが、宮古の創世神・ミルク神を祀る御嶽です」
狩俣さんが小声で語りはじめた。
「『漲水』という名は、『水が湧きあふれる』という意味があって、古くからこの地は、命の源として大切にされてきました」
私たちは静かにうなずきながら、その言葉に耳を傾けていた。
「ミルク神は、宮古の開闢神話に登場する祖神で、豊穣や安寧をもたらす神とされています。特にここ『漲水御嶽』は、島の始まりの地とされ、古代から今に至るまで、祭祀や祈願の場として大切にされてきたんですよ」
ふと足元に目をやると、苔むした岩や、踏みならされた土の小道が、静かに積み重ねられた年月を語っていた。御嶽の奥には、自然に据えられた石々が静かに佇み、そこかしこに祈りの気配が漂っている。
ひときわ古びた枝に、白い布が一枚、そっと結ばれていた。風に揺れるその布は、誰かの願いを受けとめたまま、今もそこにとどまっているようだった。
この白布は、神域に捧げる祈願や感謝のしるしとして結ばれたものだという。沖縄や離島の御嶽では、こうした布が神と人をつなぐ目に見える言葉として、静かにそこに在り続けている。
きっとそれは、長い時の中で多くの祈りを受けとめてきた、小さな命の記憶なのだろう。
智子さんが、ふとその布に目をとめた。
「……これ、誰が結んだんだろうね」
その声は、風にまぎれるほどのかすかなつぶやきだった。
なっちゃんがそっと近くに歩み寄り、小さく微笑んだ。
「たぶん、名前も顔もわからない誰か。でも、その人の祈りは、こうしてちゃんとここに残ってるんだよね」
「白い布はね、この場所に願いを託した印なの。神さまに手紙を渡すようなもの、かな。声に出さずとも、心の奥の想いを届けるための、静かな言葉なんだよ」
静香さんが、やわらかな声で言った。
「そうやって誰かが祈った場所には、祈った人のやさしさが残るのかもしれないわね。たとえ言葉じゃなくても」
しばらくのあいだ、誰もが声を出さずに、風に揺れる布を見つめていた。
その白さは、どこかやわらかく、そしてどこか、神聖な静けさをまとっていた。
「この場所は、毎年旧暦の九月頃に行われる『パーントゥ』という伝統行事とも深く関わっています。『パーントゥ』は、仮面をつけた神の使いが集落を巡り、泥を塗って人々や家々を清め、悪霊や災厄を祓うという宮古に伝わる古い風習です。その神聖な行程は、まさにこの御嶽から始まるんです」
狩俣さんの静かな説明に耳を傾けながら、私はそっと目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。風の中に、どこか遠くから呼ばれているような気配が混じっている。
そのとき、なっちゃんがぽつりと口を開いた。
「この御嶽、たぶん昔はもっと森に包まれてたんだろうね」
誰もすぐには言葉を返さなかった。けれどその静けさの中に、私たち全員の心が、どこか深いところでそっと繋がっていた。
なっちゃんは、手のひらをそっと胸に当てて言った。
「ここに流れてる『気』がね、ちょっとだけ痛がってるように感じるの。さっき、風に混じって、ここまで来てしまったかって、誰かがつぶやいたような気がしたの」
「私たちが今いるこの場所は、本当は人のものじゃないんだと思う。大地の声、神さまの息づかい、そういう見えないけれど確かな存在が、ずっとこの場所を守ってきた。だけどね、コンクリートの波がじわじわと迫ってきてて……神さまが棲む場所が、静かに追いやられている。そんなふうに感じたの」
しばし目を閉じて、なっちゃんは風の中に何かを聴くように耳を澄ませた。
「今もね、遠くの方から忘れないでって声が聞こえるの。懐かしい声。たぶん昔ここで祈っていた人たち、あるいは神さま自身のささやき」
「この島の記憶がね、まだ息をしてるんだよ。祈る人がいる限り、忘れられないでいてくれる。でももし誰も気づかなくなったら、その声は静かに消えてしまうかもしれない。だから、私たちは時々こうして、思い出しに来なきゃいけないんだと思う」
そして優しく、けれど凛とした声で続けた。
「だから今日、ここに来られて本当によかった。神さまにご挨拶できたし、『あなたのこと、まだ覚えています』って伝えられた気がする」
「私たち、いつまでも祈る人でありたいね。ただの観光じゃなくて、こういう場所の痛みや願いにも、耳をすませていたい」
「目に見えないものに、ちゃんと『はい』って返事ができる人間でいたい」
なっちゃんのその言葉に、みんながうなずいた。
遠くで風がフクギの葉を揺らし、ひとひらの光が差し込み、なっちゃんの言葉が風に溶けていったあと、しばし沈黙が流れた。
そのとき、そばで静かに話を聞いていたマヅルさんが、ゆっくりと前に出てきて、小さく拍手を打ってから、やわらかく微笑んだ。
「なっちゃんさん……あなたの言葉、とても胸に染みました。私、生まれも育ちも宮古島で、この御嶽にも子どものころから何度もお参りしてきたけれど、こんなふうに神さまの痛みに気づいてくれた人に出会えたのは、初めてです」
彼女は手のひらを合掌のように重ねながら、御嶽の奥に目を向けた。
「この場所にはね、ミルク神さまだけじゃなくて、昔の人々の感謝の気持ちや生きるための祈りも一緒に染みこんでるんですよ。おばぁたちが芋を植える前に、子を授かったときに、そして家族を見送るときにも、ここで手を合わせてきたんです」
マヅルさんの声は静かだったが、どこか神聖で、誰も口を挟めなかった。
「だけど最近は、こうした場所が少しずつ削られていってる。家が建ち、道路が通って、御嶽のそばでバーベキューをする人もいてね……。私は、どうしたらこの聖なる静けさを守れるのか、いつも悩んでるの。でも今日、なっちゃんさんの言葉を聞いて、まだ希望はあるって思えました。あなたのように感じ取って、語ってくれる人がいるなら、この場所はきっと大丈夫」
マヅルさんは、そっとなっちゃんの手を取り、あたたかく握った。
「本当にありがとう。今日は神さまも、きっと喜んでると思いますよ。こんなに素直な言葉で心を寄せてくれる人が来てくれて」
その瞬間、小さな風がフクギの枝を揺らし、木漏れ日が私たちの肩に降り注いだ。まるで、大地が微笑んでいるかのように。
私たちは、漲水御嶽に軽くお礼の挨拶をして、静かにその場をあとにした。
名残惜しさを感じつつも、胸の奥に温かい何かが残っていた。
私たちは、漲水御嶽をあとにして、狩俣さんご夫婦に連れられ、宮古島北部の島尻漁港に向かった。目指すは、海の向こうにぽつんと浮かぶ大神島。
「その前に、ちょっとお昼にしましょうか」
マヅルさんが、ふと振り返って笑った。
「このあたりにね、地元の人しか知らない食堂があるんです。素朴だけど、神さまに行く前にちょっとお腹を落ち着けましょうね」
通されたのは、小さな集落のはずれにある古びた木造の食堂だった。
赤瓦の屋根、窓の外にはブーゲンビリアの花が風にゆれ、どこか懐かしい空気が流れていた。
「うちはね、味噌そばが名物なんですよ」
厨房から顔を出した店主のおばぁが、にこにこと言った。
出てきたのは、豚出汁の効いたあたたかい宮古そばに、ほんのり甘い味噌だれがとろりとかけられた一杯。そばをすすると、自然と心までほぐれていく。
「神さまの島に行く前に、こうして地のものをいただけるのって、ありがたいですね」
恵さんがぽつりとつぶやくと、マヅルさんがうなずいた。
「そう、島の神さまたちはね、私たちのふだんをちゃんと見てるんですよ。ちゃんと食べて、心静かに――それが何よりの準備になるんです」
食事を終え、店を出ると、港まではもうすぐだった。
車窓からは、どこまでも広がるサトウキビ畑と、その向こうにゆっくりと近づいてくる海の青が見えた。
港に着くと、遠くに小さな島影が見える。空と海のあわいに浮かぶようなその姿に、誰からともなく「きれい……」という声が漏れた。
マヅルさんが、やさしい声で語り始めた。
「大神島はね、宮古本島の北にある小さな島ですが、昔から神さまの島と呼ばれてきたんですよ。島の真ん中には『大主御嶽』という、とても大切な拝所があって、地元の人でも普段は近づきません。神女たちが、神事のたびにだけ入る場所で、神が降り立つとされているんです。よそ者がうかつに入れば、祟りがあるとも言われています」
「観光で訪れることはできても、御嶽やその周辺には決して立ち入ってはいけないんですよ」
「それほど神聖なんですね……」と順子さんが言うと、マヅルさんがうなずいた。
船が港を離れ、海風を切って進んでいく。
大神島は近づくにつれ、ただの島ではなく、ひとつの大きな祈りそのもののように感じられてきた。木々が密に茂り、石垣の間を縫うように小道が続く様子が、遠目にも静かな気を放っている。
「島のまわりには、『おかず御嶽』とか『トゥンガ御嶽』『イビ御嶽』っていう拝所がいくつもあって、それぞれにちゃんと神さまのお名前があるの。地元の人たちは、お参りする順番とか作法も大切にしていて。だから、よそ者が勝手に入ったり触ったりしてはいけないらしいです」
やがて船は、島から少し距離をとった場所でエンジンを止め、静かに揺れていた。
マヅルさんは、そう話しながらも静かに目を閉じ、胸の前で手を合わせた。
私たちもそれにならって、揺れる船の上で静かに祈った。
言葉を交わすことはなかったが、それぞれの思いが、大神島の静けさにそっと溶け込んでいくようだった。
風が、海面をさらりと撫でる。
まるで大神島から「ここまででよい」と告げられているような、そんなやさしくも凛とした気配に、心が自然と澄み渡っていった。
大神島には上陸しなかった。
けれど、船の上から手を合わせる――それだけで、心は充分に満たされていた。
今夜の宿は市内にある小さな民宿。こぢんまりとして清潔で、潮の香りと海風が、どこか懐かしい。
荷物を置いてひと息つくと、良寛さんは狩俣さんの家に泊まると行って、出かけて行った。
私たちは縁側に腰かけ、足を伸ばしながら、夜の海風に身をゆだねていた。空には宮古の星々が、私たちに何かを語りかけるように瞬いている。
