4.
黄土色の靄が立ち込める市場には獣脂蝋燭の臭いが煮凝りみたいにへばりついていた。放置されたゴミとベトベトした水たまり。ネズミの串焼き、よごれた革、用途不明の錆びた機械が売られていて、ドラム缶をテーブル代わりにした酒場では味覚も健康もどうでもよくなった人びとが〈サザンアイランド・ラム〉をあおり、酢をかけただけの生の奇形魚にかじりついている。
使える部品をごっそり抜かれた自動車のなかで浮浪児たちのやけに大きな目がきらきら光っていた。こういうとき、浮浪児というのは非常に使い勝手がよい。そばの屋台で買ったボウルいっぱいの臓物スープをプレゼントし、これは前金だというと、浮浪児たちは世界の真理だって探し出せそうな熱心さでZV86をリモコン付きで見つけてくると約束した。
すぐに戻ってきて、ZV86を売っている場所を見つけたと言ってきたので、臓物スープよりももっといいもの――ストロベリー・シャーベットの瞬間冷凍缶詰で後金を支払った。
「やったぜ。あんた、いい人だから特別に教えてやるよ。ふたり組があんたのことをつけてる。そいつら、フィッシュ・マンの手下だ」
「フィッシュ・マンって名前が初耳なんだけど」
「悪党だよ。〈サザンアイランド・ラム〉をつくってる」
密造酒業者か。たいていの場合、その手のギャングは縄張りに自分のつくっているよりも安くていい酒が出回ったときに手下を話し合いに向かわせるが、殺し屋の売り物は高品質の暗殺であり、密造酒ではない。それとも、ZV86は高性能蒸留装置か何かなのかもしれない。とりあえず、そのZV86を見てみなければ話は始まらなかった。
老婆は砂を売っていた。鮮やかな赤い砂とラピスラズリの青い砂が皿の上できれいな円錐型に盛られている。この市場で最も価値のある商品だ。
一瞬、浮浪児たちにかつがれたのかと思ったが、老婆はちょうどバレーボールが入るくらいの大きさの箱を殺し屋に渡してきた。
「これがZV86?」
老婆は目を閉じてうなずいた。
「開けてみるけど、いいよね?」
箱の中身はプラスチックと鉄でできたグロテスクな昆虫のようなものだった。見れば見るほど吐き気を催しそうな複雑な機械で、設計士の狙いが人間に不快な思いをさせることなのだとしたら、それは大成功だった。
リモコンはついてきていた。小さな、ポケットに入るくらいのスティックで、上下右左の矢印が書かれたボタンがあり、その下にドクロが描かれたボタンがある。以前、マッドドッグというギャングと何の因果か爆弾の解体をするハメに陥ったことがあったのだが、その爆弾にこのドクロマークのボタンがあった。
――押してみようぜ!
――ダメ。いま、ティムに電話をかけてるから、触らないで。――もしもし、ティム。ぼくだよ。うん。ぼく。それより爆弾の解体、詳しいでしょ。青と赤の線、どっちを切ればいいのか悩んでるんだ。うん。オレンジ色のボックスで、うん、ダイナマイトに刺さってる信管は青い線が繋がった箱を経由してる。箱には――うん、シリアルナンバーの最後の数字が3だね。わかった、じゃあ、赤を切ればいいんだね。ありがとう、ティム。きみは命の恩人さ。マッドドッグ、赤の線を――だから、ドクロを押すな!
