第4章:虹色の霧と魔女の囁き
夜になり、帰宅したノエルは疲れ果ててベッドに倒れ込むと、あっという間に夢の世界へと誘われる。
そこには、どこか懐かしい光景が広がっていた。柔らかな光に包まれ、ふわりと浮かんでいるような感覚。それが現実なのか、夢の中なのか、もう分からない。
ノエルは気づけば深い森の中を1人で歩いている。木々の間から差し込む月光が幻想的だ。ただ、どこか懐かしい香りが漂っている。息を吐けば冷たい霧が唇を包む。森の奥深くから響くフクロウの鳴き声が耳に届く。
「ここは……どこ?」
次の瞬間、氷の湖の上に立っているノエル。遠くからピアノの音が聞こえて、突然、目の前にリアンが現れた。音もなく、まるで空気そのものが形を取ったように、ふっとそこに立っている。
彼の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、それでもこちらに向けられると、心の中に温かさが広がっていく。彼はどこか現実よりも大人びた雰囲気で、声が妙に近い。
「ノエルさん、どうしてそんなに、俺を避けるんですか?」
「避けてないよ……!」
と答えると、リアンが微笑みながら手を伸ばしてくる。その手がノエルの頬に触れると、思わず心臓が高鳴った。
リアンが顔を近づけ、耳元で囁き、吐息が耳にかかる。
「じゃあ、もっと近づいてもいいですか?」
リアルすぎる感触にノエルは息を飲む。その瞬間、夢と現実の境界が揺らぎ、心臓の鼓動が加速するのを感じた。
目の前の風景がふっと変わり、深い霧の中へと誘われる。ぼんやりと周囲を見渡すと、リアンはいなくなっていて、遠くの小さな光が揺らめいている方へ引き寄せられていた。それは木々に囲まれた一軒の小屋。煙突からは虹色の煙が静かに立ち上っている。
扉の前に立つと、不思議な暖かさが体を包む。ノエルは心を引き寄せられるように、そっと扉を押す。
中に入ると、小屋の中は思いのほか広く、暖かな光で満たされていた。天井から吊るされたハーブの束が風に揺れ、棚には小瓶に詰められた薬草や宝石のような粉末が整然と並んでいる。
中央には、巨大な鍋が煮え立っていた。鍋の中の液体は七色に輝き、まるで生きているかのように色が絶えず変化している。
その鍋をかき混ぜていたのは、黒いローブをまとった魔女だった。銀色の髪が肩に流れ、深い琥珀の瞳がノエルを見つめる。
「よく来たね、ノエル」
その声に、ノエルは驚きの声を上げた。
「えっ……どうして僕の名前を?」
「この森に迷い込む者は、必ず何かを求めている。あなたもそうだろう?」
ノエルは戸惑いながらも、頷いてしまう自分に気づく。
「恋をしているのかい?」
その言葉に、ノエルは息を飲む。
「……どうして、分かるんですか……?」
「鍋に映るあなたの心がそう語っている」
魔女が指さした鍋を覗き込むと、七色のスープの表面にぼんやりと映し出されたのは、リアンの姿。鍋の中に映る彼の表情には言葉にならない感情が込められている。
何かを言いたいけれど、どうしても言葉が浮かばない。ただ、温かさだけが、彼との距離を縮めているように感じた。
「片思いなのかい?運命の相手のようだけど……でも安心しなさい。このスープを飲ませれば、必ずあなたを好きになるから」
ノエルは目を見開きながら、鍋と魔女を交互に見る。
「本当に……そんなことが?」
魔女は杖で鍋を指しながら、不敵な笑みを浮かべた。
「信じるかどうかはあなた次第。ただし、このスープには代償がある」
「代償……?」
魔女は杖を軽く振り、天井に吊るされたハーブが一斉に揺れる。部屋全体に香りが立ち込める中、彼女の声が静かに響く。
「このスープを作る為に、あなたの寿命を10年いただく。それでも飲ませたいかい?」
ノエルは思考を巡らせた。七色に輝くスープの甘い香りが心を揺さぶる。リアンへの想いと引き換えの10年。迷いながらも、彼の心は既に答えを知っていた。
(リアンが僕のことを好きになってくれるなら……でも、10年はあまりに長い……本当に叶うのなら……10年の寿命も惜しくないかも……?ダメ元でも試してみたいかな……?)
今迄のノエルなら、両想いになるなんて無理だと最初から諦めていただろう。異性愛とは違う葛藤や、恋に臆病すぎる事も原因だ。しかし、リアンには言葉に出来ない何かを感じる、今迄とは違う何かを。
魔女はもう1つ大事な事があると告げる。
「でも、相手と両思いになったら寿命は返還するよ。スープを飲ませられるのは3回までね」
「相手も自分を好きになれば返還されるんですね……」
「それと、スープを飲ませても、心が動かなければ何の効力もない。それでも試すかい?」
迷いと期待の間で揺れる自分の心に戸惑いながらも、ノエルは魔女の言葉に引き込まれていく。
「……お願いします。来週の月曜日、12時に予約します」
そう告げた瞬間、鍋の中のスープが7色のまばゆい光を放ち、ノエルの心に何かが深く刻まれる。
その時、アラームが鳴り、ノエルは目を覚ます。目を開けると、暗い部屋が広がり、現実が少しずつ戻ってくる。胸の中に残るあの温かさも、夢の中で消えてしまったように感じるが、リアンの面影はまだ鮮明に心に残っていた。
(こんなに夢に出てくるくらい好きなんだろうな……)
自分の思いに驚きながら、もう一度目を閉じる。リアンがまた夢の中に現れることを願い、うっすらと残るあの虹色のスープの香りに導かれながら。