言葉は少なかったけれど、きっとみんなの心の中に、今日訪れた御嶽の気配がまだ静かに息づいていたと思う。
漲水御嶽で感じたあたたかな気配。大神島の空と海に漂っていた、あの凛とした静けさ……それらが、今も心のなかにやさしく息づいている。
夜空には、ひとつ、またひとつと星が増え、ゆっくりと輝きを深めていく。
風は穏やかで、でもどこか遠い昔の声を運んでいるようでもあった。
私は目を閉じた。
そして胸の奥で、今日という一日が、静かに祈りという名の種を落としていったのを感じていた。
その種は、きっと、見えないところで芽吹いていくのだろう。魂という大地の、深くやわらかな場所で。
十.風の向きが変わるとき
私が初めて気功に出会ったのは、もう二十年も前になる。
あの頃、世の中はちょうどバブルの余韻から目覚めはじめていて、
もっとゆるやかに、共に生きようという空気が、街の隅々に漂いはじめていた。
アロマテラピーやパワーストーン、ヒーリング音楽なんかが流行って、「癒やし」という言葉が、そっと人々の口にのぼるようになっていた。
そんなある日、友人に誘われてふらりと足を運んだのが、気功だった。
正直に言えば、そのとき私は特別に疲れていたわけでも、何かに救いを求めていたわけでもない、ただ、ふと風の向きが変わるように、何かが私の内側でそっと動いた。
気功の場に身を置くと、からだの奥深くに、ゆるやかな流れが生まれるのを感じる。
それは言葉にしづらいけれど、母の胸に抱かれているような、でもどこか懐かしい海の記憶に包まれているような、そんな感覚だった。
そして、今でも忘れられないのが、ある日突然、目を閉じて立っていたときのこと。
頭のてっぺんから足の裏まで、まるで金色の水が流れ落ちるような光のシャワーに包まれて、涙がぼろぼろと止まらなくなった。悲しいわけでも、苦しいわけでもなくて、ただ、ああ、生かされてるって、心の奥の奥で確かに感じた。あの瞬間、私は自分が一人じゃないってことを、はっきりと知った。
それからも、不思議な体験はいくつもあった。
ふと背中に手を当てただけなのに、まるで何かがほどけるように、痛みが静かに消えていった。そんな不思議な出来事が、何度となくあった。
ある夜には、夢とも目覚めともつかない間に、ふいに声が聞こえた。男でも女でもない、でもとても澄んだ声で、こう言った。
ーー「光は、内なる水面に映るもの。あなたはただ、その水を濁さず歩けばよい」
その言葉が胸にすっと染み込み、目が覚めたあとも、その澄んだ声が胸に響きつづけていて、しばらく動けなかった。
誰かに教わったわけじゃないのに、「ああ、これが導きってものなのかもしれない」って、すとんと胸に落ちた。不思議と、疑う気持ちはなかった。
気がつけば私は夢中になっていて、
気がつけば、私はすっかり夢中になっていた。
長い旅の途中で、やっと自分にぴったりの靴を見つけたような。
そんな確かな手応えを、心の奥で感じていた。
一緒に始めた友人たちは次第に離れていったけれど、私は今でも、気功の場に立つと、内なる風がふわっと動くのを感じる。その風に背中を押されながら、ここまで歩いてきた。
そして、もうひとつ不思議なことがある。
それが気功の影響なのか、それともあの「声」の導きなのかはわからないけれど、ある頃から私は、人の目を見つめるだけで、その人が何を抱えているのか、なんとなく感じとれるようになったのだ。
心の奥にある痛みや、手放せない不安、何に迷っているのか、そしてその悩みの奥にある、本当の願い――そういったものが、ぼんやりとだけど浮かび上がってくる。
目をそらさず、ただ静かにその人を見つめると、言葉よりも先に、胸の内に「こうしてあげればいいんじゃないか」という感覚が、すっと降りてくることがある。
それは、自分の中ではないどこかから、やさしい風のように届くささやきだった。
目に見えないものに、ちゃんと意味があること。
静けさの中に、世界とつながる道があること。
そんな「見えないぬくもりに導かれる感覚」を、私は気功から教わったのかもしれない。
そして今も、その感覚は、私の中で静かに息づいている。
私たちは、いつものように、いつものファーストショップで、それぞれ好きな飲み物を手におしゃべりを楽しんでいた。
「ねえ、なっちゃん。妹のことなんだけど……最近、占いに夢中になっていてさ。どうして私たちってそんなに未来のことを気にしたり、不安になったりするんだろうね?」
ひとみさんが、ふと静かに問いかけてきた。
私は少しだけ目を伏せて、そっと答えた。
「それはね、きっと人間が時間という流れの中で生きているからだと思うの」
「過去は記憶となって心の奥に沈み、今はこの瞬間だけが手の中にある。でも未来だけは、まだ形も輪郭もない。だから私たちは、そこに自然と目を凝らしてしまうの。希望を見出したくて、でも同時に、不安や恐れにもとらわれてしまう」
「宗教って、本当はいまを深く生きるための道なのに、多くの人がそれを未来を保証してくれるものとして求めてしまうのね」
「でも、祈りや信仰の本質は――未来を変えることではなくて、起きることの中で自分がどうあるかを問い続けることなんじゃないかな」
「たとえば、仏教では未来さえも執着や妄想のひとつとして手放すべきものだと教えてるし、キリスト教では『神の御心のままに』という深い受容の姿勢が大切にされている」
「どちらにも共通しているのは、今ここにある自分の在り方を問い、整えるということ。未来はその結果として、自然にかたちづくられていくのかもしれないね」
「占いだって、本来は未来を決めつけるものではなくて、いまの自分の心の状態を映し出す鏡のようなものだと思う」
「未来を知りたくなるのは、きっと――ほんとうの自分に出会いたいっていう、魂の深い願いのあらわれなのよ」
「だから、不安になることを責めなくていい。それは、まだ見ぬ世界に向かってまっすぐ祈っている、私たちの正直な心の姿だから」
「そしてね、その祈りの中にこそ、もう『道』は始まってる。私は、そう信じてるよ」
「ねえ、なっちゃん。私も、ちょっと聞いていい?」
そう言って、由美子さんが少し身を乗り出した。
「うちの義母のことなんだけどね。今、八十六歳で一人暮らしをしてるの」
「この前も、ちょっと転びそうになったとか、飼っていた猫が死んじゃったとか、食べ物が傷んでたとか、柱時計が止まっちゃったとか……そんなことが続いてて」
「そしたら、『なにかのたたりじゃないかしら』って心配して、すぐユタさんに相談しようとするのよ」
「それにね、あのユタはよく当たるとか当たらないとか、そんな噂話もよく耳に入ってきて……」
「正直なところ、そういうことでいちいちユタに頼るのって、どうなのかなって思っちゃうのよね」
私は少しだけ目を細めて、由美子さんを見つめ、うなずいた。
「たたりかもしれない、呪われてるのかもしれない……そう思いたくなる気持ち、私にもわかるよ」
「だって、人は説明のつかない不幸や苦しみに出会うと、そこに意味を見出したくなるもの。たとえそれが怖い話でも、何か意味があると思えるだけで、心が整理されて、少しだけ安心できたりするから」
「沖縄のユタって、本来は当てものをする人じゃないの。人が抱えている痛みや、家の歴史、土地とのつながり……そういう目に見えないものを読み取って、今の生き方に結び直す人。亡くなった人の声を聞くっていうのも、実は今を生きる人に必要な言葉を届けるための行為なんだよ」
「たたりって言葉はたしかに怖いけど、本当は無視されてきた魂の叫びかもしれない。忘れられた祖先の想いとか、長年抑え込まれてきた感情とか……そういうものが形を変えて、表に出てきているのかもしれないね。『見て』『聞いて』『受け止めて』って、そう伝えてるんじゃないかな」
「だから、本来は祓うことより、癒すことが大切なの」
「それにね、沖縄では死って、終わりじゃないの。グソー――あの世とこの世は、きっぱり分かれてるわけじゃなくて、お盆のときみたいに、行ったり来たりできる場所なんだよ」
「だから、死者の言葉はときどき、生きてる私たちを立ち止まらせる。『ちゃんと生きてる?』『ほんとうの気持ち、置き去りにしてない?』って、問いかけてくるのかもしれないね」
少しだけ声のトーンを落として、私は続けた。
「でも、由美子さんが疑問に思うのも、すごく大事なことだと思う。なんでもかんでもユタに頼って大丈夫?って、冷静に考えるのは必要なこと。今は情報も多いし、本当に信頼できる人なのか、見極めるのも難しいよね」
「残念ながら、人の不安につけこんで、お金目当てで動いたり、脅すようなことを言ったりするユタもどきがいるのも事実。そういう人に依存してしまうと、逆に魂の力を弱くしてしまうこともあると思う」
「だからこそ、『この人は本当に神さまとつながっている?』って、自分の感覚を信じることも大切。信じることと、見極めること、どっちも必要なんだよね」
「お義母さんがユタに頼ることで、少しでも安心できるのなら、それはそれでひとつの支えになると思うよ。でもその上で、由美子さんがそっと見守ってあげたり、ときには一緒にほんとうの声を聞こうとしてあげたら……きっとお義母さん、心強く感じると思うな」
なっちゃんの言葉が静かに場にしみわたり、しばらく誰も口を開かなかった。
氷の溶ける音が、グラスの中でかすかに響いた。
その沈黙をやわらかく破るように、恵さんがふっと息を吐いて、ぽつりとつぶやいた。
「……沖縄では、ご先祖さまがあの世とこの世を行ったり来たりする。私、そんなの初めて知った」
東京育ちの恵さんが、少し目を丸くしてつぶやいた。
その瞳は、まるで見えない何かを追うように、遠くを静かに見つめていた。
「だって……東京じゃ、死んだらもう会えないっていう感覚が強いから。でも、沖縄の人たちは、あの世とこっちがちゃんとつながってるって……なんか、優しいな」
すると、順子さんがゆっくりと口を開いた。
「そうね。沖縄では、死って終わりじゃなくて、つづきみたいに考えられてるのよ」
