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第3章:ディルの風味と指先の残響

 その日、リアンは少しずつ店の雰囲気に慣れていった。

 ノエルの優しいサポートが、彼の心に小さな自信の灯をともす。


 ランチタイムが始まり、店内が賑やかになる中、リアンがトレーを手に客席へ向かう姿を、ノエルは思わず見つめる。細長い指でスープのカップをそっと置く仕草に、なぜか懐かしさがこみ上げた。


 ノエルが優しく声をかける。


「上手だよ!」


 その言葉に心が染められ、リアンは小さく頷く。


 ランチタイムのピークが過ぎた頃、ノエルとリアンは奥の休憩室に向かい合って座る。キッチンからエリサが現れ、「お疲れ様」と言いながら試食用のスープを差し出してきた。


「リアン、これ食べてみて。今日のまかない、スウェーデン風フィッシュスープ、ポテトとタラのスープだよ」


 ノエルが目を輝かせる。


「タラのスープとディルの組み合わせ、最高ですよね!」


「ノエルは好きだもんね。リアンも食べてみて!」


 リアンはそのスープを口に含む。初めての味は優しいタラの風味にディルが爽やかさを運び、体が一気に温まり、心地よい余韻が広がる。


「美味しいです。これ、本当に優しい味がしますね」


「でしょ?」


 とエリサは微笑む。


「このスープは、少し疲れた体にも元気をくれるんだよ。君のように、今ちょっと緊張しているみたいな人にぴったり」


 その言葉に、リアンは少し驚いたような表情を見せるが、すぐにその視線をノエルに向ける。ノエルは静かにリアンを見つめて、ほんの少し照れたように微笑む。


「大丈夫。少しずつ慣れていけばいいんだよ」


 リアンは少しだけ肩の力が抜ける。ノエルのこの一言が、胸の奥で温かい感情となって湧き上がる。スープを味わいながら、静かな時間が流れた。


 休憩時間、ノエルはリアンに優しく問いかける。


「この仕事、どう?」


 リアンは少し考えて「少しずつ慣れてきました」と答える。ノエルの「リアンならきっと大丈夫」という言葉に、強く励まされた。


「ありがとうございます、ノエルさん」


「そういえば、リアンは、音大生だよね?専攻は何?」


「ピアノです」


 リアンの声は低く抑えられ、その表情には一瞬、ためらいがよぎったように見える。


「わぁ!いいなぁ。僕も、ピアノ好きなんだよね。すぐ辞めちゃったけど、小さい頃習っていたよ。好きでよくサブスクで聴いているんだ」


「……そうなんですか」


「うん!実は2年前に、ブックカフェで忘れられないピアニストの演奏を聴いたんだ。リアンと同じ学校の子だと思うけど。有名な子なのかな?また聴きたくて、ブックカフェにシナモンロールの配達で行く時に探してみたんだけど、もう弾きに来ていないみたいで、それ以来会えてないんだ……」


 その瞬間、リアンの表情が少し曇ったように見える。


「ブックカフェのピアニストは沢山いますからね……」


「そうだよね。沢山いるもんね……でも、僕にとっては特別だったんだ……」


「……ノエルさん、そんなに良かったんですか?」


「うん。2年前に一度聴いて、それからずっと好き」


「ふーん。一途なんですね」


「うん。そうみたい……」


 ノエルの言葉に、リアンは何も答えない。ただ、その瞳の奥で、何かが揺れているように見える。少し気まずくなったノエルは立ち上がり、コーヒーを淹れに行く。リアンはノエルの後へ続き、ノエルの背後から耳元でささやく。


「今度、弾いてあげましょうか?」


 ノエルはビクッと体を震わせる。


「うん……いいの?今度聴かせて……リアンのピアノを……」


 休憩時間が終わり、客足も落ち着き、ゆったりとした店内。ノエルと常連客が談笑している。


「このお店のスープも美味しいけど、黒い森にある魔女のスープを知っている?」


「知っていますよ。よくお客さんが噂話していますよね。確か、恋が叶うんですよね?本当なんですか?」


「本当だよ。私の友達が、このスープを飲ませた相手と最近結婚したんだよ。しかも、飲ませた翌日に告白されたらしいの」


 ノエルは信じられないという表情を浮かべる。


「えっ、本当にそんな魔法みたいな話があるんですか?」


「うん、噂でも結構聞くよね。でも、代償があるらしい……それを、受け入れる覚悟があるならね……怖くて私は試せないけど」


 ノエルは興味を引かれつつも現実的には信じていない。ただ、どこか心に引っかかる。リアンは、椅子の整頓をしながら静かに耳を傾けて、その横顔には一瞬何かを考え込むような影が差していた。


 夕方になり、スタッフはディナー前の空き時間に調味料の補充作業を始める。ノエルが高い棚にしまったスパイスを取ろうとしていた。


「うーん、ちょっと届かないな……」


 背伸びをする彼の背後から、すっと長い腕が伸びて、目当てのスパイスを簡単に取る。リアンだった。


「これですか?」


 その言葉と同時に、森のような優しい香りと共に、背中に温もりを感じる。近すぎて、心臓が跳ね上がりそうになる。ノエルは驚いて振り返ろうとするが、リアンの近さに息を呑む。すぐ背後にいる彼に触れてしまいそうで動けない。二人の距離は0.1ミリ。


「ありがとう、リアン」


 受け取る時、彼の指先がノエルの指に触れる、ほんの一瞬の接触に、心臓が早鐘のようになり始める。


(近すぎる……息がかかりそうなくらい近い……!この子本当に怖い……)


「どういたしまして。これくらい、いつでもやりますよ」


 リアンの表情は至って真剣だが、その声にはどこか意図的な響きがあるような気がする。ノエルは目を合わせられないまま、ぎこちなくその場を離れるが、背後からは彼の視線が痛いほど感じられる。


 黄昏時、最後の片付けを終えながら、ノエルは考えていた。目の前にいるリアンと、記憶の中のぼんやりとした影が、少しずつ重なり始めているような気がする。その謎は冬の街に降る粉雪のように、静かに消え、確実に彼の心の奥にある記憶の扉を開こうとしていた。


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