第66話 ゲンちゃん
そして二日後。
「バウバウバウバウ!(どこだここは! 早くここから出せ!)」
レンコントに問題児の鳴き声が響きわたった。
飼い主が柴犬とトイプーを連れてやってきた。俺と楓は詳細な話を聞き、そのまま一週間預かると伝えると、飼い主は深々と頭を下げ、トイプーだけを連れて帰った。その姿から、真剣さが伺えた。それもその筈、この飼い主と柴犬にはもう後がないのだから。
「キャウキャン、キャンキャイアイアイアイ!(何をする! 来るな! 触るな! お前は誰だ!)」
俺が五階へ連れてきて、備え付けのケージに入れようとして手をのばすと、柴犬は恐れ、叫びまくっていた。
「おー……お前、普通じゃない吠え方をするな……」
「何を言ってるのか分かる?」
「ああ……でも、なんだろなこれ……。ほれ、こっちに入れ」
俺は抱くのを諦め、備え付けのケージの前に柴犬の入ったケージを置き、扉を開けた。
柴犬は動かない。ケージを覗くと隅でガクガクと震えていた。
「(殺される……)」
「いや、殺さない。ってか、俺はお前を助けたい」
「(…………)」
「お前、今、自分が置かれている状況、わかってるか?」
「(殺されるんでしょ?)」
「いや、だから殺さないし、痛いこともしない。まぁ、お前次第だけどな」
「(ここ、私達を殺すところでしょ?)」
「あ、ここをセンターだと思ってるのか……。なぁ、その施設からこいつに引き取られてきて、暫くここで一緒に暮らしていたの、覚えてないか?」
俺は楓を指差した。
「(……嘘)」
「んー……こっちは覚えてないのか……」
センターがよほど怖かったのだろう。
「どう?」
楓は俺を見た。
「なぁ、この子、楓がセンターから引き取ってきて、その後この子を慣らしたのって楓なんだよな?」
「うん。この子はそう……いい子だったんだけどな……」
「そっか……楓、服を脱げ」
「は……?」
「お前の匂いを嗅がせたい。だが、手を出すと危ない。だから、身につけているものを一枚くれ」
「あ、ああ! ……そういう事か……んしょ。はい」
楓は着ていたシャツを脱ぐと、俺に渡した。
「おお、サンキ……は!?」
「どうしたの?」
「なんでお前、下着姿になってんだ!?」
楓は上半身裸で、ブラだけになっていた。
「え? 蒼汰が脱げって言ったんじゃない」
「いや、普通、これしか着てないんなら『これを脱いだら下着になっちゃうから』とか言うだろ!?」
「別に、蒼汰に見られるんなら……いい」
「いや……じゃ、じゃぁ……これを着ろ」
俺は自分の着ていたトレーナーを脱ぎ、楓に渡した。ちなみに俺はTシャツ姿だ。
「うん……あ……」
楓は俺のトレーナーを着ると、袖の匂いをかいでそう言った。
「どうした? 臭いか?」
「ううん。蒼汰の匂いがする」
楓はトレーナーの袖を指先まで伸ばし、両手で鼻を覆って俺のトレーナーの匂いをかぎながら、嬉しそうに笑った。
「……お前は、犬か」
「わん!」
「いや、そういうのは良い……」
俺はくっつけていたケージを離し、入り口をこちらに向けた。
「この匂いを嗅いでみろ」
俺が楓のシャツをケージの中に入れると、柴犬はシャツの匂いを嗅いだ。
「こいつの名前は?」
「ゲンちゃん」
楓はまだ俺のトレーナーの匂いを嗅いでいた。
「オスか?」
「メス」
「なんか凄くオスっぽい名前なんだが……」
「うん。私が最初オスだと勘違いしててそう名付けたの。でもメスだと分かった時にはもう懐いてたから、混乱しないようにそのままにしたの」
「……なるほど。って、今の飼い主さんも名前を変えてないのか?」
「うん。優しい人でね、この子の為になることをしたいって言って、変えなかったの」
「そっか……」
「(……嗅いだことがある匂い……嫌じゃない……)」
ゲンちゃんはしきりに楓のシャツの匂いを嗅いだ。
「何か思い出さないか?」
俺はゲンちゃんを見た。
「(……私を……助けてくれた人?)」
「お。思い出したか?」
「え、私のことが分かるの?」
「今、自分を助けてくれた人だと言った」