「たとえば、お盆には、ご先祖さまがあの世からこの世に戻ってくるって信じられててね。だからそのときは、御馳走を用意して、お酒をお供えして……ご先祖さまと過ごすの」
恵さんが目を丸くしたまま頷くと、順子さんは少し目を細めて続けた。
「それに、グソーって言われるあの世は、この世から遠く離れた場所じゃなくて、すぐそばにあるって感覚なのよ。ふだんは見えないけれど、気をつけてると、ふと風の中に気配を感じたり、夢の中で語りかけてくれたりね」
「だから、沖縄の人はご先祖さまのことを過去の人って思ってないの。今もちゃんとつながってて、守ってくれてる存在。何か困ったときや、人生の節目には、心の中で手を合わせて、静かに相談したりするんだよ」
「たたりとか、ユタに頼るとかも、そこにあるのは恐れじゃなくて、つながりを取り戻そうとする気持ちなのかもしれない。ご先祖さまが何か伝えようとしてるんじゃないかって、そう感じるから」
そして順子さんは、小さく笑った。
「生きてるうちらが、ご先祖さまに手を合わせることで、また見えない力とつながって、いまの自分たちを支えてもらってる。そう思うと、なんだか心が落ち着くのよ」
知らなかった……沖縄の祖先崇拝っていうか、文化って、本土とはずいぶん違うんだね。なんだか……胸がきゅっとして、静かに沁みてくる感じがする」
恵さんはそう言いながら、ふと遠くを見るような目をした。まるで、見えない何かに語りかけるように。
そして、ゆっくりとまばたきをひとつして、小さな笑みを浮かべた。
手にした氷入りのグラスをそっと揺らす指先が、どこかやさしく、名残惜しそうだった。
「……亡くなった人たちと、こんなふうに今もつながっていられるって、すごいことだよね。なんだか、心の奥のほうがあたたかくなる」
「たまには、そんな気持ちも悪くないよ。今日はチュラママに、沖縄の心をちょっとだけおすそ分けね」
その場に、ふっとあたたかな空気が流れた。誰からともなく微笑みがこぼれ、自然とテーブルの上へと視線が集まっていく。
この日も、気功の仲間たちは拝所カルタを使って、次の訪問先を決めることになった。
「それじゃあ、いつものように、じゃんけんで次の拝所を決めましょうか」
しずかさんが優雅な手つきで拝所カルタの束を切りそろえ、ふわりとテーブルの中央に置いた。
じゃんけんで勝ったのは由美子さんだった。
「お、今日は運があるかもね」と笑いながら、由美子さんは札を一枚ずつゆっくりとめくっていく。
五枚、六枚……そして七枚目。
「はい、これ!」
由美子さんが、わざと少しもったいぶるようにゆっくりと札を裏返す。
そこに現れた札に、みんなの視線が集まった。
「安和のくばの御嶽」
「えっ、それってどこにあるの?」と、智子さんが首を傾げた。
そのとき、順子さんが静かに口を開いた。
「安和のくばの御嶽はね……名護の西のはずれ、安和っていう小さな集落の裏手にある丘の上よ。地元の人でも、ちゃんとした場所を知らない人が多いくらい、ひっそりとした場所なの」
順子さんは、ゆっくりと思い出すように言葉を継いだ。
「そこにはね、クバの木――ビロウの木が、何本も何本も生えていてね。その木々が風に揺れる音だけが聞こえてくる。まるで、神さまが通り過ぎていく気配みたいに、静かで清らかな場所なのよ」
「安和の人たちにとっては、あそこはただの森じゃないの。集落のご先祖さまたちが眠っている神聖な場所でね。暮らしの無事や豊作を祈る、大切な拝所なのよ。建物なんてほとんどないのに、森全体が御嶽って感じなの。もう、自然そのものが祈りなんだってわかるのよ」
「イビっていう、神さまが降りてくる場所もあってね、何となく雰囲気で入っちゃいけないって感じるの。そこに足を踏み入れたら、きっと何か大事なものが崩れてしまうような……そんな厳かさがあるのよ」
「だからね、行くときは静かにね。声を潜めて、心の中で挨拶するような気持ちで歩いてほしいの。人が拝んでるときはそっとしておいてあげて。ゴミなんか絶対に置いてこないでね」
しばし、テーブルのまわりに静けさが漂う。誰もが心の中で、クバの葉が風に揺れる音を聴いていた。
そのとき、
「なっちゃん、行ったことある?」
裕子さんがそう聞いてきたので、私は首を横に振って答えた。
「安和のクバの御嶽のことは聞いたことはあるけど……私は行ったことないの。琉球の国王も参拝した御嶽って聞いてるから、きっと由緒のある聖地なんだと思う」
「琉球の王様が北部を巡るときには、必ず立ち寄ったって言われてるよね。つまり、昔から国のレベルでも大切にされてきた場所だったってことだよね」
「それに、根神って呼ばれる神女が、祭祀を司っていたって話もあるの。村の平和や繁栄を、代々ずっと祈り続けてきた――そんな場所なんだと思うよ」
翌週、私たちは気功をお休みして、安和のクバの御嶽へ向かうことにした。
ところが、良寛さんに連絡するのをすっかり忘れていて、今朝になってようやく思い出した。慌てて連絡を入れると、「ぜひ行きたい」とのこと。そこで急きょ、静香さんの車に良寛さん、私、そして智子さんの四人で乗り合わせて向かうことになった。
朝早くの出発だったので、途中、恩納村の国道沿いにあるシーサイドレストランでサンドイッチとスープの朝食を取った。潮風が香るその店は、昔からあるアメリカンスタイルのレストランで、旅のはじまりにぴったりの場所だった。
今回の参加者は、良寛さんを含めて全部で十五名。
この間、順子さんが話してくれた「安和のクバの御嶽」についての説明を、静香さんが丁寧に文章にまとめて配ってくれたこともあり、興味を持った人たちが増えたのかもしれない。
行きの車内では、なぜか誰も口を開かず、静かな空気が流れていた。少し気まずいような、でもそれは不思議と悪い感じではなくて、どこか神聖な場所に向かっているような、そんな緊張感にも似ていた。
窓の外の景色をぼんやり眺めながら、私の中にも、まだ見ぬ御嶽へと導かれていくような、静かな期待がじんわりと広がっていた。
車を降りると、潮の香りとともに、どこかすうっと澄んだ空気が胸に入りこんできた。
誰からともなく静かに集まり、私たちは小さな列をなして歩き出す。十五人が、それぞれの思いを胸に、言葉少なに御嶽へと向かっていた。
足元には朝露に濡れた草がしっとりと広がり、どこか懐かしい土の匂いが漂ってくる。鳥の声が時おり木々の間から聞こえ、そのたびに、自然の懐に抱かれていることを思い出す。
誰もおしゃべりをしない。けれどその沈黙は、気まずさではなく、なにか大切な場所に近づいていくときに自然と訪れる、静けさだった。
御嶽にたどり着くと、すでに年配の女性がひとり、木の根元近くで真剣な面持ちで祈りを捧げていた。
その前には、白い半紙の上に百数十本もの線香が丁寧に並べられている。いくつかは少し上に、いくつかは少し下にと、わずかな段差をつけて配されており、その並びには何かしらの意味が込められているように見える。
けれど、線香に火はつけられていない。山火事への配慮なのか、それとも別の祈りのかたちなのか――。ただ静かに、だが明確な意図をもって、そこに置かれているようだった。
私たちは互いに目を合わせ、そっと黙ってその場に佇んだ。祈りが終わるまで、静かに待つことにしたのだった。
女性の口からは低く小さな声で言葉がこぼれていた。はっきりとは聞き取れなかったけれど、ところどころに懐かしい響きの沖縄の古い言葉が交じっているのがわかる。
「ユタかもしれない……」私は誰に言うでもなく心の中でつぶやいた。
クバの葉がさわさわと鳴る音に耳を澄ませながら、私はふと頭上を見上げた。その姿は、天と地を結ぶ何か大きな存在のようで、しばらく目を離せなかった。そのときだった――。
祈りを終えた女性が立ち上がり、静かに私のそばを通り過ぎた。そしてすれ違いざま、私の顔をちらりと見て、こう言った。
「あんたも、カミンチュだね」
それだけをぽつりと告げると、彼女はまた静かに歩き出し、やがて森の奥へと姿を消していった。
線香の香りがその人の体からふわりと漂い、私の鼻の奥に深く染みこんだ。
「今の人……ユタなの?」と、恵さんが誰に聞くともなく小さな声でささやいた。
順子さんが答えた。
「そうだね。あの線香の使い方を見たら、きっとユタでしょう。あんなに自然に、何本も線香をあつかえる人は、普通の人じゃなかなかいないから」
私はまだ、あの女性の声が耳に残っていた。
「あんたも、カミンチュだね」
その言葉が、不思議と私の胸の奥で、静かに灯のように揺れていた。
「良寛、ユタとかカミンチュとかノロとか言うけど、それってどう違うの?」
恵さんが素朴な疑問を口にした。
「それは、僕よりムヌシリの方が詳しいんじゃない?」
と良寛さんが笑って順子さんに目を向けた。
「私は昔のことはあまり分からないし……その辺は、良寛の方が詳しいでしょう」
順子さんが少し照れたように言うと、みんなの視線が良寛さんに集まった。
「ねえ、みんなにも教えてあげてよ」と、私が促すと、良寛さんはうなずいて、ゆっくりと語り出した。
「そうだな、沖縄では見えないものと関わる存在にはいくつかの役割があってさ」
「ユタはまず、個人の悩みや病気、家庭の問題なんかに寄り添い、霊的な感覚で助言をくれる存在でね、霊媒的な役割も果たしていて、生まれつき霊感が強い人が、いつの間にかそういう道に進んでいくことが多いんだよ」
「ユタになるときには、『ターリ』っていう神からの啓示を受けて、自分の使命に目覚める――そんな道をたどると言われている」
「それに対してノロ(またはヌール)は、琉球王国時代に制度として存在していた、神事を司る女性神官なんだ。各地域に配置されていて、御嶽での祈りや祭祀を行う役目があった。つまりノロは公的な宗教者としての立場を持っていたんだよ」
「今ではその制度も廃れてしまったけど、かつては王国に仕える女性神職として、とても大きな影響力を持っていたんだ」
「カミンチュというのは、もっと広い意味で、神とつながる力を持つ人のことを指すよ」
「ノロやユタもカミンチュの一種と考えられるし、日常の中で自然に神に祈り、神と共に生きている人もまた、カミンチュと呼ばれることがある」
