第1章:氷の王子と記憶のプレリュード
秋の終わり、街が冬の装いをまとい始めた頃、スープ専門店『フィーカ Fika』にも、クリスマスの準備が訪れる。ローズマリーのリースがドアに掛けられ、温かな木の家具とリネンのカーテン、テーブルに飾られた松ぼっくり。
窓辺のキャンドルの灯りが揺れ、シナモンとカルダモンの甘い香りが漂う店内は、まるで、北欧の絵本から抜け出したような別世界へ誘う。
「いらっしゃいませ。ようこそフィーカへ!」
店長のノエルはいつものように明るく挨拶した。大学を卒業して1年、23歳の若さでこの店を任されている。
『Fika』とは、スウェーデン式コーヒーブレイクを意味する言葉だ。
元々北欧文化が好きだったノエルは、LGBTQ+先進国でもあるスウェーデンに憧れを抱く。ゲイである自分を受け入れてくれる『フィーカ』は、彼の小さな城だった。スウェーデン人オーナー、エリサの「君は君のままでいい」という言葉が、ノエルの胸に灯りをともす。
夜、ベッドで目を閉じれば、彼は空想の世界へ。シナモンの香りに包まれ、誰かと手をつなぐ夢を見る。けれど、現実はいつも一人。「僕に恋なんて無理だよね」と呟きながら、心のどこかで王子様を待っていた。
この日、エリサから頼まれていた新しいアルバイトの面接が行われる。
エリサはスープの仕込みに追われるノエルへ声をかけた。
「ノエル、新しいバイトの面接、今日からよろしくね」
「本当に僕が面接するんですか?」
「そうだよ。頼むね!」
エリサはブックカフェで声をかけたという何人かの候補の中から「ノエルが好きそうな子」を選んでくれたが、それが逆に彼を緊張させる。普段の趣向からイケメン好きな事がバレているので恥ずかしさがこみ上げてきた。
「わかりました!頑張ります!」
午後三時。約束の時間に店のドアベルが鳴る。
「いらっしゃいま—……」
ノエルの言葉が途切れた。ドアの向こうに立っていたのは、思わず見惚れるほど美しい青年だった。
彼はまるで冬の彫刻のような存在感を放ち、一瞬で店内の空気を凍らせる美しさを持つ。高身長でスラリとした体型、ダークブラウンの髪と澄んだ瞳は凍てつく湖のような静寂。その佇まいには静かな気品があり、ノエルは息を呑んだ。
その時、一瞬ノエルの視界はスローモーションになる……風で彼の髪が揺れ、別れた前髪からは美しい額と整った顔を覗かせ、氷の粉末が彼の周りをキラキラと舞ったような気がした。
(これは……紛れもなく、氷の王子……)
180cm位の高身長に、K-POPアイドルのような鼻筋が通ったアップノーズ、小さな尖った顎……整った顔立ち。その立ち姿は、まるでファッション誌から抜け出したモデルのよう。
(若いけど落ち着いた雰囲気、女性客に人気が出そう……)
「面接に来ました。リアンと申します」
その声が響いた瞬間、ノエルの胸に熱い波が押し寄せた。
(え?この声……どこかで聞いたことがあるような……?)
「あ、はい!こちらへどうぞ!」
慌てて奥の部屋へ案内しながらも、ノエルは動揺を隠せない。目の前の青年は初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい感じがするのだ。
彼の声は、どこかで聞いた旋律のようで、指先が空を滑る仕草は、遠い記憶のピアノの音を呼び起こした。雪の降る夜に聴いた、あの優しい音色のように。
「えっと、初めまして。店長のノエルです!クリスマスに生まれたので、この名前なんです。フランス語でノエルはクリスマスって意味で...あ、リアン君のお名前もフランス語ですよね?」
「はい。"つながり"とか"絆"という意味です」
リアンは穏やかに目を細めた。その表情に、再び心が疼くような感覚。
「オーナーの意向でこの店ではスタッフはファーストネームで呼び合っているので、僕の事はノエルって呼んで下さいね」
面接中もリアンの一挙一動が気になって仕方がない。書類をめくるふりをして彼の顔をちらりと見るたび、ますます混乱する。
(この顔、どこかで見たことある気がする……気のせい?それともただの思い込み?)
「……あの、もしかして、以前どこかでお会いしましたか?」
思わず口をついて出た言葉に、ノエルは自分で驚いた。しかし、リアンの瞳が一瞬揺れたのを見逃さない。
「いいえ、初めてお会いします」
その言葉に疑問を感じながらも、ノエルは深く追求することができなかった。リアンの穏やかな声と柔らかな微笑みが、なぜかそれ以上を許さなかったからだ。
「ごめんなさい、ナンパしているみたいになっちゃいました。そんなつもりじゃないんですけど……」
その言葉を聞いたリアンは、少しだけ困った顔をしながらも、笑顔を見せた。
「いえ、気にしていませんよ」
「あ!ごめんなさい!それじゃあ、面接を始めましょうか」
リアンの受け答えは丁寧で、特にバイト経験の話で、「音楽関係の……」と言葉を濁した時、ノエルの心に不思議な懐かしさが強くなっていく。
その時、突然、遠くでピアノの音が聞こえたような気がした。記憶の片隅に隠されたその音は、はっきりとした形を取らず、冬の霧の中にとけていくようだ。
気づいた時には、ノエルはリアンの整った顔を見つめてしまっていた。
「ノエルさん?」
「えっ!?」
突然名前を呼ばれ、我に返る。
「僕、何か変なことを?」
「あ、いえ!何でもないです!」
慌てふためくノエルに、リアンは悪戯っぽい笑みを落とした。
「面接官に見つめられると、少し照れますね」
その一言に、ノエルの顔は瞬く間に紅潮する。
(この子、小悪魔すぎる……!)
(初めてのはずなのに……どうしてこんなに気になるんだろう?)
(アイドルに似た人いそうだし、他人のそら似か……しかし、本当にイケメンだな……)
(うーん、顔採用したってスタッフに言われそうだけど、まぁ、イケメンは正義だよね!)
妄想を楽しんでいるノエルを見て、リアンは苦笑いを浮かべる。ノエルが自分の本心に気づいていないことを楽しみつつも、その視線は、一瞬遠くを見るように彷徨い、すぐに柔らかな微笑みに戻った。
その夜、面接が終わった後も、ノエルはリアンの事を考えずにはいられない。そしていつの間にか、夢の中へ誘われるように意識が遠のいていく。
深い眠りの中で、ある記憶の夢を見ていた。雪が降り積もる静かな冬の夜。 どこかで響くピアノの音色。 優しい旋律が、懐かしさと切なさを運ぶ。
夢の中の記憶は、彼の心の奥底でゆっくりと揺れ、頭の片隅で懐かしい旋律が蘇る。まるで、忘れられない冬の夜に聞いたピアノの前奏曲"プレリュード"のように。