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第9章:魔法の音色~キラキラ星変奏曲~

 リアンは思い出の中から現実に戻り、あの日からのピアノへの葛藤が、今、ノエルという光によって少しずつ溶けていくのを感じていた。


  カップの縁に指を滑らせる。あの日から今日まで、音楽と彼自身の間には深い溝があった。でも今、何かが変わりつつあることを感じている。


 淡い紫色の夕暮れが街を包み込む頃、ノエルは微かな緊張を抱えながら携帯を手に取る。昨夜、夢の中で魔法のスープの予約が完了していた。再びリアンを誘おうと思うと、指先がわずかに震える。深呼吸して、メッセージを送信。


「お疲れさま、リアン。次の定休日に、また一緒に黒い森へスープを飲みに行きませんか?」


  すぐに既読の表示が点り、数秒で返信が届く。


「ノエルさん!ぜひ行きたいです。実は、あの日のスープが忘れられなくて……楽しみにしています」


 その返事に、ノエルの胸は高鳴る。彼もまた、あの不思議な体験を心に留めていたのだ。


「じゃあ、次の月曜の午前10時にロープウェイ乗り場で待ち合わせしよう」


「はい!楽しみにしています!」


 ノエルの心は落ち着かない。喜びと戸惑いと期待が交錯していた。窓の外を見つめながら、リアンとの再会に胸を膨らませる。


 ✲      ✲      ✲


 定休日、黒い森へと続くロープウェイの中。


 ノエルとリアンは並んで座り、窓の外に広がる風景を眺めていた。ロープウェイが揺れた拍子に、リアンの肩がノエルに触れる。その一瞬の温もりに、ノエルの鼓動が早まっていく。


「ノエルさん、昔からスープ屋さんで働いていたんですか?」


「うん、エリサさんのお店で五年位かな。二年前までは、シナモンロールをブックカフェによく配達していたんだ。リアンの大学の近くの。そこで……」


 リアンはその言葉に、微かに瞳を揺らす。


 ノエルの心臓は早鐘を打つ。言うべきか迷った末に、彼は決意を固める。


「そこで、とても素敵なピアノを聴いたんだ。ワルツ10番を弾いていた、君みたいな若い学生がいて……」


 リアンは一瞬黙り込み、そっとノエルに視線を向けた。その瞳には、懐かしさと何かを確かめようとする光が宿っている。


「そんなに忘れられないんですか?その人のワルツ10番……」


「うん、信じられないくらい心に響いちゃって……二年経っても忘れられないくらい……あの音色に出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている……」


 二人の手が座席の上で、無意識のうちに数センチの距離まで近づいていく。そのとき、ロープウェイの到着を告げるベルが鳴り、会話は中断される。しかし二人の間には、目には見えない、確かな絆が静かに強まっていた。


 ✲      ✲      ✲


 小屋に到着して、扉を開けると、七色に輝くスープの湯気が二人を出迎える。その香りは前回より深く、まるで二人の心を見透かすように漂っていた。暖炉の火が揺らめき、その光が壁に映る二人の影を優しく揺らす。


「おかえりなさい、二人とも」


 まるで昔からの知り合いのように、魔女は二人を迎え入れる。その声には、何かを見通すような優しさと、かすかな笑みが混ざっていた。まるで遠い昔から二人の再会を待っていたかのように。


 窓から差し込む午後の光が、スープの湯気に反射して虹色の光粒子となって舞い、二人の周りを静かに舞う。リアンの肩がノエルに触れる度、その光がより鮮やかに輝いて見えた。


 ノエルの耳元で、魔女はそっと囁く。


「2回目のスープね。覚悟はできてる?」


 ノエルは少し緊張しながらも頷いた。リアンは静かだが、その瞳は何かを求めるように輝いている。


 魔女は微笑み、スープを淡い青のカップに注ぐ。立ち昇る湯気は、二人の交わりゆく心のように、ゆらゆらと空気中に溶けていく。


「このスープは、心の奥底を映し出す鏡のようなもの。あなたたちが求める真実を、きっと教えてくれるよ」


 スープの香りが心の奥に眠る記憶を呼び覚ますように、ノエルはそっと目を閉じた。スープを一口飲むと、再び不思議な感覚に包まれる。目の前の風景が変容し、今度は小さな音楽室の中へと導かれていく。