「つまり、ノロは制度としての神職、ユタは民間の霊能者、カミンチュはその両方を内包する、もっと広い概念なんだよ」
「それぞれの役割は違っても、共通しているのは、見えない世界と人の暮らしをつなぐということ。そして、どれもこの島の長い歴史と祈りの文化の中で、大切に育まれてきた存在なんだよ」
良寛さんの語りが終わったあとも、私たちはただ静かに、クバの葉を渡る風の音に耳を澄ませていた。
私はそっと目を閉じ、胸の奥に浮かんできた言葉を、ゆっくりと口にした。
「みんな、この大きなクバの木を囲むように、丸くなってくれる?できるだけきれいな円になるようにね」
「それから、目を閉じて。意識を真ん中に集めてみて」
どれくらいの時間が流れただろう。十五分ほどだったかもしれない。
やがて、場の空気がひとつにまとまりはじめ、みんなの意識が、そっと中央に吸い寄せられていくのが感じられた。
私は静かに、小さな声で語りはじめた。
「今日ここに集ったみんなの道が、やわらかな光に照らされますように」
「それぞれの悩みや問いが、やがて実を結びますように」
「必要なときには、またこの場所が、静かに力を分け与えてくれますように」
「今日この場で交わった祈りが、それぞれの心に、小さな灯となって残りますように」
クバの葉が風に揺れ、さわさわと祝福の音を奏でていた。空からひとすじ、やわらかな陽が差し込んできて、みんなの顔に静かに降りそそいだ。
十一.呼ばれる場所
あの日のことを、私は一生忘れないと思う。
その朝、私はひどく落ち込んでいた。職場でも家庭でも、誰とも心が通じ合わないような閉塞感の中で、自分だけがこの世界から切り離されたような気がしていた。気づけば、車を停めたまま、ただ海を見つめていた。渡具知の浜辺。風は冷たく、波の音だけが一定のリズムで心を叩いていた。
そのときだった。ふいに背後から、「あなた、ここに呼ばれたんでしょう?」と声がした。
振り返ると、ひとりの女性が立っていた。四十五歳くらいだろうか?私より二つ三つ年上のように見える。白いシャツに風に揺れるロングスカート。髪も肌も光をまとったように柔らかく、けれどその瞳はまっすぐに私の奥を見つめていた。
「え……私に、ですか?」
戸惑う私に、彼女は、にっこりと笑って頷いた。
「ここはね、迷っている人の心を映す場所。わたしも、初めて来たときそうだったの。だから、今のあなたの気持ち、少しだけわかる気がする」
彼女の声には、不思議な温度があった。優しくて、どこか懐かしい、昔の夢で聞いたような声。
「よかったら、一緒に気を感じてみない? 難しいことじゃないの。ただ、自分の中にある静けさに、耳を澄ますだけ」
そのときの私は、何も信じる気にはなれなかった。彼女の言葉だって、どこか現実味がなくて、むしろ少し疑わしくさえあった。けれど、不思議とその声の調子が耳から離れず、気がつけば、私は海辺に腰を下ろし、彼女の隣でそっと目を閉じていた。
その瞬間、胸の奥に、ぽっと小さな灯がともったのを感じた。
それは、どこか懐かしくて、けれどこれまで味わったことのない温かさだった。
言葉にするなら、「つながり」。
ずっと求めていたもの。けれど、ようやくここにあると、静かに確信できたものだった。
沈黙の中、ふと視線が合った。
「あなたの名前は?」
「私は……高江洲しずかです」
すると、相手もまた、ほほえみながらやさしい声で名を名乗った。
「私は、与儀奈津子。……たぶんね、あなたはこれから私と一緒に気を感じていくことになると思うの。だから、私のことは『なっちゃん』って呼んでね」
その声が、そっと胸に染み込んでくるようだった。
ふたりのあいだに、言葉では届かない、深く静かな呼吸が流れた。
風がそっと吹き、海の匂いがふわりと通り抜けていく。
そして、その静けさの中に、たしかに新しい物語のはじまりが息づいていた。
あれから、私はなっちゃんの気功に通うようになった。ただ体を整えるだけじゃない。心が整っていく。自分が、自分に戻っていく。
あの日の出会いは、偶然なんかじゃない。あれは、私の人生の「扉」が開いた瞬間だったのだと思う。
今日もファーストショップの自動ドアが開くたびに、ひとり、またひとりと気功の仲間たちが集まってきた。
「やっぱりここが落ち着くさ〜」と最初に言ったのは智子さん。おかわり自由のルートビアを受け取ると、私の隣にどっかりと腰を下ろした。
「落ち着くんじゃなくて、ガジャンユンターが一番声でかいから、ここが騒がしくなるわけよ」と、私が笑いながら言うと、智子さんは肩をすくめて、
「それ、気のエネルギーが溢れてるってことね?」
「いや、ただの音量よ」と、由美子さんが即座に突っ込み、
若い店員さんが「いつも元気ですね」とにこにこしながら、注文していたカーリーフライをテーブルに置いていった。
ふと、恵さんが思い出したように言った。
「ねえねえなっちゃん、今度行く拝所、カメラ持っていってもいい?」
「カメラ?」と、みんなが目を向ける。
「ウチの夫がね、写真撮ってきてって言うのよ。なんか、パワースポットのエネルギーを見てみたいんだって」
恵さんの言葉に、なっちゃんはふと真顔になった。けれどすぐに表情を和らげ、できるだけ柔らかな声で答えた。
「うん、カメラ自体は持っていってもいいけど……チュラママ、拝所ってね、写真撮る場所じゃなくて、神さまと対話する場所なのよ」
「そこには人の目には見えない大切な存在がいるし、ここに来てくれてありがとうって、静かに挨拶するところなの」
「うん、そうだよね」と、恵さんが素直にうなずく。
「たとえば、誰かの家にお邪魔して、いきなりパシャパシャ写真撮られたらびっくりするでしょ?拝所もそれと同じ。ちゃんと心の目で感じて、帰ってから言葉で伝えるほうが、きっと夫さんにも伝わると思うよ」
「うわー、なっちゃん、今日いいこと言った〜」と、由美子さんが拍手し、順子さんが「録音しとけばよかった」と笑う。
そんなふうに、今日も私たちの間には、笑いと学びが絶妙なバランスで混ざり合っていた。
いつものように少し遅れて、良寛さんが息を弾ませながらお店に入ってきた。
「ごめんごめん、遅れてごめん〜」と笑いながら手を振るが、どこかバツが悪そうに視線を泳がせている。
気まずさを隠すように頭を下げると、裕子さんが「いつものことでしょ」と軽く突っ込み、場に小さな笑いが広がった。
その笑いにほっとしたように、良寛さんもようやく腰を下ろした。
私は、そっと箱を取り出し、テーブルの真ん中に置いた。
みんなの視線が自然と集まり、室内に静かな期待の気配が満ちる。私は、ゆっくりとふたを開けた。中から現れたのは、手作りの拝所カルタ。
「やっとできたのよ――これが『拝所カルタ』」
少しだけ得意げな気持ちが、声ににじんでしまった。
「読み札は、良寛にも手伝ってもらってね」
ちらりと彼に目をやると、良寛さんは照れくさそうにうなずき、口元を緩めた。
「結局さ、神の数は四十九がしっくりくるって、良寛が言い出して、札の数も四九枚になったの」
笑いながらそう言うと、「なるほどね〜」と、まわりから声が上がる。
その瞬間から、テーブルを囲む空気がふわりと和らいだ。ほんのり神聖で、けれど、どこまでもあたたかい。
「すごーい!四九枚の拝所カルタ!」
智子さんが目を輝かせて声をあげた。
女性たちは思い思いにカルタを手に取り、札を一枚一枚ゆっくり眺めていく。
いつの間にか誰もが声をひそめ、札を扱う手つきにも自然と慎みが生まれていた。
「札のひとつひとつに、祈りがこもってる感じがするね」
「そうね……あ、読み札、これすごくいい。『潮が引くときだけ現れる、神さまの通り道』……うわぁ、情景が浮かぶ」
ひとりがそう言うと、何人かが読み札を手に取って声に出して読んでみる。
その声は、まるで唱え言のように静かに、部屋の空気に染み込んでいった。
「これってさ、カルタっていうより……神話を巡る旅みたいね」
「うんうん。こうしてみんなで囲むと、島じゅうの神さまたちに順番に挨拶してるようなそんな気がしてくるね」
その一言に、全員の胸がじんわりとあたたまる。
拝所カルタは、ただの遊び道具ではなく、ひとりひとりの記憶と祈りを呼び覚ます、不思議な贈り物になっていた。
「ねぇ、しずか弁護士、これって、ちゃんとした印刷屋さんに頼めば、商品として売れるんじゃない?」
そう言ったのは、目を輝かせたひとみさんだった。
「そうよ、絶対売れると思う!」
すかさず由美子さんが大きくうなずく。
私は思わず笑いながらも、ふと真顔になった。
「……そうかもね。ちょっと、本気で検討してみようかな」
その場の空気が、一気に前向きで明るいものに変わった。気功の仲間たちが楽しみながら生み出した拝所カルタ。そこには、遊び心と信仰心、そしてなにより人と人をつなぐ力が詰まっていた。
テーブルの中央にカルタをそっと置き、次の拝所を決めるため、みんなでじゃんけんをする。
勝った人が札を引く――それが、いつものやり方だ。
そしてじゃんけんに勝ったのは、なっちゃんだった。軽やかに手を挙げて、にっこりと笑った。
「なっちゃん、じゃんけんに勝ったの初めてでしょう? 慎重に切ってから選んでよね」
由美子さんがそう声をかけると、場に少し笑いが広がった。
なっちゃんは、胸の前でそっと手を合わせるようにして、静かにひとつ息を整えた。
「神さまのお導きがありますように」
小さな子どもが大切なおまじないを唱えるように、ゆっくりと札を切っていく。
そして、上から七枚目に指をすべらせると、その一枚をそっとめくった。
「安須森御嶽」
その瞬間、恵さんが飛び上がりそうな勢いで声を上げた。
「すごい!そこ、ずっと行きたかった場所!」
「私、十年ほど前に行ったことがあるけど……あそこ、けっこうきつい山道なのよ。登りきれるかな……」
順子さんが少し不安そうに言った。
「最近、膝の調子が悪くてね。リハビリに通ってはいるんだけど、なかなか良くならなくて……。今回は、ちょっと遠慮しておこうかな」
