第4話 フェルマン
レンガの如く積み重ねられた住居によって円筒を成している蟻塚は、筒の外側が壁と窓、そして内側に建物の出入口とそれらを繋ぐ回廊が、各階層毎にぐるりと一周、ひだの様に設けられている。筒の中程と上部にはその通路が大きく広げられている階があり、上層の広場は水耕栽培のプラント、中層の広場は集会や憩いの場として用いられていた。
上下の移動手段は、点在する階段や梯子の他に、リフトと呼ばれる大人20人程が乗れる設備が東西南北に1基ずつ。これは四隅をワイヤーで吊られた床板が多数連なり、滑車によって常にゆっくりと動いている、謂うなれば自動昇降機であった。無論その低速さ故に、下層から上層までの移動ともなればそれなりに時間を要するものの、そもそも蟻塚の住人達の生活はそれを許容出来るだけの緩やかな、そして穏やかなものであった。
***
蛇口を捻ると擦れた音が鳴り、不格好に歪んだ配管から勢いよく水が飛び出す。それを手で掬って一飲みした後、水流の中へと頭を突っ込む――。頭頂部に溜まった熱が流されていくと、エリオンは頭を上げた。
「ふぅ」と一息。
中層の広場に丸い空から刺すような陽光――。エリオンがその眩しさに目をしかめながら、しっとりと頭に張り付いた虹色の髪を手櫛で掻き乱していると、彼の横を子供達が笑いながら走り抜けていった。
「わぁ虹だー! エリオンの頭から虹が飛び出したぞー!」
プラントで撒かれた水が霧となって舞い降り、エリオンの振り払った水飛沫と重なって、彼の頭上には虹が出来ていた。
子供達を笑顔で見つめるエリオンの横で、水桶を抱えたツキノが声を張る。
「こら、アナタ達、そんなトコ走っちゃ危ないでしょ!」
すると「わー! 白オークが怒った!」と叫びながら一目散に逃げ去る子供達。――大きな溜め息を吐くツキノ。
「はぁ、まったくもう……誰が白オークよ」
怒り半分、困り半分といった表情で白い髪をかき上げる彼女は、無論オークなどとは似ても似つかぬ、愛らしき蕾がようやく開花を迎えたところの、可憐で素朴な少女である。
そんな彼女を見て、エリオンがクスリと笑った。
「あ、笑ったわね? エリオン。まさかアナタまで私をからかうつもり?」
「いやいや、そんなことないよ。ただ皆元気だなと思って。それに僕はオークを怖いとは思わない」
「フォローになってないわよ。――それよりアナタの体調はどう? 2日も寝込んでたのに、水なんて浴びて大丈夫なの?」
「もうすっかり元気だよ。さっきリフトの修理も手伝わせてもらったんだ。歯車が擦り減ってただけだから、デバイスを塗っただけだけど」
「そう、なら良かった」
嬉しそうに微笑むツキノに、エリオンは「あ」と思い立ったように自分の懐をまさぐる。
「そうだツキノ、これを君に――」
エリオンは懐から薄い小さな薄革の包みを取り出すと、それをツキノに差し出した。
「なに? これ」
「修理で余った石をサハルさんから貰ったから、ちょっと作ってみたんだけど……」
そう言って照れ臭そうに微笑むエリオンの顔と、手渡された包みを交互に見ながら、ツキノは徐にそれを開く。すると彼女の瞳が丸くなった。
「これ――カチューシャ……」
淡い紫色を基調に、白の花蕾と蔓をモチーフにした流線の柄。可愛らしい細身のカチューシャを見て、ツキノの言葉が止まった。
「以前に欲しいって言ってたよね? 一から作るのは初めてだから、あんまり上手に出来なくて……。でも大きさはきっと――」
「ありがとう! エリオン!」
ツキノが勢いよく抱きついた反動で、エリオンがわっとよろける。小さな頭からフワリと漂う太陽の匂い――少女の香りに鼻腔をくすぐられて、エリオンは思わず顔を背けた。
