第8章:ワルツの記憶〜二年前の出会い〜
閉店間際のブックカフェ。21歳のノエルはシナモンロールの配達で訪れていた。古びたグランドピアノを弾くのは19歳のリアン。長い黒髪が瞳を隠し、華奢な姿から静かな魅力が溢れている。顔立ちは髪に隠れてはっきりとは見えないが、美しい青年であることは一目でわかった。
ノエルが初めてリアンのピアノを聴いたとき、その音色に心を奪われる。深みを増す旋律が内側に静かな嵐を呼び、リアンの指から溢れる切なく澄んだ音が胸を締め付けた。曲の終盤、無数の氷のツララの砕け散るような音色が響き、感傷的な美しさにノエルは今まで経験した事のない感情に支配される。
(この音は何なんだろう……こんな切ない音色……胸が締め付けられる……どこか懐かしいのに新しい、ロマンチックな音……何かが心の深いところに触れている……)
リアンのピアノは、言葉を介さずに、そっとノエルの胸の奥深くに届いていた。
(こんな若い人がこの音を奏でているなんて……驚くほど美しい……)
最後の一音が弾き終えられると、ツララは粉々に砕け、ダイヤモンドのようにきらめきながら舞い散り、やがて消えていく。
閉店のアナウンスが流れ、リアンは女性客たちに囲まれながらも、ピアノから離れた。ノエルは声をかけたい衝動に駆られつつ、勇気が出せない。彼に近づくことがノエルにとってどれだけ大きな一歩かを、胸の鼓動が教えてくれた。
エリサが忙しそうにノエルを振り返り、言う。
「この封筒をあの子に渡してくれる?」
ノエルは封筒を受け取り、カウンターから出て、緊張しながらリアンへと近づく。
「これ、エリサさんからの今日のお給料です。お疲れ様でした!演奏、とても素晴らしかったです!感動しちゃいました…」
(すごく緊張したけど、ちゃんと感想伝えられた……!)
リアンはノエルを見つめ、柔らかな微笑みを浮かべながら封筒を受け取った。
「ありがとうございます。初めてですか?僕のピアノを聴いてくれたのは」
「はい!今日が初めてです。すごく綺麗で、切なくて……ロマンチックな曲でした。あれは何という曲なんですか?」
「あの曲はワルツの10番です。ショパンが19歳の時に作った曲なんです。僕も19歳なので、何か縁を感じて弾いてみました。感傷的なワルツで、聴いていると切なくなりますよね」
「胸が苦しいくらい……でも、その音色が好きです、とても……お若いのにすごいですね……」
「気に入っていただけて良かったです」
「また聴くことはできますか?」
「はい。夜、ここでたまに弾くので、また聴きに来てください」
そう言ってリアンは微笑み、静かに会釈して店を後にする。取り残されたノエルの胸には、いつまでも消えない音色の余韻が残っていた。
その後、ノエルは配達でブックカフェを訪れるが、リアンとは再会できない。学生が交代でピアノを弾きに来るなか、リアンが演奏する日に限って、他のスタッフが配達を担当していたり、すれ違いの日々が続く。会いたくても会えない時間が流れていった。
次第にノエルは気づく。リアンのピアノは、他の学生たちとは明らかに違っていた。あの日の音色の衝撃が、頭から離れなかったのだ。
(名前も知らない彼のピアノ……もう聴けないのかな……もう会えないのかな?エリサさんに聞いても、学生が多すぎてどの子かわからないって……彼の内なる悲しみや葛藤が音に溢れ出ていたあの曲……思い出すたびに胸が締め付けられる……)
そうして二年の月日が流れ、現在に至る。ノエルは「あのピアニストはリアンなのでは?」という思いを抱きながら日々を過ごし、リアンもまた「あのピアニストは自分だ」と言い出せないままでいた。