 そこでは若きリアンがピアノに向かい、ワルツ10番を奏でている。しかし、その表情には不安と苦しみが浮かんでいた。


「君のピアノには心がない」


 厳しい声に、リアンが縮こまる姿を目にして、ノエルの胸は痛みに満ちる。思わず手を伸ばしたくなる衝動を抑えながら見守っていた。


 場面は変わり、ノエルがブックカフェを訪れ、リアンのピアノに魅了される光景が広がる。窓辺に佇むピアノから流れる音色に心を奪われ、足を止めるノエル。


「あれは何という曲なんですか?」


「ワルツの10番です。ショパンが19歳の時に作った曲なんです。僕も19歳なので」


 答えるリアンの微笑みには、言葉にならない何かが潜んでいた。当時のリアンは髪が長く、頬にかかる前髪の隙間から覗く瞳が印象的だ。


 ノエルは確信めいた思いに胸を震わせる。あの時のピアニストは、間違いなくリアンだったのかもしれない。あの時感じた心の揺らぎ、音楽に魅了された感覚が、今の気持ちへと繋がっている。けれど、まだ確信できない……。


 スープの幻影から現実へ戻ると、リアンは静かな眼差しでノエルを見つめていた。


「ノエルさん……何か見えましたか?」


 ノエルは少し躊躇いながらも、言葉を紡ぎ始める。


「うん……実は、二年前のブックカフェのピアニストの姿が見えたんだ……さっき話したからかな……」


 リアンは小さく息を呑み、その瞳に懐かしさの色が広がっていく。


「ノエルさん……本当に彼の音が好きなんですね……」


 二人は言葉にできない想いを胸に秘めながらも、まだそれを口にする勇気が持てないでいる。しかし、その日の帰り道、リアンがノエルの手をそっと握った時、二人の間に流れる温もりは、もはや偶然とは呼べない確かな絆の始まりを感じた。


 スープの余韻に浸りながら黒い森を歩いていると、不思議な公園が霧の中から現れる。木々の囁きに導かれるように感じて、木漏れ日に誘われるまま、公園の奥へと足を進めた。そこには小さな小屋があり、風で開いた扉の中へ二人は入っていく。


 そこには古いグランドピアノが一台。まるで二人を待っていたかのように佇んでいた。リアンは静かにピアノのカバーをめくり、蓋を開け、数音鳴らす。


「調律してありますね……弾いてみましょうか」


 リアンの指が鍵盤に触れた瞬間、懐かしい旋律が空気を震わせる。単純な曲調なのに、リアンの指先から紡ぎ出される音色は、星空のように神秘的な輝きを帯びていた。


「わぁ。キラキラ星だ」


 ノエルの声には、子供のような純粋な喜びが混ざっている。リアンは演奏を続けながら、柔らかな笑顔でノエルを見上げた。その目には、何か特別な光が宿っている。


「一緒に弾きませんか?ノエルさん」


 リアンの声は、まるで愛する人を誘うかのように優しく、暖かい。


「え?で、でも……、僕はあまり弾けないし、邪魔じゃない?」


「そんな事ないですよ。簡単なところだけでいいから!いいでしょ?隣に座って下さい」


 そう言ってリアンは椅子の半分を空け、ノエルを座らせる。


「ノエルさん、メロディーだけ弾いてみて!」


 ノエルは恐る恐るメロディーを奏で始めた。二人の指が静かにピアノの鍵盤を撫で、音色が重なり、空間が柔らかな光に包まれていく。


「昔、よく母と弾いていた思い出の曲なんです。初めて教えて貰った連弾の曲で……だから今日はノエルさんと弾けて嬉しいです」


「思い出の曲なんだね」


 リアンは、穏やかな微笑みを浮かべる。二人の音色が静かに、優しく交わり、まるで言葉に出来ない会話のように。リアンの指が鍵盤を弾くたび、ノエルの指と触れ合う。その度にノエルの心臓は早鐘を打つ。


「ここ、ここを弾いていて下さい」


 リアンはノエルの指を優しく誘導する。二人の体温が重なり、音色を肌で感じ、会話となっていく。


「うん。この曲、途中からすごく難しくなるよね。リアン、聴かせてくれない?」


「はい。弾いてみますね」


 リアンの指が紡ぐ変奏曲は、単純な旋律から始まり、次第に複雑に、時に激しく時に優しく変化していった。まるで彼自身の心の遍歴を語るように。


 リアンの変奏曲を聞いたノエルは、感動に言葉を失う。ファジル・サイのような独創的なジャズアレンジ。胸のトキメキを止める事は出来ない。二人の距離は近すぎて小さな吐息を感じるほど。音楽は二人の感情を紡ぐ糸となり、音色は二人の距離を縮める。まるで魔法のような、儚くて熱い瞬間だった。


 小屋を後にした二人、別れ際にリアンは静かに告げる。


「次は...俺が弾きます。ワルツ10番を。ノエルさんのために。聴いてもらえますか?」


「えっ。いいの?楽しみにしてるね!」


 この約束は、ノエルの心に星のように輝いていた。



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