「何言ってるのよ。やっぱりムヌシリがいてくれないと、みんな心細いよ」と、ひとみさん。
「そうよ、みんなで交代で負ぶってもいいから、一緒に行こうよ」と、裕子さんも笑いながら声をかけた。
「わかった。じゃあ今のうちから体力つけて、頑張ってみるよ」と順子さんがうなずいた。
「ムヌシリ、安須森御嶽のこと、教えてくれない?」
私がそう声をかけると、順子さんはふっと微笑み、そっと首を横に振った。
「それは、なっちゃんの方が詳しいんじゃない?あそこ、何度も通ってるでしょう?」
「うん、たしかに……そうかもしれない」
なっちゃんは少しだけ目を伏せ、心の中で言葉を探すように間を置いた。
そして、静かに口を開いた。
「私ね、なにか嫌なことがあったり、どうしようもなくつらいとき……不思議と、安須森御嶽に呼ばれるの。まるで、あの場所に導かれてるみたいに」
その言葉に、場がふっと静まる。誰も声を挟まず、ただなっちゃんの方へと意識を向けている。
「安須森御嶽はね、琉球開闢七御嶽のひとつで、アマミキヨが国づくりの途中で訪れたとされる神聖な場所なの。沖縄の神話の息吹が今も感じられる、特別な御嶽なのよ」
「『安須森』という名は、古くからの山の名前に由来していて、山頂にある祠こそが、本来の『安須森御嶽』とされてるの。そこはね、辺戸岳の頂上、標高248メートルのところにあって、登山道は急勾配で滑りやすい。でも、山の途中には祠や拝所が点在していて、静けさと神聖さに包まれているの」
「一方で『辺戸御嶽』っていう呼び方もあるのだけど、これは辺戸の地名から来たもの。山のふもとにある拝所を指していて、地元の人たちにとっては生活と結びついた祈りの場所。だからね、広い意味では同じ聖域なんだけど、細かく言うと、山頂の聖所と集落の拝所っていう違いがあるのよ」
「なるほど、聖地にも古代的な場所と暮らしに寄り添う場所があるんですね」
「そういうこと。山頂の安須森は、『黄金山』や『長老の森』とも呼ばれていて、本当に特別な場所。そこから見える景色もすばらしくて、伊江島や大石林山まで見渡せるの。自然の中に神さまがいるって、きっと感じられると思うわ」
「よし、決まりね。安須森御嶽。日程は明美さんのの体調と相談しながら調整して、準備を万全にして登ろう」と、裕子さんが言った。
私たちは小さくうなずきながら、胸の中でそれぞれに「はじまりの地」への思いを描いていた。
今日は天候にも恵まれ、順子さんの膝の具合も少しずつ良くなってきているとのことだった。両膝にサポーターを巻いて、今回の拝所巡りに参加することになった。
良寛さんは、なっちゃんが何度も誘っても首を縦に振らず、今回は参加を見送ることになった。
今日の参加者は総勢十二名。車三台に分乗し、安須森御嶽を目指すことになった。
道中、名護の宮里そばで休憩を兼ねて沖縄そばを味わい、再び目的地に向けて車を走らせた。
車を停めたのは、登山口の少し手前にある広場だった。エンジンを切ると、あたりはふっと静まり返り、遠くからヒヨドリの鳴き声と、木々のざわめきだけが静かに耳に届いてくる。
「空気が澄んでるね……」
ひとみさんがそうつぶやくと、全員が思わず深呼吸をした。湿った土と緑の香りが肺に染みわたる。
「この感じ、久しぶり。なんだか背中が伸びるね」と、裕子さん。
「うん、山ってやっぱり何かが違うよね。空気の粒が細かいっていうか……」と、恵さんが頷く。
順子さんは両膝に巻いたサポーターの上からそっと手を置き、「行けるところまで、ゆっくり登るわね」と穏やかに笑った。
登山道の入り口には、手作りの小さな案内板が立てかけられていた。そこには「安須森御嶽登拝口『足元に気をつけて』」とだけ記されている。余計な説明はなく、まるで「感じること」を求められているようだった。
最初のうちはなだらかな赤土の坂道が続いており、両側には深い緑のシダ植物やクワズイモの葉が生い茂っている。木漏れ日が揺れながら差し込み、葉と葉の間から光の粒がこぼれていた。土の道には落ち葉がふかふかと重なり、足音が吸い込まれるようだった。
道の脇には、苔むした小石や倒木がところどころに見られ、虫の羽音や、どこからともなく聞こえる鳥のさえずりが静かな空間に命の気配を添えていた。ひとつ息を吸い込めば、湿った土と木の香りが胸の奥にまでしみ込んでくる。
やがて、道は徐々に傾斜を増し、岩がちになってくる。むき出しの根っこが斜面を這うように伸び、踏み場を選びながら歩かなければならない場所も増えてきた。ところどころにロープが張られており、誰かが整備したことを示していたが、それも最低限にとどめられている。あくまでも自然のままの山道だった。
木々の間から差し込む陽の光が、葉の影を道に落とし、風が吹くたびに模様が静かに揺れ動いた。まるで山全体が生きていて、呼吸をしているかのように。
「はぁ……でも気持ちいいね」
息を整えながら、智子さんが笑顔を見せた。
「昔の人はこんな山道を何度も登って祈りを捧げてたんだね。ほんと、頭が下がるよ」と、由美子さんがふとつぶやく。
「あの祠が見えるところまで行けたらいいな……。せめて、そこまで」と、順子さんが一歩一歩、足元を確かめるように歩みを進めていた。
途中、小さな岩場の先に、誰かが積んだらしい小石の塔がひとつ、陽の光を浴びて立っていた。それを見た智子さんが、「あ、今、歓迎されてる気がした」と小さく言い、その場に柔らかな笑いが広がった。
誰も急ごうとはしなかった。ひとつひとつの足音を確かめながら、静かな時間の流れのなかで、みんなそれぞれの思いを胸に歩いていた。祈るための道を登るというよりは、自分の中の何かを整えるための道のりのようでもあった。
そのとき、まだ見ぬ祠の方角から、ほのかな気配が漂ってきた。
風の流れが、ふいに変わった。
耳には何も聞こえない。けれど、背中の真ん中を、さざ波のような感触がゆっくりと這いのぼっていく。
しばらく険しい坂道を登り続けると、やがて前方にほのかに光が差し込むのが見えた。木々の間から空が開け、その先に、まるで森の中に忘れられた祈りのかたちのように、小さな石の祠がぽつんと姿を現した。
「あれが、安須森御嶽の祠よ」
なっちゃんが小声でつぶやくと、みんなの足が自然と止まり、静けさが訪れた。
空は雲ひとつない青。風がそっと吹き抜け、枝葉がさわさわと囁くように揺れた。辺り一面に漂うのは、緊張ではなく、どこか懐かしいような、胸の奥にすっと染み込むような感覚だった。
木々の隙間から差し込む光が、まるで道しるべのように足元を照らし、やがて私たちは、小さな空間へとたどり着いた。そこには、古びた石の祠がひっそりと佇んでいた。
祠は人の背丈ほどの高さで、粗く削られた石を組んだ素朴なつくりだったが、その表面には長い年月を思わせる苔と風化の跡が刻まれていた。屋根には落ち葉や細かな枝が積もっていて、誰かが掃いた形跡はない。それなのに、そこには不思議と汚れた印象はなく、むしろ自然と調和した「在るべき姿」として静かに場に溶け込んでいた。
祠の周囲には、小さな丸石がいくつも供えられており、人々が手を合わせ、石を置いて帰っていったのだろう。それぞれの石には、願いや感謝、あるいは悔いや祈りが込められているのかもしれない。
周囲の木々はやや開け、木漏れ日が斑に地面を照らしている。足元には湿った落ち葉が積もり、その上に立つと、音も立てずに沈み込むような感覚がある。空気はしっとりと冷たく、どこか別の世界へと踏み込んだような静けさに包まれていた。
誰かが息をのんだ。その音さえ、木霊しそうなほどの沈黙だった。
ふと、足元の岩陰に目をやると、小さな水たまりがあり、そこに空の青と祠の影が映り込んでいた。その揺らぎを見つめながら、誰もが自然と手を合わせた。言葉はなかった。ただ、祠の前に立った瞬間から、心の奥底にあった何かが静かに揺さぶられていた。
それが「神の気配」なのかどうかは分からない。けれど、たしかに「祈りの場」として、ここに何百年も息づいてきた何かがある。
順子さんが、そっと祠の前に進み出た。両膝を気遣いながらも、背中を伸ばし、深く一礼する。
その後ろに、一人、また一人と続くように、全員が無言のまま祠の前に並んだ。
私は両手を合わせ、目を閉じた。
浮かんできたのは、いくつもの顔。失ってきたもの、手放せなかった想い、まだ言葉にできていない願い。
それらすべてを、今ここにいる私として、静かに、ただ差し出すように祈った。
誰も言葉を発しなかった。ただそれぞれの胸の奥にある何かと向き合い、神聖な空間に身を委ねていた。
しばらくして、ひとみさんがそっと目を開け、「ありがとう」と、誰かに語りかけるように小さく呟いた。
その言葉が合図のように、他の人たちも少しずつ顔を上げ、それぞれの呼吸に戻っていった。
「来てよかったね……」
恵さんが目を潤ませながら言った。順子さんはゆっくりとうなずき、口元に静かな微笑みを浮かべている。
「また、呼ばれる時が来たら、来ようね」
智子さんがそう言ったとき、祠の上の木の枝にとまっていた鳥が、一声だけ高く鳴いた。神がその言葉に応えてくれたかのように。
祈りを終えた私たちは、名残惜しそうに祠の前に最後の一礼をしてから、ゆっくりと下山を始めた。
登ってきた時とは違い、足元に注意を払いながらの一歩一歩。木漏れ日が斜めから差し込む中、時折風が木の葉を揺らし、さらさらという音が足元を包み込む。
「順子さん、膝はどう?」
ひとみさんが隣に寄り添い、さりげなく手を差し伸べる。
「不思議と、あんまり痛くないの。さっき祈ったとき、何かが抜けたような気がしたわ」
その言葉に、みんなが小さく頷いた。
途中、視界がひらけた場所で、私たちは立ち止まり、ひと息つくことにした。木々の陰に身を預け、持参した水で喉を潤す。風が静かに通り抜けるなか、それぞれがぽつりぽつりと思い思いの言葉を口にした。
「安須森って、ただの山じゃないのね……空気が違った」
「祠の前に立ったとき、涙が出そうになったの。理由はわからないけど」
「また、来たいね。今度は、もっと心を整えてから」
