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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ブラームスの乳首

 温泉街に着いてすぐ、老人に話しかけられた。どこから来たのかとか、どのくらい滞在するつもりかとか、そういうことを訊いてきたかと思えば、きみ、私のことを知らないのかい、と震え声で言われた。

 敬老精神が尽きてきて、爺さんをやり過ごす算段を始めたところに、湯治に来たが息子が来れなくなり心細い、滞在費の一切を払うので付き添いをお願いできないか、と言うのが耳に入った。どこが悪いのかと尋ねれば、左の胸が、と消え入るように言う。

 安易に哀れを催して引き受けたら、賭博場に連れて行かれた。爺さんはめちゃくちゃ遊び始めた。とにかく元気だった。あとでわかったことだが、「胸」というのも乳首のことだった。腫れて痛いらしい。

 でもお金は本当に出してくれた。

 ある日のこと、居酒屋の外で小さな楽団がコンサートを始めたとき、この曲は私が作曲した、と慇懃に言った。ブラームスのハンガリー舞曲だった。

 超有名な曲じゃん。嘘だろ。

 爺さんはこちらを見上げて、本当に何も知らないんだな、と皮肉っぽく言った。

 老人の戯言だと思ったけど、本人を尊重して、先生、と呼ぶことにした。先生は、遊びに行き、合間合間に乳首の民間療法を試した。ありとあらゆる薬を塗った。湖水浴場で乳首を日光に当てはじめたときは他人のふりをした。

 風呂にも足繁く通った。巨根の石像が壁一面に並んでいる古代ローマ様式の風呂に入った夜、先生は唐突に飛び起きて、クラリネットの曲を書くぞ! と叫んでまた寝た。石像の逸物がクラリネットを思い出させたのかもしれない。

 それなりに楽しくやっていたけれど、口論も絶えなかった。

 アメリカに行きたい、と言うのが先生の口癖だった。湯治なんかやめて行きゃいいだろ、とぼくが言うと怒るのだった。

 最後の喧嘩は、馴染みの浴場で起きた。ウェルテルみたいに、未亡人に惚れたらどうするかという話が発端だった。

 そのときのぼくは処女厨だった。先生は、人妻は全ドイツ男性のロマンだ! と言いながらそっぽを向き、海綿で身体を擦り始めた。

 ぼくは思わず声を上げた。え、乳首めちゃくちゃ擦ってんじゃん。いいのかよ。摩擦療法?

 先生の手が止まり、しまった、と呟くのが聞こえた。問い詰めようとするぼくの先回りをするかのように、先生は妙に意地の悪い顔をして振り返った。

 乳首が痛いなんて、信じていたのかい。馬鹿かね。ただ私は話し相手が欲しかっただけだ。若くて、愚かで、世間知らずの坊ちゃんを見つけて、丁度いいと思った。それだけさ。

 聞き終わるか終わらないかのうちに、ぼくは衝動的に先生の乳首をつねっていた。

 クソじじい、夏休みを台無しにしやがって!

 先生は身をよじって逃げようとした。老いぼれの身体にここまでの力が残っているとは、とぼくは頭のどこかで感心していた。

 だが、不意に手応えがなくなって、ぼくは床に倒れた。反射的に手を開いて、擦り傷がないか確認したら、柔らかいものが手のひらの上にぽろりと転がった。ピンク色の物体だった。ほのかに温かい。

 乳首だった。

 喚きながら馬車の駅まで逃げて、そのまま乗り込んだ。地元で先生の肖像画を見かけて、貧血を起こしそうになった。ブラームス、と絵の下に書いてあった。

 数年して、演奏会への招待状をもらった。ぼくは農学の修士号を取って、そのまま博士課程に進むところだった。

 席に座って待っていると、クラリネットを持った男と先生が出てきた。男の後ろでピアノを弾きはじめた先生は、知らない人みたいだった。音楽の長さに耐えきれなくて寝たら、湖の夢を見た。

 楽屋に入れてもらうと、今度はきちんと先生が先生に見えてほっとした。

 もう、痛くありませんか。そう訊くと、なぜか先生は寂しそうに微笑んだ。

 よく来てくれた。これを渡したくてね。

 先生はカバンから箱を取り出した。中には大きな黄色い石の嵌ったペンダントが入っていた。琥珀かと思ったが、何か胸のすくようなにおいを感じた。石の中に何かが埋まっていた。

 乳首だった。

 先生は狼狽するぼくを指差して笑った。傑作だろ。君が脱走したあと、すぐに松脂で綴じてもらったのさ。

 気付いたら、ぼくも腹を抱えて笑っていた。

 ほどなくして先生は亡くなった。

 ぼくは遺伝学の研究に没頭した。そのうち戦争がはじまって、出征した。ぼくは補給トラックの運転手をした。銃声と砲弾が降り注ぐ中でアクセルを踏み続ける仕事だった。ぼくは車ごとふっ飛ばされ、傷病兵として送還された。ようやく戦争が終わるころには、今度は国が壊れてしまった。ぼくは家族を連れてアメリカに移住した。

 乾いた大地。見渡す限りのとうもろこし畑。たまに、北へ車を走らせて、湖を見に行く。火を起こして、ペンダントを取り出す。

 アメリカはひどい所だった。先生が憧れていた理由が全くわからない。

 松脂が黄金色に輝く。中の乳首は取れたときのままの姿で、乾きもせずそこにある。松脂が変形しないよう、夏は冷暗所で保管する。

 先生はいつも人妻の話をしていた、と思いながら、熾火の横で眠りに就く。土の中にいる先生はとっくに骨だけになっている。


えー、6枚足らずの掌編ですが、色々な由来がございまして、

①私の実体験(高校のマラソン大会の時、「ニプレスとかで保護しないともげるよ」と言われたこと)

②友人の実話(親知らずを抜いて持ち帰ったら恋人が欲しがり、渡したらレジンで固められた上イヤリングに加工されて戻ってきた)

③ほんのちょっぴり史実(ブラームスは晩年バート・イシュルという温泉街に引きこもっていたが、そこで色々あってクラリネットの曲を書くようになる)

です。語り手が聞いたのはおそらくクラリネットソナタ第2番あたりでしょう。あんなに簡単にもげたのは民間療法の試し過ぎでボロボロになったからだと私は思っています。

ちなみに②については友人とその恋人の両者から許諾を得た上でエピソードを使わせていただきました。多謝。

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