3.
昼寝から起きると、日が沈もうとしていた。黒のタートルネックに黄色いセーム革の手袋をつけ、銃をホルスターに、尻ポケットに飛び出しナイフを入れて、外に出た。
空気が汚れている土地特有の夕焼け――どぎつい赤の光のもやのなかをうろついて、小さなバーに入った。そこがバーだと分かったのはBARのネオンサインがドアの上に見えたからで、それがなければ、そのへんの廃屋と大差がなかった。
カウンターは小さな扉を通った先にあった。ずんぐりしたボトルの並ぶカウンターではバーテンダーがオールド・ファッションドに飾るオレンジの皮を切っていた。美しい容貌の持ち主で、険はあるが、端整な顔立ち、すらりとした背はバランスが取れていて、緩やかな癖のある蜂蜜色の髪を後ろで結んでいた。国が違えば、ファッションモデルで優に食っていけそうな美男子が、どうして、こんな場末のバーで角砂糖にアンゴスチュラビターズをふっているのかと思ったが、その理由は背後のボトルを取ろうと、振り向いたときに分かった。左頬に大きな×の傷跡があったのだ。その右上端は目をまたいでいて、左目の白目と黒目の色が逆転していた。
席につくと、スナックの入った小皿を置いた。
「ここには薄いブランデー、温いビール、〈サザンアイランド・ラム〉しかない」
「〈サザンアイランド・ラム〉?」
「ジャガイモでつくったアルコールに玉ねぎの炒めた汁で色をつけたものだ。飲むかい?」
「冷たいビールを出してあげてよ、ブルース。一本くらいあるでしょ?」
振り返ると、あのオカマがいた。石油ランプの光で見ると、オカマはますます妖怪じみて見える。オカマは青いトークンをカウンターに置いた。バーテンダーはそれをレジ代わりのクッキー缶に入れた。
「さっきはありがと。ビルのやつ、すっかりビビってたから。二週間くらいは殴られずにすみそう」
「あなたのためにやったわけじゃないんだけどね」
「そうだね。でも、大切なのは結果よ。それがこうして冷たいビールの形で目の前にあるんだから、悪くないでしょう?」
「まあ、確かにそうかも」
バーテンダーが栓を抜いた。きいたことのないメーカーのビールだが、半径一キロ圏内で一番まともな飲み物のはずだ。
オカマは殺し屋から席ひとつ開けたところに座って、煙草をつけた。イチゴのにおいがする煙草だ。
「僕の名前はキャンディ。あなたのことはなんて呼べばいい?」
「匿名希望」
「分かった、匿名希望ね。ねえ、匿名希望さん。詮索するなって言うかもしれないけど、僕、気になっちゃうんだよね。どうしてこんな最低なところに来ちゃったの?」
「詮索するなって言いたいけど、ビールをおごってもらったし、教えるけど、ぼくは指名手配されてるんだ」
「何したの?」
「人を殺してお金をもらった。依頼主はぼくにお金を払ってから、急に惜しくなったらしくてね、取り返そうと思って、ぼくを密告しやがった。警察、連邦捜査局、王国憲兵隊、秘密警察、突撃警備隊とご丁寧に念を入れてね。それで逃げていたら、何にもない道の端にインターホンがあった。そこで、このトリクルダウンの町長と話をして、ここでほとぼりを覚ますことにしたんだ」
「トリクルダウンには町長なんていないわよ。神官長はいるけど」
「じゃあ、ぼくの話した相手は病院を抜け出した狂人か何かだったのかもしれないね。いや、ひょっとすると、ぼくは退屈な運転で狂ってしまって、サボテンか何かを相手に話していたのかも」
「案外、狂ってるのはあなたじゃなくて、他の世界全部かもしれないよ。この街なんか、そう。本当に狂ってる。お高くとまった神官たちなんて特に」
「キャンディ」バーテンダーがオレンジを切る手を止めた。「またトラブルに巻き込まれたいのか?」
「別に、このくらいのこと、言ったって平気よ。僕はこの通り、デブのオカマだから連れてかれる心配もないし。あいつら、娼婦は連れていかないって言ってるけど、僕は見たんだ、靴工場の角で客をとってたキャシーがさらわれたとこ。あいつら、あの変な乗り物で――」
「キャンディ」
「わかったよ。でも、キャシーはその後、どこに行っちゃったの?」
「インターホンの言葉を信じれば、神の国にいるらしい」
「神の国はここよ。そこいらじゅうにいるわよ。疫病神が」
ドアの蝶番が軋む音がして、老人がひとり、入ってきた。山高帽にフロックコートというフォーマルで古めかしい服装だが、埃と泥と鉤裂きの繕い跡でだいぶくたびれていた。着ている当人もくたびれていて、髪も髭も伸びすぎて、一緒くたになっていた。
「やあ、フォン・シュピレフスキー」
老人はわざと驚いたふりをした。
「やあ、ブルース。今日はひどい雪だな。カラマンイーニ星でまつ毛がない獣がポルカを踊っているせいだろな。おやおや、キャンディ。今日も美しいね。きっと、お前さんの魔人がお前さんのへその辺りに新しい会社を作っているけど、無記名債券の大根に社名を刷るのだから大変だ。で、そちらの客人は初めて見るが、船を相手にかけっこしたり、青い鹿の王を撃ち殺したりと忙しいお方のようだ。ひっひっひ」
フォン・シュピレフスキーは奥のテーブルに座り、バーテンダーは緑の液体が入ったボトルと小さなグラス、それに角砂糖を置いてやった。
「巨大なシナモンスティックを望むものは幸いなるかな。そのものら、ボウルいっぱいの工事現場を得ることだろう。ひっひっひ」
殺し屋がちらりとバーテンダーを見ると、バーテンダーは人差し指でこめかみを指差し、指先をくるくるまわした。
「かわいそうなおじいちゃんなんだよ」と、キャンディ。「全財産を詐欺師にとられて、おまけに奥さんまで寝取られて、ここに流れ着いたの。そんな目にあえば、誰だっておかしくなるよね」
「古い住人だ」バーテンダーが言った。「いつ流れ着いたか知らないが、神殿もまわりにスラムができ始めたころから狂っているって話だ」
「魚よ!」フォン・シュピレフスキーが大声をあげた。「宇宙を泳ぐ魚よ!」
「こんなこときくのはなんだけど」と、殺し屋。「営業に差し支えはないの?」
「このあたりの客は筋金入りのアル中だからな。じいさんひとりがわめいたくらいどうってことはない」
「旅の方よ!」フォン・シュピレフスキーが椅子の上でぴょんと跳ねた。「ZV86を買いなさい!」
機関銃かな?と思いつつ、殺し屋はきこえないふりをした。
「ZV86を買いなさい!」老人は騒いでいる。「リモコンのついたやつですぞ!」
「ああ、なったら、どうしようもない」と、バーテンダーが言った。「ZV86のリモコン付きを買うまでな」
「ZV86って何なの?」
「わたしが知るわけがないだろう。市場に行けば売ってるんじゃないか?」
「ZV86を買いなさい! ZV86を買いなさい!」
「わかったよ、わかったから」
殺し屋は立ち上がり、店を出た。出ても、まだZV86を買いなさい!と叫んでいた。
陽が落ちたスラムはひとりで出歩くのにいらぬ危険を舞い込ませるかもしれないが、いまからバーに戻っても、あの老人が「ZV86を買いなさい!」と叫ぶのだろうから、殺し屋としては覚悟を決めるしかないようだった。