小さなお菓子を分け合いながら笑い合う姿の中に、静かな絆が育っているのを、私は感じていた。
それは、ただ同じ山道を歩いたからとか、同じ風景を見たからというだけではない。
私たちの魂が、どこか奥深いところでふれて、響き合っているかのように。
なっちゃんが、ほんの少し声を張って、静かに語りかけた。
「ねえ、みんな。今日、こうして安須森御嶽に来られたのは……偶然なんかじゃないと思うの。神さまやご先祖さま、そしてこの土地に宿る精霊たちが、きっと私たちの歩みを、そっと導いてくれたんだと思う」
「だからこそ、こうして一緒に祈って、笑って、涙ぐんで……そのすべてが、意味のあるものだと思うの」
「人生って、時々とてもつらくなることもあるよね」
「でも、そんなときこそ、こうして誰かと手を取り合って登ること、祈ること、
ただ一緒にいることが、どれだけ心を救ってくれるか。私はこの山に来るたびに、それを教えてもらうの」
「今日のみんなとの時間も、私にとっては神さまからの贈り物みたいなものだよ」
「私たちは、たぶんみんな、何かを癒しに、何かを見つけに、ここへ来たんだと思う」
「それが言葉にならなくても、胸の奥にぽっと灯がともるような、そんな感覚を持って帰ってくれたらいいな」
「そして、それぞれの暮らしの中に、この静けさや、祈りの力がじんわりと根づいてくれたらって、心から願ってるの」
誰からともなく、小さく拍手が起こった。
その音は、風に溶け込むようなやさしさと、どこかあたたかさを帯びていた。
十二.拝所カルタと神の島
お店の入り口をくぐると、奥の席から「良寛、こっちこっち!」と大きな声が飛んできた。いつもながら元気いっぱいの恵さんだ。
「わかった、わかった」と私は手を上げて合図し、とりあえずカウンターで飲み物を注文してから、いつもの席へと向かった。
席に着くやいなや、背中を思いきり叩かれ、「良寛、来るの遅いよ!」と明るい声が響いた。知子さんだ。その声には、相変わらず弾むような陽気さがあり、彼女は風のように、その場の空気を一気に動かしてしまう。
「まったくもう、どうしてあんな大事な日に来なかったの?」
そう畳みかけるようにひとみさんに言われて、私は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
やっぱり来たか、安須森御嶽の話。あのとき私は、安須森御嶽の参道がかなり険しいと聞いていて、見えない私には難しいかもしれないと、つい遠慮してしまったのだった。
みんなの足を引っ張るんじゃないか、そんな思いが胸をよぎって、結局行くのを控えてしまった。
「どうして来なかったの?」
「本当に、素晴らしい御嶽だったのよ」
「もしかして……登るのが大変そうだって思って、私たちに気を遣ってやめちゃったの?」
あちこちから女性たちの言葉が飛んできて、私はすっかりたじたじになってしまった。頷いたり、なんとか話をそらそうとしたり――まるで四方八方からの攻撃を受けているようだった。
「ねえ良寛、実は……あの日、祈ってたら誰かがそばに立ってる感じがしたの。目を開けても誰もいなかったけど、その『気』は確かにあったの」
それは裕子さんだった。彼女の感覚は鋭く、言葉もやわらかい。ふだんは多くを語らないが、口を開くときは、必ず誰かの胸の深いところに届く。
「実はあの日、家にはいたんだけど……頭の中ではずっと、みんなのことを思い浮かべていたんだ」
「今ごろみんな、参道のどのあたりを歩いているのかな。もう山の上の祠の前で、祈りを捧げている頃かもしれない。なっちゃんはきっと、みんなに向かって、何か大切な言葉を呼びかけているんじゃないかな――そんなふうに思っていたらね、不思議と、自分もいま安須森御嶽にいるような気がしてきて……気がつくと、山の澄んだ空気がすうっと胸の奥に流れ込んできた気がしてね……」
その瞬間、みんなの顔がぱっと明るくなり、わっと笑い声が広がった。
「やっぱりね! ほら、私たち、ちゃんとつながってたんだよ」
「場所じゃなくて、『気』で通じ合ってるんだと思う」
「うん、私もそう感じた。御嶽が開くときって、きっと必要な人の波長が、ちゃんと届くようになってるんだよね」
みんなが、ゆっくりと、静かにうなずいた。
そのとき、ひとみさんがぽつりと言った。
「良寛、今度は一緒に行こうよ」
彼女の声は小さくて、それでいてまっすぐだった。私はうれしくて、少しだけ照れながら答えた。
「そうだな……足場のこと、ちょっと心配で遠慮したけど、こうして話を聞いてたら、やっぱり行けばよかったなって思ってるよ」
「きっと次は呼ばれるよ」
そう言って笑ったのは恵さん。茶目っ気のある声が、またみんなの笑顔を誘った。
たしかに、あの日、私の心も動いていた。
見えないけれど、届くものがある。
聞こえないけれど、伝わるものがある。
そのことを、今日のこの会話が教えてくれた。
そのとき、自動ドアが開いて、風といっしょにふたりの気配が流れ込んできた。
なっちゃんと、しずかさんだった。
「遅くなって、ごめんね!」
「まったく、待ちくたびれたんだから。この会はやっぱり、なっちゃんとしずか弁護士がいてこそなんだよ」
知子さんの明るい声に迎えられながら、ふたりは笑顔で席に着いた。
その瞬間から、気功仲間たちのあたたかな物語が、月の光のように静かに、そして深く、この場に広がっていった。
私は心の奥であたためていた想いに、そっと包むようにして、言葉を切り出した。
「なっちゃんも、みんなもちょっと聞いてほしいことがあるんだ」
「しずか弁護士が作った『拝所カルタ』のことなんだけどね。とてもいいものができたと思う。だからこそ、きちんと報告したいんだ。神々のいらっしゃる、あの世界に向けて」
言葉をひとつひとつ確かめるように、丁寧に話を続けた。
「それで思ったんだ。沖縄で最も高い拝所、フボー御嶽に行って、『拝所カルタを作りました』って、神さまにご報告しようって。どうかな、みんなで一緒に行けたらって思っているんだけど……」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲がふっとざわめいた。
小さな歓声や頷きが、波紋のように空気の中に広がっていった。
なっちゃんが、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね……行こう、フボー御嶽へ。ちゃんと神さまに届けたい。あの拝所カルタには、一枚一枚に祈りが込められてる。拝所の息吹、その場所の記憶みたいなものが宿ってるんだと思う。だからこそ、久高島の神さまにきちんとご挨拶すること――それがとても大切なんだと思うの。私たちの想いも、ちゃんと一緒にね」
すると、しずかさんが穏やかに微笑みながら言った。
「そうだね。あの拝所カルタを作ったとき、私、自分の中の声と向き合った気がしたの。拝所を巡る旅は、外を回るだけじゃなくて、自分の内側を巡る旅でもあったなって。フボー御嶽には、そのはじまりの祈りを捧げたい」
「その言葉、深いな……」と、由美子さんが静かに呟いた。「私もこの前の安須森御嶽で、自分の中の『揺らぎ』みたいなものが静まったの。誰かに許されたような、不思議な感じだった」
「うん、あそこには確かに『響き』があったよね」と智子さんが続ける。
「声に出して祈ってなくても、身体の奥が聞こえてるっていうか、共鳴してるような」
私は、うんうんと頷きながら言った。
「だからこそ、次はフボー御嶽なんだ。あそこは、島そのものが神の姿だと言われている。人の祈りをただ受け取るんじゃなくて、魂そのものを写してくれる場所だから」
言いながら、自分の中にも何かが静かに立ち上がるのを感じていた。言葉ではうまく言えないけれど、ただの計画や思いつきじゃなくて、もっと深い何か……あの場所へ導かれているような感覚だった
「みんなはどう思う?」
なっちゃんがそう言って、ゆっくりと視線をみんなに向けた。声は柔らかかったけれど、問いかけはまっすぐで、どこか祈りにも似た響きを持っていた。
「私は……行きたいな」
最初に口を開いたのは由美子さんだった。
「この前、安須森御嶽に行ったとき、帰り道ずっと胸のあたりがぽかぽかしてたの。うまく言えないけど、拝所の静けさの中で、自分のいちばん大事なところを思い出せた気がした。ふぼー御嶽でも、きっと何かが待っている気がするの」
「私も行きたい」
続けて、智子さんが真剣なまなざしで言った。
「最近、自分の中のざわめきみたいなのに気づくことが多くて。でも、それが悪いことじゃないって教えてくれる場所があるって思えるようになった。ふぼー御嶽に行けば、その声をもっとはっきり聞けるかもしれないって思うの」
私は静かに頷いた。
こうして言葉にすることで、それぞれが自分の内なる旅を歩いていることが、改めて感じられた。拝所巡りは、地図にない場所を辿る行為なのかもしれない。いや、地図にない自分を確かめる旅、と言ったほうが正しいか。
しずか弁護士が、そっと手を合わせるようにして言った。
「この『拝所カルタ』も、私たちのその旅の軌跡よね。一札一札に、出会いと祈りと気づきが詰まってる。だからこそ、ふぼー御嶽に手渡したい。『私たちはここにいます』って」
誰もすぐには返事をしなかったけれど、その沈黙の中に、確かな合意の気配が流れていた。
それは言葉よりも確かな頷きだった。
ああ、これはもう始まっているんだ――フボー御嶽への祈りの旅が。
朝のやわらかな光に包まれて、私たちは安座真の港に集まった。空は高く、海風はほんのりと湿り気を帯びていたが、それでもどこか澄んだ気配をまとっていた。
岸辺には、久高島行きの小さな船が、静かに波間に揺れていた。
「ねぇ良寛、いつから一緒に気功始めるの? 最近はね、気功メンバーも増えて、男の人も二人参加してるのよ」
しずかさんが、風にまぎれるように、ぽつりとつぶやいた。
私はすぐには答えず、潮騒の音に意識をまかせた。
その問いかけは、うれしくもあり、少し胸の奥をざわつかせるものでもあった。
