―猫泉さんシリーズ 2― わすれもの
最初のぐちぐちしているモノローグは面白くありません。
1000文字くらい、すっ飛ばして読み始めてください。
もし最後まで読んでくださって、少しでも面白いと思っていただけたら、最初のところを読んでください^^;
『わすれもの』
「だから来たくなかったんだ」
僕はまた、心の中で繰り返していた。
人のざわめきの中、紫煙のたちこめる中、笑い声、グラスのふれあう音、華やかな笑い声、奇声。ざわめきの中、僕はひとりカウンターに向かい、グラスを傾けた。
「やっぱり来るんじゃなかった」
後悔は、いつかしら確信に変わっていった。
*** *** ***
その葉書が僕の元に届いたとき、僕は思わず苦笑した。
「 斉藤 孝治様
謹啓
私達が高校を卒業して、はや4年の月日が流れました。当時18歳だった
私達も成人し、職に就いている者は社会人としての自覚をしはじめ、高位の
学び舎に進んだ者も、そのほとんどが今まさに社会への第一歩、新たな扉を
開かんとしています。
この先になりますと、今度はいつ集う事ができるともわからなくなります。
そこで、私達3Cの同窓会役員は、この度、卒業後第一回目の同窓会を催す
事といたしました。この往復はがきの返信用葉書の「出席」または「欠席」
のいずれかに○をつけ、今月末までにご投函くださいますよう、お願いいた
します。
なお、期日と場所は別途記載の通りですが、会を有意義なものとするため、
何卒、万事お繰り合わせのうえ御出席くださいますよう、皆様にお願い申し
上げます。
敬具
○○高校 3年C組 同窓会役員一同 」
同窓会予定日には、翌月下旬の土曜日の日付が書かれていた。その日に、特に大事な予定は僕にはなかった。
しかし、高校3年の同窓会は僕にとってあまり魅力的なものではない。
高校時代に置き忘れて来ている何かがあるとすれば、たったひとつだけ。
高校2年の2学期。
中間テストの期間。
「あの話」の続きだけだろうと思う。
僕はためらうことなくボールペンで「御欠席」の「御」を消し「大変残念ですが都合により」と「させて頂きます。」を書き込む。往復はがきを切り離すために葉書をそこに置き、カッターを探す。
戻ってきたとき、僕への宛名書きの下に、先刻は気づかなかった手書きの書き込みがあることに気づいた。
それは小さく、鉛筆でこう書かれていた。
「あのコも来るかもしれないぞ タクト」
僕の手が止まる。
逞人は当然、高校時代の「かなり仲の良かった」友人である。それぞれ違う地方の大学に進学し疎遠になってはいたが、その文字はあの頃のままで、いたずらっぽく僕に笑いかけているようだった。
「あのコ?」
僕は声に出して、つぶやいていたかもしれない。
逞人とは確かに「かなり」仲が良かった。だが「かなり」というのは実に微妙なところで「親友だったのか?」と問われれば「そうでもないかもしれない」とお互いに答えるであろう程度の仲である。
あいつに「あの娘」の話をしただろうか?
