第5話(終)
ならなぜあの日のことを思い出したのか。
祖母が最近死んだ、充分長生きしたと思う。それでも私は悲しくて入院中の祖母を何度も訪ねた。
病室は白く淡く儚い色をしていて、微かに薬品の匂いがした。そこは正に人の死を迎え入れる為の場所だと思った。人工的に作った天国のようだと。
そんな場所で私は祖母と他愛ない話ばかりした。そうしてどちらともなく祖父の話題になったのだ。
「あの人に、やっと会えるのかね」
日の当たる窓の向こうを見やって、祖母はそう零した。気休めは不要だと判断し、私も思うままに言葉を投げた。
「よろしく言っといてよ、まぁ俺は会ったこと無いけどさ」
「本当に?」
向き直った祖母の表情は微笑みながらも射貫くような視線を私に投げかけていた。死と隣り合わせにいる彼女は不自然な静謐さを纏っていた。私には彼女が神や天使のような、それは人間よりも上位の存在に見えた。
そうして私はあの日のことを漸く思い出したのだ。あれは夢か何かだと考えているうちに眠っていった記憶が、祖母の一言で鮮明に掘り起こされていく。
荒唐無稽の話しだと一笑に付されてもいい、私は話すことにした。
「昔夢で会ったよ。俺にそっくりの坊主頭だった」
「そうかい、そうかい」
「もしかして爺ちゃんから聞いたの?」
祖母は肯定するように微笑んだ。
「じゃあ、あれは夢じゃなかったんだ」
「あんた小説を書いてたんだろう?」
「さ、さぁ。昔のことだから覚えてないよ」
「あの人ね、お前の小説の続きが読めない事だけが心残りだって最後に言ったんだよ」
祖父は今際の際まであの日のことを明かさなかったのだと祖母は言った。
「自分が読書を始めたのもそれがきっかけだった。色々読んできたが、あいつの書いた物が一番面白かったってね」
「確かにあの日、爺ちゃんの部屋には本なんて一冊も無かった」
「あの人ったら、ある日を境に急に本を抱えて歩くようになって。最初は格好つけてやってるものだとばかり思ってたんだけど、段々とこっちが気になってきて…そこからお付き合いすることになったのよ」
「なら、二人を引き合わせたのは俺だったの?」
祖母はただ微笑むばかりだった。
「…結局、爺ちゃんに見せたやつは書き終えてないんだ。もう、どんな作品だったのかも覚えてない」
私は何故か懺悔するような気分になって告げた。
「そうかい。あの人に会ったら結末を教えてあげようと思ってたんだけどね」
「ごめん、ごめんよ」
「謝ることはないよ。ただ、お前は満足なのかい?」
「俺が?」
「書けって言ってるんじゃないのよ。何でも良い、何か自分を満たしてくれるものはあるの?」
私はただ、分からない、と答えた。
祖母が亡くなって、葬儀や遺品の整理等が一段落してから、私は祖母が最期に残した言葉に従った。
「あの押し入れの中に、あの人が残したものがある。それを読んでごらん」
祖父の書斎に誰も手を入れなかったのは祖父の言いつけがあったかららしい。就職を機に実家を出たが、この場所は私が過去への旅をしたあの頃と何も変わっていなかった。埃っぽくてかび臭い。そして僅かに古本の匂いがした。
押し入れの中も同様に、あまり変わっていないように感じる。断捨離で真っ先に処分されそうな調度品等が並ぶばかりで、貴重品が入っているとは到底思えない。それでも私は大きく息を吐き、この掃き溜めのような場所から祖父の残した物とやらを探し出す覚悟を決めた。
「残した物って、なに?」
「ノートのはずよ、表紙にお前の名前が書いてあるから見つければすぐに分かるって」
祖母の言葉を頼りに探すと、存外早く見つかった。段ボールの底に折れないよう丁重に置かれていたのだ。あの時は敢えて暗くした上で、ざっと見渡して座れるスペースを確保したらすぐに睡魔に襲われたものだから見つけられなかったのだろう。
私はノートを開こうとして、だがその手を止め逡巡した。祖父が残した物ならば、それに見合った環境を整えるべきだと、少年のような純粋さが沸き起こったのだ。
押し入れの戸を閉め、スマホの明かりだけでノートを照らす。非効率極まりない行動だった。しかし自分なりに直向きだったあの頃に、確かに戻れたような気がした。
ノートは半分以上白紙だった。そして書き込んである内容も最初は判然としなかったが、やがて思い当たった。
その瞬間、過去から未来へと風が吹いた。
これは私が書いた小説のことだ。祖父が読めなかった部分の、その考察や予想が残してあったのだ。
「ごめん、ごめんよ」
私は祖父にも謝った。漸く思い出した物語が、私の頭を巡って、記憶を撫でる。気恥ずかしくなるような少年の頃の気持ちが心地よく蘇ってくる。
もう押し入れの中で突然の睡魔に襲われて眠ることは無かったが、私は今度こそ晴れやかな気持ちで暗い暗い押し入れから出た。
以上で完結です、最後まで読んでいただきありがとうございました。
またコツコツと書く作業に戻ります……!