「本当はね、参加してみたいって思ったこと、何度もあるんだ。ああいう場に身を置いて、みんなと同じ空気を感じてみたいって。でも……」
言葉がそこで止まる。風がふっと強く吹いて、上着の裾が揺れた。
「でも、なんというか……僕がそこに入ることで、場の雰囲気を変えてしまうような気がしてね」
しずかさんは、少しだけ目を細めて、やさしく言った。
「そんなふうに思ってたんだね。でも、良寛がいると、場はむしろ整う気がする。気を遣うんじゃなくて、気が通うって感じ。私たちは、それをちゃんと分かってるよ」
私は、苦笑いを浮かべてうなずいた。
ありがたい言葉だった。でも、心のどこかにある影は、まだ完全には晴れなかった。
「ありがとう。でも……もう少し、外から風に当たっていたいんだ。今は、ね」
しずかさんが吹き出すように笑った。
「なに言ってるの、良寛。あなた、すでに風のど真ん中にいるじゃない」
しずかさんは笑みを浮かべながら、潮風にそよぐ髪をそっと押さえた。
私は耳を澄ませた。波の音が、どこか懐かしい誰かの声のように、静かに胸に届く。
潮の香りが、ふと変わる。きっと、あの向こうに久高島――神の島があるのだろう。
目には見えないが、心にだけ届いてくる風景がある。
まだ会ったことのない誰かに、そっと呼ばれているような――そんな不思議な気配が、胸の奥をふるわせていた。
やがて、出港の合図が響き、船はゆっくりと岸を離れた。
ざぶん――波が裂ける音が、胸の奥にしずかに染みこんでくる。足元から伝わるエンジンの振動が、私の身体の奥を小さく揺らした。
船室のほうからは、乗客たちのざわめきや子どもの笑い声が聞こえてくる。私たちはデッキに出て、頬をなでる風や、肌に触れる潮の粒を感じながら、しばらく言葉を交わさずに立っていた。
風が変わるたび、海の匂いが少しずつ色を変える。
陽のあたるところはじんわりと温かく、時おり吹く強い風が髪をふわりと持ち上げる。
空と海の境が溶けていくような感覚、それは私の中の輪郭もゆるやかにほどけていくような、不思議な解放感をもたらした。
久高島が近づくにつれ、言葉を交わす人々も静まり、ただ風の音と、誰かが息を呑む気配だけが、私たちの内側と外側をやさしく撫でていく。
船はやがて、ゆっくりと桟橋に近づき、軽い衝撃とともに到着した。
私は足を踏み出す前に、ひと呼吸、深く吸い込んだ。潮の香りに混じって、草の匂い、土の匂い、そしてもっと目に見えない、名前のない『気配』のようなものが風に乗って漂っていた。
私は静かに島へ一礼し、そして最初の一歩を踏み出した。
胸の奥がすぅっと静かになり、音は確かにあるのに、どこかへと消えていくような感覚。
島全体が、大きな祈りの場であり、そっと私を包み込んでくれる、母なる存在のように。
なっちゃんが私の隣にそっと立ち、言葉もなく、肩をやさしくとんとんと叩いた。
その小さな合図だけで、なっちゃんも同じ気配を感じているのだとわかる。言葉はいらなかった。やさしい気持ちが、肌を通してまっすぐ伝わってきる。
潮の香りに包まれながら、港をあとにする。足元の感触がアスファルトから土へ、そしてさらさらとした砂利道へと変わっていくたびに、私たちはゆっくりと島の奥へと歩を進めた。
久高の道は、ただの道ではなかった。
一歩ごとに、地面の奥からしんとした気配が立ちのぼる。空気がわずかに重くなり、胸の奥に何かがふれる――眠っていた記憶のような、名前のない何かが、静かに息を吹き返していく。
風が頬をなで、葉がさらさらと鳴る。耳をすませば、どこかで鳥の声。草の間をすり抜ける小さな虫の気配。
そのすべてが、言葉ではない方法で、私に「ここにいていいよ」と語りかけてくる。
ふと、胸の奥で、誰かがささやくような声がした。「いまは、静かに歩くときだよ」と。
私はその声にそっと頷いた。見えないけれど、風や音や匂いのひとつひとつをたどりながら、心の目でこの道の輪郭をなぞっていく。
そこには、穏やかで、深くて、凛とした気配がたしかにあった。言葉ではとても届かないけれど、全身が感じていた。
「ねえ、なっちゃん……」私は小さな声でつぶやいた。
「この道を歩いているとね、身体の内側の音が聴こえてくるような気がするの。考えるんじゃなくて、魂のほうが、何かに呼ばれているみたいな……そんな感覚」
「ねえ、なっちゃん、学問で知った久高とは、まるでちがう。この島には、場の力がある。文字にできない記憶、言葉を超えた祈り……そういうものが、いまもここに生きている」
「現代に生きる私たちが、どれだけ静かに歩けるか――それを、この島に問われている気がするよ」
なっちゃんはしばらく黙っていたけれど、そっと私の肩に触れ、微笑む気配を残してこう言った。
「そうだね」
「この島ってね、誰かの願いを届ける場所じゃないのかもしれない。むしろ、『ただここに在る』ってことを感じる場所なんだと思う」
「何かを求めるよりも、受け取ること。それが大切なときってあるでしょ?久高は、きっと、そういうふうに在る場所なんだよ」
私はゆっくりと頷いた。その頷きは、言葉の代わりに、深い共感を伝えていた。
しばらく歩いていると、足元の感触がふと変わった。柔らかな土の中に、わずかな凹凸があり、草の根がからむような気配。足裏から伝わるその変化に、私は立ち止まった。
ここが、フボー御嶽。島でもっとも神聖な場所。選ばれた者しか入ることを許されない、久高の奥深い聖域。
目には見えなくても、その空気の変化が、はっきりと教えてくれる。ここが特別な場所であることを。
私たちは自然と足を止め、声もなくその場に立ち尽くした。
鳥の声が、どこか高いところから聞こえてくる。風がそっと髪をなでていく。そして、遠くから波の響きが、心の奥を優しく打つ。
そのすべてがひとつに溶け合い、この場所を守っている。
「この空気が、もう拝みだね……」
私は目を閉じたまま、そっとつぶやいた。
「祈るんじゃなくて、ただ在ること。それだけで、もう届いている気がする」
「そうだね」
なっちゃんの声もまた、風の音に溶けるように静かだった。
「ここではね、知ろうとするより、感じること。語るより、黙ること。久高が教えてくれるのは、きっとそういう知恵なんだと思う」
私たちはその場で、ただ黙って立ち尽くしていた。
風の音が耳の奥で優しくさざめき、鳥の声は遠く、やわらかく揺れている。島全体がひとつの深い呼吸をしているようだった。
私たちはその呼吸に、そっと耳を澄ませていた。
「ここが……」
しずかさんが小さな声でつぶやき、そこで言葉を切った。
何かを伝えようとしたのだろう。けれど、その続きを口にする前に、喉の奥で言葉が止まり、代わりにそっと息をのんだ。
そのときだった。
静かに草の間を分けるようにして、一人の女性が現れた。
白い麻の衣のようなものをまとい、ゆるく結ばれた白髪が風にゆれている。
顔には深い皺が刻まれていたが、その眼差しには、揺るぎない凛とした光が宿っている。
「どちらから来られましたか?」
その女性は、優しさの中に確かな芯を感じさせる声で、私たちに静かに問いかけた。
なっちゃんが一歩前に出て、深く頭を下げてから、
「沖縄本島から参りました。与儀奈津子と申します」
私は、そっとしずかさんの背中に手を添え、軽く押した。
――あなたも前へ。
そんな思いをこめて。
しずかさんは、私にしか聞こえないような小さな声で「ありがとう」と言い、なっちゃんの隣に静かに並んだ。
そして、女性に向かって、ていねいに頭を下げてから、
「私は高江洲しずかと申します。この『拝所カルタ』を作りました」
そう言って、しずかさんはそっと藍染めの風呂敷に手を添えた。
指先が結び目に触れる。
大切な宝物を扱うように、静かで丁寧な所作でその結び目をほどいていく。
やがて、風呂敷がゆるやかに広がり、包まれていた「拝所カルタ」が、そっと姿を現した。
しずかさんはカルタを両手でそっとすくい上げると、祈りのような気配をまとって、目の前の女性に差し出した。
「これは、沖縄にあるさまざまな拝所を、もっと多くの人に身近に感じてもらえたらと思って作りました。神さまの存在や、祈りの文化が、これからも忘れられないように……今日は、この拝所カルタができあがったことを、神さまにご報告したくて、うかがいました」
女性は、差し出された拝所カルタにそっと視線を落とした。
しばらく何も言わず、それを両手で包むように受け取ると、そのまま静かに目を閉じた。
ふと、浜から風が吹いてきた。
木々の葉がさらさらと鳴り、私たちの衣の裾を揺らす。
「これは……よく祈られた拝所カルタですね」
やがて、女性はゆっくりと目を開け、しずかさんに向かって穏やかに語りかけた。
「ひとつひとつに、神さまの気配が宿っています。この島に伝わる御名や御所作に、よく心を傾けて作られたことが、よく伝わってきます」
彼女は、数枚のカルタをそっと手に取り、太陽の光にかざすようにして眺めた。
その目は、目に見えないものを読み取るように、深く澄んでいる。
しばらくそうしていたのち、女性は優しく微笑みながら、拝所カルタを元の包みに丁寧に戻し、しずかさんにそっと返した。
そして、ゆっくりと目を閉じ、ひと呼吸おくようにしてから、顔を御嶽の方へと向けた。
やがて再び私たちの方へ向き直ると、深く静かに頷いて、こう言った。
「そうですか。それならば――神さまに、直接お伝えください。今日は…『うふじゅらさぬ門(美しい門)』が開かれているようです」
その言葉に、私のまわりで小さなどよめきが起こった。
「ただし、中に入れるのは、お二人だけにしてください」
そう言って、女性は私たち一人ひとりの顔を、確かめるようにしっかりと見つめた。
「この御嶽は、ただ見るためではなく、聴くための場所です。言葉より、心で伝えてくださいね」
女性の声は、風のように静かで、それでいて胸の奥までまっすぐ届いた。
私は小さくうなずいた。言葉には出さなかったが、心の中で静かに二人に伝えた。
――よかったね。二人で、私たちみんなの気持ちを、ちゃんと伝えてきて。
