第5章:黒い森と七色のスープの誘い
スープ専門店フィーカのカウンター越しに、ノエルは気まずそうに視線を泳がせ、落ち着かない。
リアンの小悪魔的な笑みが、彼の心を激しく揺さぶる。掴みどころのない彼の微笑みは、まるで霧の向こうから見える光のよう。
「ノエルさん、何か悩んでますか?」
ふいに備品補充中のリアンが声をかけた。その声は低く優しく、ノエルの胸の奥をざわつかせる。
「あ、ううん!なんでもないよ。ただ……その……リアン、実はちょっとお願いがあるんだ……」
「お願いですか?」
リアンが首をかしげた。その仕草に、ノエルは言葉を飲み込む。彼の首筋に落ちる髪の毛が、淡い光をまとう。
(どうしよう。こんなこと誘うなんて変かな……)
けれど、決めたのは自分だ。勇気を出さないと、何も始まらない。冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、ノエルは決意する。
「あのね、リアン。次の定休日の月曜に、時間があったら……一緒にスープを飲みに行きませんか?」
思い切って口にしたその言葉に、ノエルの心臓は激しい鼓動を打ち鳴らす。カウンター越しのリアンが驚いたように瞳を見開く。その瞳には、星が映っているかのような輝きがあった。
「スープ、ですか?」
リアンの声に冷や汗が背中を流れる。
「えっと、その……黒い森の人気店の……お店で出す新しい味の参考に……なるかも、しれないし……」
ノエルは言い訳じみた言葉を口にし、視線が泳ぐ。
リアンは春の木漏れ日のような優しい光を瞳に宿した。
「なるほど。勉強のためってことですね!」
「う、うん、そう!」
ようやくほっと息をついたノエルだったが、リアンの視線がふと鋭くなり、その熱い眼差しに心の中が見透かされているような気がして、挙動不審になっている。言葉にできない何かが、二人の間を静かに漂う。
リアンはそんなノエルを注意深く観察した。ぎこちなく視線を逸らし、頬がうっすらと赤くなっている。言い訳じみた言葉を重ねる様子が、余計に真実を物語っていた。リアンの瞳には、何かを見抜いたような、静かな確信の光が宿っている。
(もしかして、これって……あれだよな?噂の魔法のスープ……ノエルさんって……)
リアンは小さく息を吐く。
(やっぱり俺の事好きなんだ……この慌てよう……俺のこと、凄く意識してるよな……?)
そして、ふっと口角を上げると、わざと軽い調子で言った。
「はい。いいですよ。行きましょう。デートみたいですね!」
「――えっ!?うん……ありがとう……」
ノエルの顔が一気に朝焼けのように赤く染まる。リアンの言葉に、心臓が小鳥のように羽ばたき、飛び出しそうになっていた。慌てて口をパクパクさせるノエルを見て、リアンはいたずらっぽく笑う。その笑顔に、ノエルは吸い込まれていく。
「楽しみですね!」
リアンの微笑みを見て、ノエルは顔を赤らめながらも、ほっと胸をなでおろした。けれど彼は気づかない。リアンのその瞳が、秘密の暗号を解読するようにじっとノエルを見つめていたことを。その視線の奥には、求めるような、そして確かめるような何かが宿っていた。
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約束の月曜日。黒い森の魔女のお店へロープウェイで向かう途中、空気がピンと張り詰める。霧に包まれた景色を眺めながらリアンが「不思議な場所ですね」と呟く。ノエルは彼の美しい横顔に視線を送り、胸が締めつけられる感覚に浸っていた。
ロープウェイを降り、森の中を進むと、どこか懐かしくも奇妙な世界。足元にはふわりとした苔、まばゆい星のようにキノコが点々と光り、冷たい霧が肌に触れるたび、現実と夢の狭間にいるような心地が広がる。
やがて、小さな小屋が霧の中から姿を現した。煙突からは淡い虹色の煙が漂い、扉には古びた紋様が刻まれている。ノエルが小さく息を呑む。まるで童話の中に迷い込んだかのようだ。
「何だろう、ここ……夢の続きみたいだ……」
誘われるように扉を押すと、ノエルは中へと足を踏み入れた。リアンもその後に続く。彼らの靴音が、静かな森の中に小さなメロディを奏でる。
小屋に入ると、温かな空気と共に魔女の優しい微笑みが二人を迎えた。
「いらっしゃい、ノエル」
部屋の中央では、七色に輝くスープが大鍋でぐつぐつと煮立っている。黒いローブの魔女は、深い琥珀色の瞳でノエルを見つめ、その瞳には多くの秘密が宿っているようだ。
「魔女のお婆さん、今日は宜しくお願いします」
「よく来たね。そして……新しいお客さん」
と魔女は二人を見抜くように交互に見つめた。
大鍋の中では、七色に輝くスープがゆっくりとかき混ぜられている。その色は絶えず変化し、見る者の心を吸い込むような幻想的な輝きを放つ。部屋の中は、パロサントの香りが漂い、二人の気持ちを落ち着かせる。
「どうぞ、お座りなさい。このスープは、あなたたちが必要としているものを教えてくれるよ」
魔女が示す椅子に座ると、小さな陶器のボウルが置かれた。スパイスとハーブの甘くて複雑な香りが二人の緊張をほぐしていく。
「さあ、飲んでごらんなさい」
ノエルは木のスプーンを手に取り、そっとスープをすくう。その瞬間、スープからふわりと香るスパイシーな香りが鼻をくすぐる。ノエルはゆっくり一口含んだ。
――その瞬間、景色が一変した。
目の前には、氷に覆われた湖が広がっている。リアンが微笑みながら、彼に手を差し伸べた。冷たい風が頬を撫でるが、心には温かさが広がっていく。まるで真冬に感じる春の予感のような、不思議な感覚。
「ノエルさん、どうしてそんなに俺を避けるんですか?」
リアンの声が耳に響く。その声は風のように運ばれてきた。
「またか……避けてなんかない……!」
答えた瞬間、湖の氷が音を立てて割れ、水面からは激しく水しぶきがあがる。ノエルは慌ててリアンの手を掴むが、その手が霧のように消えていく。指の間をすり抜けていく温もりに、言いようのない喪失感が胸を満たす。
「リアン!」
叫ぶと同時に、ノエルは現実の小屋へと引き戻される。
目の前では、リアンがスープを飲み終えたところだった。彼の表情が一瞬凝固し、やがてふわりと微笑む。その微笑みには、何か新しい発見をしたかのように輝いている。
「なんだか、夢を見ているみたいでした。凄く不思議な味だけど心が満たされる味です。ノエルさんはどうですか?」
リアンの言葉に、ノエルは慌てて首を振り、頭の中の混乱をごまかす。
「僕も……。でも、ただのスープじゃないような気がする。不思議だ……」
魔女が静かに頷く。その表情は、何かを見透かしていた。
「このスープは、あなた達の心にある『本当の想い』を映し出すもの。それをどう受け止めるかは、あなた達次第だよ」
リアンがちらりとノエルを見つめる。その視線には、以前にはなかった確信の色が浮かんでいた。まるで霧の向こうに何かを見つけたかのような、澄んだ眼差し。
「『本当の想い』か……」
リアンが呟いた瞬間、小屋の扉が風に押されるように開き、冷たい霧が舞い込んだ。魔女が微笑みながら言葉を続ける。その声は、風に乗って二人の心に染み込んでいく。
「さあ、お行きなさい。忘れないでね、この森で得たものはいつか現実の中で形になるからね」
ふたりは静かに頷き、立ち上がる。その動作には、何か共通の理解が宿っているかのようだった。