大学の友人の何人かには、「お話」として話した記憶もある。だが逞人に話をした記憶はない。もしかしたら話をしたかもしれないが、あのお調子者の逞人が、それをいまだに憶えているとは、にわかには信じられない。
だが、現実にはそこに書き込みがある。そして、僕には彼女の事以外に「あのコ」と言われても思いあたるふしがない。
逞人は以前、僕をクラス委員の「佐々木栄子」とくっつけたがっていた。ならば「あのコ」とは佐々木さんのことなのかもしれない。そう考えて、いまさら解った事があった。逞人は佐々木さんが好きだったんだろう。
僕は苦笑した。
「何年も忘れていた『事』を、客観的に見ることができるまでに、時間が流れていたんだなぁ」と。 「時間に流されて、僕はいまここにいるんだな」と。
そう思ったら、なにか逞人の顔を見たくなった。
僕は返信用はがきを切り離すと、先ほど書いたすべての文字を二本線で消した。「御出席」の「御」を消し、「謹んで」出席「させて頂きます」とした。
翌日にそれを投函した後には、僕はまた「あの娘」の事を忘れてしまっていた。
数日して、詳しい日時と会場の案内が封書で届いた。
今度は逞人からの「番外」メッセージはなかった。
*** *** ***
期日が近づくにつれ、僕の気持ちは重たくなってきた。
「どうして出席するなんて書いてしまったんだろう?」
確かに今でも逞人には会いたいと思う。だが、それ以上に僕の気持ちを沈んだものにさせる「こと」は、「多くの友人達との再会」である。高校時代は、自分でいうのもなんだが多くの「莫迦」をやった。自分の「恥」をギャグにして、級友たちの笑いを取ったりもした。「小説家になる」と公言し、自分もそのつもりでいた。
しかしいま、最高学府に席をおいて四年目。ある程度、それこそ客観的に、自分の「もの書き」としての資質が見えてきている。最大に身びいきをして「悪くない」程度。客観的に見て「多くのものが足りない」自分の才がわかる。
僕はどういう顔をして「彼ら」に逢えばいいのだろうか。
僕の思惑をよそに、確実に日々が過ぎ、同窓会当日になった。
*** *** ***
同窓会は、午後7時から始まることになっていた。
さくらのころまでには、まだずいぶんある、寒い季節。
踏ん切りのつかぬままに、僕は郷里へ向かい、アパートを出る。
すでに「懐かしい」と感じる駅に降り立ったのは、夕方5時ころだった。
駅から会場まで、歩いて1時間ほどかかる。のらりくらりと町を見ながら会場へ向かうことにする。もし、どうしても気持ちが乗らなかったときは、逞人に会費だけ渡して帰るつもりでいた。
「大人げない」
独り言をはきすてる。
そして考える。
はたして「僕」はもう大人なのだろうか。社会に出ていない、一介の学生。歳だけは毎年数えて、法的には成人、つまり大人である。そのくせ社会になにも還元していない半端者。
考えながら、自分ではかなり時間をかけて歩いて来たつもりだった。しかし1時間もしないうちに会場に着いてしまった。
町はずれの港にある、高校時代のクラスメイトの両親が経営する旅館、兼、食事処がこの会場である。
どうしたものだろうか。やはり帰ろうか。
此処まで来た自分を振り返る。なんだかんだ言って、一時間早くここまで来たということは、取りも直さず「来たかった」というのが本音なのだろう。心底来たかったのだが、些細なこと惑わされて自分の気持ちに素直になれない、優柔不断な自分に気づいた。
「あのときも、こんな自分に気づいていたら、はっきり言えたかもしれないのに」
そうだったろうか。ほんとにそうだったろうか。たぶん違う。きっと彼女の事を特別に意識しだしたのは、彼女と離れてしまったのち、二度と会えないかもしれないと思ってからだ。
だから僕はいま、ここに来ている。
ほとんど無いに等しい可能性を期待して。
そのとき。
「あれ? もしかして斉藤君?」
後ろから声がした。
振り返ると佐々木栄子が立っていた。その隣で笑っているのは、鴨井逞人だった。
「逞人、佐々木さん」
佐々木さんが言う。
