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ヤマダヒフミ自選評論集

北野武「ソナチネ」の象徴性 〈芸術における象徴性〉


 北野武の映画は一般には「バイオレンス映画」という括り方をされる事が多い。が、武の映画をじっくり見た人には、単なるバイオレンスではない事がよくわかると思う。


 「ソナチネ」という映画では、主人公がヤクザの親分で、ヤクザ同士の抗争がストーリーの基礎となっている。こう書くと、大して面白くなさそうというか、よくあるヤクザ映画の一つのように感じるが、実際にはそうではない。「ソナチネ」はアート的な映画と言われるが、ではアートとはどういう事か、具体的な言及はなかなか成されないように思う。


 「ソナチネ」という作品を優れた作品にしているのは、作者、北野武の死への欲動が、象徴的にフィルムに焼き付けられているからだ。そういう風に、僕は捉える。似たタイプで言えば、北野武よりはレベルが上だが、カフカなんかを思い起こす。カフカに似た作家の作品、小山田浩子の「穴」はどう見ても、小山田浩子の宿命は刻印されていない。カフカの作品は不条理であるとかカフカ的とか言われるが、カフカの場合、彼が立てるプロットそのものが彼の宿命とぴったり一致している為に、どの作品を読んでも飽きない魅力がある。彼の感じる不条理さは、彼自身が自分に感じていた不条理の反映であり、これを真似るのは、他人の宿命を真似る事となり、生半可ではない仕事となるが、宿命は真似ず(無理だろうけれど)形だけ真似るという所に、そうした作家の「宿命」がある。


 「ソナチネ」ではヤクザが出てくるわけだが、どうしてヤクザが出てくるかというと、北野武自身が感じている死への衝動を象徴的に表すに都合がいいからだ。そんな風に見える。


 だから、北野武の銃撃戦では、相手の弾を避けるというシーンがほとんどない。「ソナチネ」もそうだし、「その男、凶暴につき」のラストでも、敵同士が相手の弾を避けずに撃ち合う。撃たれても前進し続ける。


 普通のヤクザ映画では、ヤクザも人間だから、僕らの知っている利害とか功利精神とか、性欲だかとか、そういうものを守ったり、達成したり、侵害したりする為に動いている。現実のヤクザもそうだろうし、僕らもそうだろう。しかし、北野武はヤクザを扱う時、リアルなものへ近づける事をしない。役者からわざとらしい演技を取り除こうとする。


 芝居のうまい役者、橋爪功とか泉ピン子とかいった人は、確かにうまいベテラン役者であるが、彼らの芝居は枠にはまっているように見える。例えば、八百屋のおかみさんだとか、旅館で働く女中とか、ベテランの刑事だとか、社会的に位置づけられた役割を演じる上では能力を発揮する。だが、人間には何者とも規定できない「私」というものがいる。そういうものを考えると、彼らの芝居は宙に浮いてしまうのではないかと思う。確かに、人間は社会においては、役割としての自己を生きるが、同時にどんな役割にも縛られない自己としての自己をも生きる。この実存的な自己は一般には了解されがたい。


 北野武の映画で殺されていくヤクザはみんな棒立ちで死んでいく。それを見ると、彼らは人形のように見える。ボウリングのピンが倒されていくだけにも見える。


 現に、人間をボウリングのピンとしかみなさない人間というのは存在する。が、そのような人間にはああした映画は撮れない。北野武の認識の中では、人間というのは人間として存在しているにも関わらず、それに反して、ボウリングのピンが倒れるようにあっさり死ぬ事は十分あるという事なのだろう。これは、人間をボウリングのピンとみなす事とは違う。また、安易なヒューマニズムからもああした描写は出てこない。人間は意識がある。理性がある。人間をそんなに簡単に汚したり、損害する事はできない。しかし、そんな人間だって死ぬ時はせいぜいボウリングのピンのようなものだ。そんな乾いた認識がある。


 「ソナチネ」に出てくる人物はみんな、そんな乾いた認識に裏打ちされて出てくる。だから、登場人物はみんな、二重の存在として生きているとも言える。つまり、ヤクザとしての自己、表面的にはヤクザの抗争を成り立たせている為に動いている自分であるが、一方では、北野武の認識を受けて、死の際に逃げてはならない、もがいてはならない、それを宿命として受け入れなくてはならない、という深い要素も働いている。だから、「ソナチネ」は芸術作品であると言える。芸術作品とは、「芸術らしさ」を出した作品の事ではない。芸術とは、芸術作品としての形・姿・形式のレベルと、それに対応する作者自身の宿命・認識・人生観が対応するように出てきたものだ。そういうものが芸術であり、表面的にあらわれてくるものと奥にあるものとで二重的になっている。「ソナチネ」はそういう構成が出来ている。


 「ソナチネ」ではプロットの構成も、最低限とはいえ、きちんと出来ている。最初に死があり、中間に沖縄の美しい砂浜、遊びがあり、最後にまた死がある。死の前の遊戯は、死に向かう前のどんちゃん騒ぎであり、キャラクターはみんなその事を知っている。だからこそ、沖縄での遊びの場面も非常に美しいものとなる。自分達が死ぬ事がわかっているからこそ、前夜の遊戯は愉しいもの、悲しいもの、美しいものとなる。それが北野武にもはっきりと捉えられている。


 このようにして、北野武の「ソナチネ」には象徴性、二重性というのが明らかとなっている。普通の小説・映画に僕が感じる不満は、この二重性が絶えず、一重になっているという事にある。一般的には社会的に存在している自己と、宿命的な自己、深い部分の自己を分離する事がない。そこでは特殊は特殊にとどまり、特殊を通じて普遍を表すという象徴性がない。困った事には、普遍は、せいぜい多くの人にヒットした事とか、あるいは抽象性を普遍性と誤解したようなパターンが出てくる。人間の生活、経験、それ自体はどう足掻いても大したものではない。だが、真の芸術家は大したものではないものに、大した意味をつける。それは誇張ではない。芸術家がそれを発見したから、はじめてそれが僕らの目に見えるようになるような、そんな真実だ。(カラマーゾフの兄弟でドストエフスキーが、父殺し事件にいかに巨大な意味を付け加えたのかを想起して欲しい)


 というように、北野武「ソナチネ」には象徴性が出ているように思われる。この象徴性はどこから出てくるかというと、北野武自身が自分と強く葛藤していた事から出てくるように思う。自分と自分とがうまく噛み合わない、整合が取れないという不健全な部分を作品に昇華する。そういう魔術を使う為に芸術家は腕を磨く必要がある。そうした事が揃って、ようやく作品に象徴性が出てくるように思う。


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― 新着の感想 ―
[一言] 北野武という人物で言えば、逸見政孝をはずすことはできないと思う。逸見政孝が48歳という若さでこの世を去り、まるっきり国語の時間、作者はこのときどのような心境で台本を書いたでしょう……ではない…
[一言] >だが、真の芸術家は大したものではないものに、大した意味をつける。  文学における、深刻さ《シリアス》、の意味と、重要性を述べていると思いました。  ある種の滑稽さが、切なさを帯びるように…
[良い点] ソナチネは好きな映画なので、いまこんな上質なエッセイが読めて嬉しく思いました。 どこか死の匂いがするというのは二十歳のころに映画を観たさいにも気づきました。 明るい太陽、砂浜、陽気な遊び、…
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