言葉にしなくても、想いは伝わる気がした。この場にいるすべての人が、きっと同じ気持ちだったと思う。誰も何も言わない。ただ静かに、その瞬間を見守っていた。
その空気を感じ取ったのか、なっちゃんとしずかさんが、ゆっくりと前に進みはじめた。
足音が、砂や草をやさしく踏む音を立てる。風が一瞬止まり、世界が息をひそめたような、深い静寂が広がった。
私は耳を澄ませた。鳥の声もしない。ただ、木々がかすかに揺れる音と、遠くで微かに波が引く気配だけがある。その中を、ふたりはゆっくりと歩いていく。
彼女たちは、慎重に、丁寧に、一歩一歩を確かめるように進んでいく。
やがて、二人の動きが止まり、衣擦れの音とともに、そっと腰を下ろした。
しずかさんは、風呂敷を広げ、拝所カルタをそっと前に置いた。
私たちもその場にしゃがみ、静かに、目を閉じた。
ひとつ深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
風よ――どうか、止まってください。
波の音も、遠ざかってください。
この世のすべての音よ――いまは、眠ってください。
余計な想いを手放し、外のざわめきをほどく。
この場所と、ただひとつになるために。
それは祈るというより、聴くこと。――静けさのなかにある、かすかな気配を、心で受けとることだった。
――心を込めて、拝所カルタを作らせていただきました。
――この祈りと想いが、未来の子どもたちへと、静かに受け継がれていきますように。
私は、声には出さず、ただ心の奥深くから語りかけるように祈った。
言葉にはならないその願いが、やさしい風に溶け込み、空気のなかに静かに染み渡っていった。
そよそよと吹く風が、髪をそっと撫でた。
その風は、まるで「よく来たね」とやさしくささやいてくれているように。
静かに目を閉じていると、言葉や形を超えた何かが、すうっと胸の奥に流れ込んできた。
見えない存在が、たしかに私たちの想いを受け取ってくれている――そんな確信が、ゆっくりと心に満ちていった。
やがて、風の気配がふと変わったような気がして、私はそっと目を開けた。
あたりの光が、やわらかくなっている。
それがまるで、ひとつの合図のように感じて、私たちは無言のまま、ゆっくりと立ち上がった。
拝所に向かって、私たちはほぼ同時に深く頭を下げていた。
そして、何も語らずに戻ってきた二人を、私たちは静かに迎え入れた。
その顔には、祈りと報告を終えた安堵が漂い、言葉にしなくても、その満ち足りた心持ちが伝わってくる。
鳥の声も、風の音も、どこか遠くから届くように感じられる。まるで、世界全体が私たちの祈りを受け入れ、深く静かな呼吸をしているかのように。
私たちはその余韻に包まれ、しばし言葉を交わすことなく、ただそこに立ち尽くしていた。
なっちゃんは静かに祠に一礼し、それから私たちの方を向いて、やさしく言った。
「伝えてきました。……きっと、届いたと思います」
「ことばは少ししか浮かばなかったけど、みんなの心も全部、込めました」
その声に震えはなかった。ただ、胸の奥からそっと湧き上がった温もりが、そのまま言葉になっていた。
隣にいたしずかさんも、小さく頷き、穏やかな声で言葉を添えた。
「神様に、『ありがとう』と伝えました。それが、このカルタに込めた一番の願いでもあるから」
私は目尻をぬぐいながら、静かに言った。
「……よかった。本当に、よかった。選ばれた人しか入れない、あの神聖な場所に……二人が行ってくれて。ありがとう」
すると、まわりからもぽつりぽつりと声があがった。
「なっちゃん、ありがとう」
「しずか弁護士、よかったね」
あの静かな祈りの時間は、きっと、私たち一人ひとりの心に、かけがえのない何かを残してくれた。
言葉ではうまく言い表せないけれど、たしかに、何かがそこにあった。
それは、きっと「つながり」だったのかもしれない。目に見えないけれど、感じることのできる――やさしくて、強いもの。
そのときだった。先ほどの女性が、ふたたび静かに姿を現した。
御嶽の方からではなく、いつのまにか、私たちの輪の中に歩み寄っていた。
「伝わりましたよ。あなたたちの思いも、感謝も」
私たちは、ふたたび深く頭を下げた。
女性は周囲をゆっくりと見渡しながら、私たち全員にやさしい笑みを浮かべ、語りかけた。
「伝えるというのは、大きな声を上げることではありません。ただ、心を澄ませて、耳をすますこと。あなたたちは、それができた。
だから、今日はうふじゅらさぬ門が開かれたのです」
「この島にはね、願いばかりを持ち込もうとする人が多いです」
「あなたたちは、この島に願いではなく感謝を持ってきた。だから、この島も、あなたたちを受け入れたのです。……どうか忘れないでください。この島は、祈りを受け取る場所ではなく、返す場所なのです」
その言葉を聞いて、私は小さく頷いた。
沈黙が場を包む。けれどそれは、重苦しいものではなかった。
やさしく、あたたかく、確かに私たちのあいだに流れていた。
やがて女性は、静かに踵を返し、森の奥へと姿を消していった。
誰もがしばらくその場を動けずにいた。
なっちゃんが、ふと私の方を向いてつぶやいた。
「ねえ、良寛……人って、目に見えないものを、こんなふうにちゃんと受け取れるんだね」
私はゆっくりと頷いた。
目の前にある景色は見えなくても、私には、いま、この場に満ちている何かが、はっきりと感じられていた。
私は、みんなにしっかりと伝わるよう、心を込めて言葉を紡いだ。
「目に見えないものこそ、本当は一番大切なのかもしれない。祈りも、想いも、記憶も……そして、つながりも」
少し間をとって、言葉を選びながら続けた。
「感じる力は、きっと誰の中にもあります。でもね、それを信じるには、ほんの少しの勇気がひつようです。なっちゃんは、そのことをちゃんと知っている。……そして、今日ここに集まったみんなも、その勇気に向かって、確かに一歩を踏み出したんだと、僕は思うよ」
しばらくのあいだ、沈黙が場を包んでいた。
けれど、その沈黙には重さはなく、むしろ、あたたかくて、やわらかい――心そのものが静かに呼吸しているような、そんな穏やかな時間だった。
私は耳を澄ませるように、音のない空気にそっと心を預ける。
風が木の葉をやさしく揺らす音。
羽音ひとつ、静かに飛び立つ鳥の気配。
そして誰かの頬を流れる、ひとすじの涙の気配。
やがて、なっちゃんの気配がふわりと変わった。
きっと今、空を見上げているのだろう。
葉のあいだからこぼれるやわらかな光を、その瞳で追っているのかもしれない。
私はそっと息を吸い込み、その空気を胸いっぱいに受けとめながら、心の奥で静かに語りかけた。
ーーありがとう、久高。ありがとう、フボー御嶽。
気がつけば、私は自然と微笑んでいた。
「ほら、島がほほえんでるよ。――よく来たねって」
私の言葉に、なっちゃんも、ふっと笑みを返してくれた。
その目元には、いつのまにか涙がにじんでいて、光の中できらきらと輝いている。
そのとき、しずかさんが目をうるませながら、笑い混じりに言った。
「なっちゃん、泣きすぎ~。ほら、こっちまでうるうるしてきたじゃない」
その一言が場の空気をやわらげたのか、あちこちからくすくすと笑い声がこぼれ――やがて、しんとした涙がぽろぽろと、またひとつ、またひとつ。
誰かが鼻をすする音がして、それがまた別の涙を誘う。
笑いながら泣いて、泣きながら笑って――
そんなふうにして、私たちは、この島で分かち合った時間を、静かに、あたたかく胸に刻んでいった。
空も、海も、風も、木々も、すべてがこの瞬間を祝福している。
私たちは、もう一度ゆっくりと島に頭を下げた。
それぞれの胸に、祈りと、やわらかな光を抱いたまま。
ーーこの日を、私たちはきっと忘れない。
たとえ時が流れても、このつながりだけは、目に見えなくても、永遠に消えることはないと、私は信じている。
あとがき
目には見えなくても、たしかにそこにあるもの――
風のささやき、大地のぬくもり、波間にひそむ静かな気配。
木々のざわめきにまじって届く、遠い祈りの声。
それらはふいに訪れ、耳を澄ませたとき、そっと心に触れてくる。
なっちゃんは、そうしたものに気づく力を持っていた。
目に見える世界の奥にある、もうひとつの静けさ。
音ではない響き、言葉ではない語りかけ。そうした「気配」の言葉を、なっちゃんは受け取り、そして、私たちにも手渡してくれた。
拝所は、ただの祈りの場所ではない。
そこは、目に見えないものと私たちをつなぐ、静かな扉。
時にそれは忘れ去られそうになり、時代の波にさらわれそうになるけれど、誰かの祈りがその扉を支え、誰かの想いがその場を守ってきた。
かつて、琉球の人びとは、天と地、海と森、精霊「しじま(沖縄ではシジメーとも呼ばれる)」と共に生きていた。
祈ることは、願うことではなく、耳を澄ませ、受け取ることだった。
その静かな祈りの風景は、長い年月をかけて島にしみこみ、今も風の匂いや、潮の満ち引き、鳥の羽ばたきのなかに息づいている。
この小説はフィクションです。
けれど、ここに描かれた拝所や人びとの姿、祈りのかたちは、かつて、そして今も、この島に生きる多くの人々の中に、たしかに存在してきたものです。
わたしたちは今、過去と未来のはざまに立っています。
文明の光がまぶしくなるほどに、影もまた濃くなり、祈りの声や見えない世界の気配は、時として聞こえにくくなってしまう。
だからこそ、私たちにはその静かな祈りの場所を、過去のものとして遠ざけるのではなく、未来へと手渡していく責任があるのだと思う。
なっちゃんがそっと語ってくれた拝所の物語は、見えないものを信じる力と、見守りつづける心の美しさを、私たちに教えてくれました。
そして私は今、胸の奥で静かに確信しています。
拝所は、これからもずっと、時が流れても、暮らしが変わっても、決して変わることなく、私たち一人ひとりの心の奥に、静かに息づきつづけるのだと。
耳を澄ませば、きっとまた、あの声が聴こえてくるでしょう。
風のなかに、木漏れ日のなかに、そっと寄り添うようにして。