「早いね。どうしたの? 中に入りなよ」
「あ、うん。そっちこそどうしたんだよ、一緒に」
僕がそう言うと、二人はてんでに下を向いたり上を向いたり、目をそらす。それを見て先日の僕の想像が的を得ていたことを悟る。
「なぁるほど、そういうことか」
僕は笑った。
「久しぶりだな」
いままで何も言わなかった逞人が口を開いた」
「コノヤロ、『あのコが来るかも』じゃなくて、『俺が連れてくよ』って正直に書けよ、始めっから」
僕がそう言うと、逞人はきょとんとしていたが、顔をやや赤らめたまま言う。
「ま、いいじゃないか。とにかく中に入ろうぜ」
「斉藤に報告するのは、それから」
*** *** ***
中には既に、同窓会委員の小林美智子と山本昭典がいた。
会場は、もともと食事処と旅館をやっていた小林さんの自宅で、山本が一番に着いたということらしい。会場と席の準備を5人で始める。余計なことを考える暇もなく、けっこう忙しい。僕も自然に「同窓会委員」の一人になっていた。
「悪いな、手伝わせて」
山本が僕に言う。
「なに言ってんだか。別にお客さんじゃないんだから、好きに使ってくれよ」
僕がそう答えると、小林さんが言った。
「あら、ウチにとってはみんなお客さんよ」
それを聞いて逞人が言う。
「じゃ、お店の方に全部まかせようか」
小林さんが意地悪そうににんまりと笑って言う。
「会場が取れない、って泣きついてきたのは誰だっけ?」
逞人は、バツが悪そうに笑う。
「会場を使わせてくれるなら、俺を従業員だと思って使ってください、って言ったのは誰?」
逞人が笑いながら頭をさげた。
「それは私です」
逞人と小林さんの掛け合いを、僕らは笑いながら見ている。
ぱたぱたと会場の準備がすすんでいく。やっぱり逞人と佐々木さんの息は、ぴったり合っているように見える。逞人のほうが「やや」尻に轢かれ気味だが。
たのしくもあわただしい時間がすぎて、友人達が三々五々、集まりはじめていた。
*** *** ***
佐々木さんから「開会」の言葉があり、クラス42名中28名での同窓会が始まった。仲のいいクラスだったんだな、と今更ながら思う。出席28名遅れてくる予定3名、出席できない者が5名、返事がないのが6名。
僕の「あの娘」は、最初から頭数に入っていない。
「『返事がないの良い便り』だよね」
小林さんが言っていた。そうかもしれない。そうでないかもしれない。だが「そう思っていてあげる」のが日本人の思いやりなんだと、最近わかるようになってきた。
逞人と佐々木さんの「紆余曲折」の話や、多くの友人の「近況報告」を肴に、皆が酒を飲む。ひとしきり盛り上がったところで、僕は友人たちから少し離れたカウンターに落ち着いた。
小林さんは、店の一番いいホールを僕らの為に空けておいてくれたらしい。さほど大きな店ではないが、派手すぎもせず寂しくもない内装の、感じのいい店である。
カウンターに座ってしばらくすると、小林さんがカウンターの内側に顔を出した。
「何か飲む? 斉藤君」
「あ、うん。なんかブランデーをもらえる?」
「水割りでいいの?」
「あぁ、あんまりお酒飲まないから、よくわからないや」
「あはははは、そうだね、斉藤君はあんまりお酒を飲むようには見えないもんねぇ」
「それってどういう意味?」
訊きかえした僕の問いには答えず、小林さんはカウンターにグラスを2つ置いた。
「はい、どうぞ。お酒を飲めないと文豪にはなれないよ?」
小林さんが笑う。痛いところをつかれ、僕は言葉がでなかった。
「右はね、オンザロック。ブランデーのストレートに氷を浮かべた、っていうより氷にウィスキーをかけた物ね。で、左は水割り。ほんとはストレートは手の温度でグラスを温めて、香りを楽しむものだけど、飲みなれない人には刺激が強いかもしれないんで、ロックにしてみました。それから、水割りはダブルって言って、ブランデーの倍の量の水で割ってるんだけど、最初はこっちのほうがおいしさがわかりやすいよ」
「ありがと、やさしいね小林さんは」
「だめよ、本命がいるひとはむやみに人を口説いちゃ」