いま思えば命が助かったのが不思議だった。マッドドッグの母親がきちんと葬式をできるよう、ちりとりでマッドドッグをかき集め、クーラーボックスに入れて、あなたの息子さんです、お悔やみを申し上げます、と渡したのだが、母親はそれが本当に自分の息子だと確信した上で、生ごみ用のディスポーザーに捨ててしまった。
殺し屋はたいていの国なら通用する、とある経済大国の紙幣を取り出し、十枚払った。すると、お釣りで緑色のトークンが二枚、それにきれいな緑の砂が入った砂時計が返ってきた。
狂った老人のお買い物が終わると、問題は粗悪なラムを売るチンピラたちになる。ZV86の箱を両手で持って、市場から下り坂になっている路地裏へと曲がると、後ろから走っていたチンピラが追いついて、銃を抜いた。
ふたりのチンピラは将来体重三百キロになる予定でもあるみたいなダブダブした服を着ていて、ズボンが下がってパンツが丸見えにならないのが不思議だった。だが、もっと不思議なのは銃の構え方だ。確かに真横に構えるのが流行った時期があったが、このチンピラたちの構え方はさらに四十度傾いていて、ほとんど逆さまに銃を構えていた。そんな構え方するならケツに挟んで撃ったほうがマシな気がした。
殺し屋は相手が何か言おうとした瞬間に手を離し、ZV86が地面にぶつかるまでのあいだに、チンピラひとりにつき、胸に二発撃ち込んだ。
「我ながらいい早撃ちだった」
ZV86を拾って、なかが壊れていないか振ってみた。カラカラと小さな部品が外れたらしい音がした。
「ブラボー!」
坂を下りた先の、大きな緑色の自動車に乗った男――フィッシュ・マンが手を叩いていた。殺し屋が銃を向けると、両手をあげて、ニヤニヤしながら言った。
「おれを撃ったら後悔するぜ。飛び切りのオファーを運んできてやったんだからな」
上げた手の指先には封筒が一枚挟んであった。溶けた蝋に模様を押しつけて固めた古い手紙だ。
なんて、毎日だろう! 殺し屋は一日一日最悪になっていく世界に同情した。このスラムで最も素晴らしい自動車の運転席にはこのスラムで最も趣味の悪いネクタイをした中年太りが座っている。その男はこのスラムでおそらく最も人を台無しにしている密造酒の元締めで、焦げ茶色の液体はみなラム酒と呼んでも差し支えないと思っているクズなのだ。
殺し屋はあまりラムは飲むほうではない。だが、南で仕事をするときは地元の酒場でとびっきりに濃厚なラムをロックで頼む。北で仕事をするときは雪のなかから帰ってきてすぐにバターを落として温めたラムのありがたみを知っている。
近づけば近づくほど、嫌になる。ネクタイに描かれているのは七歳くらいの少女の裸だ。
似たようなネクタイが何十本とクローゼットにかけてあるのを想像した。
殺し屋は銃を向けたまま、指先から手紙を取ると、飛び出しナイフで封蝋を切った。
手紙にはこうあった――あなたの素晴らしい手腕にわたしたちは感服しています。わたしたちとあなたとのあいだには良好な取引関係を築けると確信していますが、というのも、わたしたちはあなたの望む形で報償を支払う準備があり、そして、あなたの技術に対し、完全な形での尊敬を表現できるからです。わたしたちにはあなたの助力が必要であり、もし、あなたがわたしたちの願いを叶えてくれる準備があるのでしたら、明日、あなたのホテルの前に舟が迎えに行きますので、どうぞそれにお乗りください。わたしたちの聖域へご招待いたします。
あの真っ白なピラミッドのなかに住む神官たち。インターホンの狂人の言っていることが正しければ、神官たちは殺し屋をつかって、天罰を下している。選民思想の権化みたいな連中を相手にするのは疲れるし、しかも、この手紙から判断すると、敵は慇懃無礼を使いこなす選民思想の権化だ。
とはいえ、ここで何もせず、所持金をZV86なんかに浪費するのもよろしくない。相手が選民思想の権化だから受けませんなんて言えるほど、この仕事が儲かっているわけではないのだ。
しかし、選民思想の権化たちはなぜ、フィッシュ・マンを使っているのだろう?
殺し屋はちょっと悪魔じみたイタズラを思いついた。
「この手紙には」と、手紙をポケットにしまいながら言った。「近々、あなたを神官にするつもりだって書いてあったよ」
「やっぱりな!」ガッツポーズをしたフィッシュ・マンの出っ張った腹がハンドルにぶつかった。「そうだと思ったんだ。おれはこんなごみ溜めで終わる男じゃない! このヤマはでかいってな」
ウソなのに。なんだか、哀れに思えてきた。
だが、ハンドルとビール腹のあいだに挟まったネクタイのなかで、七歳の少女が苦痛に身をよじらせているのを見て、同情は掻き消えた。