「き、気に入ってくれた……かな?」
「もちろんよ、とっても素敵! ありがとう!」
「そ、そう……良かった」
エリオンは、喜色を露わにはしゃぐツキノをそっと引き剥がすと、真っ赤な顔で俯いて頬を掻く。
「じゃあ僕はこれで……。ドトの手伝いがあるから」
そそくさと逃げ出すように背を向け、足早に立ち去ろうとするエリオン。それをツキノが呼び止めた。
「エリオン!」
「?! ――な、なに?」
「私、今日からフェルマン先生に魔法を習うの。良ければアナタも一緒にいかない?」
「魔法? でも僕はエルフじゃないし――」
「私だって人間よ。でも素質があるかどうかはやってみないと分からないって、先生が言ってたわ。アナタ手先が器用だし、きっと出来るわよ」
「き……(器用さは関係ないと思うけど)」
などと思いながらも、折角取ったツキノの機嫌が損なわれるのを恐れて、エリオンは仕方無くその誘いに乗ったのであった。
***
蟻塚の長老、そしてティルニヤ市でも唯一の魔法使いであるフェルマンの家は、上層と中層の丁度中間に当たる階にある。立場にそぐわぬ狭い家であったが、それは彼自身が望んだものであった。
部屋は蟻塚では珍しいタイプの、赤茶けた木材の板を壁と床に貼った暖かみのある内装。天井には照明として設定された小さなデバイス石が、ガラスの椀に入れられて吊るされている。その柔らかい光が、壁に掛けられた杖や首飾りや、棚机に並ぶ分厚い本を照らしていた。
「魔法具は珍しいかい? エリオン」とフェルマン。
派手な意匠は無いものの、儀礼服に似た形の灰色の長衣を纏った彼は、長い金髪を銀の髪留めで後ろに束ね、そうして露わになった鋭角の耳が、彼の種族を一層際立たせていた。
「はい、初めて見るものばかりで……」
エリオンは好奇の目で部屋の中を見回す――。その様子にフェルマンが微笑んだ。
「知識の門は扉を叩く者にしか開かれない。好奇心はその最初の合図だ」
彼は客間に簡素な木机を2つ並べ、そこを魔法学を教える為の教室とした。
そして夕暮れ前に各々の仕事を終えたエリオンとツキノは揃ってここを訪れ、今まさにこの部屋へと通されたところであった。
「これは先生が作った物ですか?」
「半分ぐらいは、そうだね」
「本も――?」
「私が書いた書物もあるよ」
「へぇ、凄いなぁ……」と、嘆息を漏らすエリオンに対し。
「凄いのは当たり前よ。フェルマン先生は、先生なんだから」とツキノ。
蟻塚では多くの者がフェルマンのことを『長老』と呼ぶが、中にはエリオンやツキノのように『先生』と呼ぶ者もいる。それは彼が、魔法やデバイス石やアイオドについての知識だけでなく、動物学や植物学、果ては天文学に至るまでの様々な事柄に対して、深い造詣を持っていたからであった。
自分のことのように胸を張るツキノは、幼い頃からフェルマンの家に出入りしていて、彼から文字や学問を習っていた。一方エリオンがフェルマンの家に入るのは、これが初めてであった。
「丁度これから、デバイス石で魔法具を一つ作るところだった。見たいかい?」
フェルマンの申し出に「是非!」と二人が口を揃えると、彼は部屋の隅から白い10センチ角の立方体を持ち出してきた。それを机に置いて、そっと手を触れる――。
「わっ」と声を上げたエリオンの前で、四角い石はぼんやりと青く光る。そして視えない手で捏ねられる粘土の如く、グニャリと変形し、左右に丸い取っ手のある蓋付きの磁器瓶となった。
「これが魔法具……?」
「の、一種だね。これはエーテル瓶と言って、秘薬を醸成するのに使う」
「へぇ……」とエリオンが感心しているうちに、フェルマンはそれを部屋の奥の棚に移した。