「…………」
「じゃ、ここがどこだか分かるか?」
「(ここは……お母さんと出会った場所?)」
「ああ。お前を楓が救い出し、今の飼い主さんに会わせてくれた場所だ」
「(……私は、お母さんに嫌われて……殺されるんじゃないの?)」
「だ・か・ら。殺さないし、痛いこともしない……。どうだ、落ち着いたか……? 俺達を噛まないって約束してくれるんなら、そこから出してやる」
「(……本当に?)」
「お前が約束してくれるんなら出す。そのかわり、一度でも人を噛んだらもうお母さんには会えなくなるかも知れん……」
「(……自信がない……)」
「怖いのか?」
「(……よくわからない……)」
ゲンちゃんは困った顔をしていた……恐れ、困惑していた。
「良いだろ。じゃ、噛んでしまったらちゃんと謝れ。それならどうだ?」
「(……わかった)」
「よし。じゃ、出てこい」
俺はケージの扉を開け放った。
「楓、離れてろ」
「なんで?」
ゲンちゃんはゆっくりとケージから鼻を突き出し、部屋の匂いを嗅いだ。
「こいつ、噛まないでいられる自信がないと言った」
「じゃ、どうして出したの?」
「噛んだら謝ると約束をした。それだけだ……だから離れてろ」
俺がそういった、その時……。
ゲンちゃんは楓を見ると、勢い良く飛びかかった。
「キャッ!」
「楓!」
ゲンちゃんに押し倒されるように楓が尻餅をつき、そのままゲンちゃんは楓の胸元に乗った。俺は急いでゲンちゃんを抱き上げた。
「ブワキャキャン!(許してないぞ! 私に触るな!)」
ゲンちゃんは体をよじらせ、俺の右手に噛み付いた。
「痛っ! ……ほら落ち着け。大丈夫だ。俺だから、落ち着け」
「(ハッ! ……ごめんなさい)」
ゲンちゃんは正気に戻り、今噛んだ、俺の右手の傷口を舐めた。一生懸命に舐めていた。
「蒼汰! あ、お……オキシドール……」
楓は俺が噛まれたのを見ると叫び、そのまま部屋の薬箱へ行こうと立ち上がろうとしていた。
「出来たじゃないか……」
「(ごめんなさい、ごめんなさい)」
「ああ。許す」
「(私……お母さんに会えなくならない?)」
「ああ。その気持を忘れるな」
「あ、あれ……」
楓は床でジタバタしていた。
「どうした? 噛まれてないだろ?」
「う、うん……あれ? 蒼汰……立てなくなった……」
楓は困った顔で俺を見た。
「もしかして……腰が抜けたか?」
「……かも」
その後、俺が自分で消毒をしていたら、楓は一人で立ち上がった。
「大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫。あ、手に穴あいちゃったね……一応、空に見せて」
「ああ。ゲンちゃん」
「(……なに)」
ゲンちゃんは心配そうに俺を見ていた。
「心配するな。この程度は慣れっこだ。それより、落ち着いたなら健康診断をさせて欲しいんだが、病院は嫌いか?」
「(……病院?)」
俺はゲンちゃんにリードを付け、抱きかかえると、楓と一緒に二階へ行った。
「お……誰もいない。チャンス」
「あれ、今日は誰も居ないね」
俺達はそのまま診察室へ入った。
「ん? どうした?」
「空さん、この子の健康診断をしてほしいんですけど」
「その子は?」
「今、俺のしつけ教室で預かっている子で、噛み癖があるんです。それで……」
「え……噛み癖?」
空さんは少し引いた。
「ええ、なので、ここ数年は健康診断を受けていないようでして、できればと……空さん?」
「え……あ、ああ。わかった……って、この子、大丈夫なの?」
「あ、口輪しますか?」
「頼めるかな?」
「ゲンちゃん、口輪するけど我慢しろ。お前のためだ」
「(……わかった)」
俺はゲンちゃんに口輪をした。
「よし……じゃ、診てみようか」
空さんは触診を始めた。
「(……なんかこの人、怖い……)」
「え、そうなのか……?」
俺は空さんを見た。空さんはテキパキとゲンちゃんの体に触れ、触診をして、聴診器を耳につけた。
あれ……? 手が震えている?
