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第7章:音のない世界からの旅立ち(リアン視点)

 黒い森から帰った夜、リアンは一人、部屋の静寂に包まれていた。眠りにつこうとしていたその時、ノエルの言葉がふと脳裏によみがえる。


「いつかリアンのピアノ、聞いてみたいな」


 無邪気に紡がれたその一言が、氷の要塞に閉じ込められた彼の心を、少しずつ溶かしていく。


「心か……心は何処にあるんだろう……」


 瞼を閉じれば、ノエルの微笑む顔が浮かぶ。その笑顔が、長い間眠っていた何かを、彼の内側でそっと揺り起こし始めている。


 二年前、リアンの音楽人生を変えた出来事があった。冷たい空気に満ちた音楽室。古びた譜面台。そしてポーランド人教授の乾いた声が、今も鮮明に彼の記憶に刻まれている。


「君のピアノには心がない」


 その言葉は凍てつく刃となって、リアンの胸に突き刺さる。教授の視線は冷静で、同時に容赦なかった。


「指使いは完璧だ。ミスタッチもない。けれど、ただ音を並べているだけだよ。音楽は技術じゃない。心が宿らなければ、それはただの雑音だ」


 答えられないリアン。鍵盤を見つめる瞳に映るのは、自分自身の空虚な姿だけ。自分の音が他者にどう聞こえているのか想像するたび、指先に鉛が詰まったような重さを感じる。


「上手に弾こうとすることに囚われすぎている。もっと自分の心を探しなさい。それが君の課題だ」


 教授は淡々とそう告げると、沈黙だけが音楽室を満たす。窓の外には、太陽が昇らない、白夜のような灰色の空が広がっていた。


 その日以来、ピアノの前に座ると、教授の言葉が耳の奥で反響する。指を鍵盤に置こうとすると、その重みで押しつぶされそうになり、どれだけ練習しても、そこに「心」があるのか自分でも分からない。


 次第にリアンは人に音を聴かれることへの恐怖を抱き、人前での演奏を避けるようになり、最後には完全に沈黙の世界へ自分から入った。


 リアンは暗闇でピアノに触れ、震える指で一音を鳴らしてみる。音は冷たく響き、教授の言葉が耳に蘇るたび、手が重く沈む。


 上手く弾いているつもりでも、その音は誰かの心に届くのだろうか?暗闇に導かれる疑問の数々。彼にとってピアノは、もはや音を奏でる道具ではなく、自分の不完全さを映し出す鏡でしかなかった。


 ✲      ✲      ✲ 


 翌日、息が白くなるほどの冬の朝。リアンは教授に呼び出され、レッスン室へと歩いて向かう。街路樹の枝に張りついた霜が、朝日に輝いている。


(昨日は不思議な一日だったな……)

(ノエルさんが魔法のスープを飲ませてくれるなんて……まだ信じられない……)

(あのスープの味は噂通り不思議で、心が軽くなって気分が良くなった)

(モヤモヤした霧が晴れて、ノエルさんとの距離も近づいたような……)


 リアンの心に小さな引っかかりがあった。ノエルは今の自分を好きなのか、それとも二年前のピアニストへの想いを重ねているだけなのか。


 レッスン室に入り、教授の到着を待つ間、リアンはピアノに向かう。最近はレッスンを避けていたから、久しぶりの鍵盤との対面だ。心を見つけられたのかは自信はない。


 けれど、昨日の魔法のスープのおかげか、指先が軽やかに動き、鍵盤から流れる音色が心地よく響く。ノエルの笑顔が脳裏に浮かんだ瞬間、音に温もりが生まれた。


 教授が静かにドアを開け、リアンの演奏に耳を傾けながら、驚きの表情を浮かべる。


「リアン、今日はいつもと違う音が生まれているな」


 教授の言葉に、内心では動揺しながらも、リアンは目を閉じたまま演奏を続けた。教授は一歩近づいて続ける。


「今日の演奏には、なんというか、情熱が宿っている。力強さの中に、抑えきれない感情が波のように揺れているようだ。それが音に命を吹き込んでいる……恋でもしているのか?」


 リアンは一瞬、鍵盤を踏み外しそうになるが、すぐに平静を取り戻す。教授の言葉に頬が熱くなるのを感じながら、心の中でノエルの微笑みが浮かび、その温もりが無意識のうちに指先から音へと流れ込む。教授は静かに微笑み、リアンに言う。


「素晴らしい音色だ。その感情をもっと大切にすれば、君はきっと素晴らしいピアニストになる。君の心は、見つかったようだな」


 リアンは顔を赤らめつつも、その言葉がノエルへの気持ちと重なり、胸の奥で何かが解き放たれていくのを感じる。演奏を続ける指先が微かに震えるなか、ピアノの音が深く、甘く、部屋中を満たしていく。窓からは冬とは思えない鮮やかな光が差し込み、青く澄んだ空色が広がっていた。


 レッスンはそれから一時間ほど続き、教授はリアンの演奏に満足そうに頷きながら、いくつかの細かな助言を与える。「今日の発見を忘れないように」という言葉で終わったレッスンは、久しぶりに充実した時間だった。


 教授との時間が終わり、リアンはカフェに腰掛け、熱いチリ入りのチョコレートを手に、過ぎ去った日々に思いを巡らせる。ノエルが言っていた「ブックカフェのピアニスト」の話を思い出していた。


(あの日の出会いから、もう二年か……)


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