「空さん」
「ひゃ、ひゃい!」
空さんは飛び跳ねた。
「もしかして……怖いですか?」
「う……うん。恥ずかしながら……。いや、犬が嫌いとかじゃないよ……職業柄、多くの犬にも接してるし、何度も噛まれてるし……ただ、怖いのは怖い。それは認める……。もしかして、この子にうつっちゃった?」
「ええ……」
空さんの恐怖心が、ゲンちゃんを不安にさせていた。
「よし、私がこうしていてあげよう」
楓は空さんの後ろに回り込むと、後ろから空さんの腰を抱きしめた。
「楓? 何を……!」
「どう? 落ち着くでしょ」
空さんは後ろから楓に腰を抱かれ、上半身を背中にベッタリと付けられていた。
なんという羨ましい……。
「う、うん……」
空さんはゲンさんに聴診器を当てた。
「……うん。大丈夫そうだね」
そのまま目を見て、耳を見た。
「よし、口の中を見るから、口輪を外して」
「はい」
俺は口輪を外した。
あれ? ゲンさんの表情が落ち着いている。
「あ、本当に落ち着いたんですね」
俺は空さんを見た。
「え? ああ。この子は不思議な子でね」
空さんはチラリと後ろの楓に目をやった。
「え? 私、変かな?」
「変だよ」
「そう?」
楓は俺を見た。
「いや、そうかも知れんが、それも魅力の一つだろ」
「あはは……」
楓は笑った。
「うん。口の中も大丈夫そうだな……。それにしても、蒼汰くんは楓に優しいよね」
「そうでしょうか?」
「ああ。優しすぎると言ってもいい。甘やかしすぎるのもどうかと思うけど」
「いいの! 蒼汰は私を甘やかしてくれる、唯一の人なんだから、そういうことを言わない!」
「はいはい。よし、良いよ。あとは血液検査だけど、やる?」
「ゲンちゃん、注射するけど良いか?」
「(口輪をして……自信がない)」
「おう、つけるぞ?」
「(うん)」
「何? じぶんからしろって言ったの?」
空さんは俺を見た。
「はい。自信がないからつけてくれと」
「へぇ……あれ? 蒼汰くん、右手に穴が開いてるよ?」
「ええ、さっきこいつに噛まれたんです」
「消毒は?」
「しました。絆創膏だけいただけますか?」
「うん。はい」
空さんは俺に絆創膏をくれた。
「ありがとうございます」
俺は絆創膏を右手の穴に貼った。
「さっき噛まれたのに、怖くないの?」
「はい。ちゃんと会話しているので。それにこの子、ちゃんと自信がないって言ってくれるので楽です」
「そう……やっぱり君は獣医師に」
「空!」
「ぐはっ!」
空さんの後ろから抱きついていた楓は、両手で空さんの腹部を締め上げた。
「わ、わかった……言わないから、緩めて……苦しい」
「よし」
楓は手を緩めた。
「……もう、楓は蒼汰くんのことになると見境ないな……」
「当然です!」
「あ、そうだ。空さん」
「なに?」
「俺の遺伝子には、俺の能力の情報は書き込まれていないそうです」
「は……? どうして分かるんだい?」
「え……? あ……」
あぁ……そうなるか。
「なんと……なく?」
「……君も楓に負けず劣らず、変な子だね……。じゃ、針を刺すよ?」
「あ、はい。ゲンちゃん、チクッとするけど大丈夫だからな。力を抜け」
「(……うん)」
「どうぞ」
俺が言うと、空さんはゲンちゃんの腕に注射針を刺した。
「キャウン!(痛い!)」
同時にゲンちゃんは声を上げ、体を揺らしたが、それ以上の抵抗はしなかった。
「この子、本当に噛み癖があるの?」
「ええ、この通り」
俺は右手の絆創膏を見せた。
「ああ、そうか。……でも、そうは見えないな」
「それが、蒼汰の力だよ」
楓はまだ空さんに抱きついていた。
「全く……羨ましい限りだ……」
「本当にそう思うの?」
「いや……そうでもない……。楓の言ったとおり、話すことが出来たら今まで以上に辛い……むしろ、普通の精神では居られなくなるだろう」
空さんは採血をして注射針を抜くと、包帯を巻き始めた。
「だよね……」
「うん……よし、終わり」
「ありがとうございました。ゲンちゃん、終わったぞ」
「(もう痛くない?)」
「ああ。もう痛くしない」
「(うん)」
ゲンちゃんは尻尾を振った。
「何……? 本当に普通の子に見えるんだけど……ほんとに噛み癖がある子なの?」
空さんは目を丸くして俺を見た。
「ええ。この通り」
俺は再び右手を見せた。
「あ、そうか……。蒼汰くんのおかげなのか……。しかし楓の周りには、変な奴ばかりが集まるな……」
「空もその一人だけどね」
楓は笑った。
「まぁね。……そろそろ離してくれる?」
「ああ、もういいのか……」
楓は空さんから離れた。