そういうと小林さんはひとしきり笑って、「今日はウチの家族には店に出てこないように言ってあるから、お代わりが必要なら私に言ってね」と言う。
「本命って?」
僕がとぼけると、小林さんはまた笑うだけだった。
「小林さんは、この店、手伝ってるの?」
「うん、短大出てからね。でも、短大の時もここでアルバイトみたいなことやってたし、居ついちゃった」
「そうか~~、ほとんどプロだね」
「あはは、おだててもお勘定はしっかりいただきますよ、お客さん?」
「あらら」
「もちろん、今日のお客様がたには大奉仕価格ですけどね」
そう言って、彼女はカウンターの隅からホールへ出て、みんなの中に入る。
自立している者、社会に適応している者、結婚した者、結婚するだろう者たち。表面は変わらないようでいて、その実はしっかり「自分を確立」し始めている友人たちを、羨望とも嫉妬ともつかない気持ちで見ている自分がいることに気づく。
*** *** ***
そして僕はつぶやいた。
「だから来たくなかったんだ」
自分がいかに考えなく生きているか。
高校の頃から、あいもかわらず絵空事に浸って、社会に出ることも社会を考えることもなく、「学生」という名目の社会に対する「支払い猶予」を与えられ、それに甘んじている自分を見つけてしまった。
「やっぱり来るんじゃなかった」
後悔は、いつかしら確信に変わっていった。
「どうしたの? 浮かない顔して」
僕が水割りを飲みほし、氷が溶けかけたロックに口をつけた時、後ろから声がした。
「ここ、あいてるよね?」
僕の右隣の席に、一人の女性が腰かけた。
僕は顔をあげ、彼女を見る。そして、そのまま言葉がでなくなった。
「おひさしぶり、元気だった? 斉藤君」
そこには彼女、猫泉沙希が座っていた。
「ね、こ、いずみさん?」
やっとのことで僕が声を出すと、彼女が微笑む。
「よかった、憶えていてくれたのね。もうすっかり忘却の彼方へと葬り去られてるかと思った」
そう言って、くすりと笑う。
「そんなことないさ」
いつだって君の事を考えていたさ、と続ける勇気は僕にはない。
「ほんと、あの時以来だものね。斉藤君、憶えてる?」
「あの時って、中間テストの?」
「うん」
「そりゃぁ、憶えてるさ」
情けない、と思う。あれほど思った猫泉さんが目の前にいるのに、何を話していいのか見当もつかない。なんとか言葉を紡ぎだす。
「いっつも猫泉さんは突然現れるんだね。あの時もそうだった」
猫泉さんは、あはっ、と笑って、
「いっつも、ぼ~~~っとしてるよね、斉藤君は。あの時もそうだったわ」
そう切り替えしてきた。僕は笑った。
「あ、やっと笑った。あたしの事、憶えていてくれたのね、ありがとう。斉藤君があたしの事忘れてたら、帰ろうかと思ってたのよ」
「え?」
僕はまた、返答に窮する。
「あはは、嘘うそ。ごめんね、いじわる言って」
「いや、別に。気にしてないけど」
「『けど』、なあに?」
「あ、いやその。猫泉さん、おこらない?」
「なに? もちろん、場合によっては怒るけど?」
そういう猫泉さんの顔は笑顔で、舌を出してみせる。
「猫泉さん、なんでここにいるの?」
これは3Cの同窓会である。猫泉さんは2Cの時のクラスメイトなのだ。確かに2年から3年への進級時に、クラス替えはなかったけれど、なぜこの同窓会に猫泉さんが来ているのか、それが僕には不思議だった。
猫泉さんは、カウンターに腰かけたまま椅子を回し、窓の外、はるか夜空を見るようにして言った。
「美智子がね」
美智子とは、当然、小林さんのことである。
「誘ってくれたの」
そう言ってから、僕のほうに向きなおる。
「同窓会をやるんだけど、クラス会みたいなものだから、よかったら来ない?って」
「ふ~ん、猫泉さんは小林さんと仲がよかったんだ」
「そうね、クラスの中では一番、仲がよかったと思うわ。斉藤君を除いてはね」
猫泉さんがいたずらっぽく笑う。
僕の心臓が躍る。
「えっ!?」
猫泉さんは僕の動揺を見逃さなかった。
「だってね、私の田舎の話をしたのって、斉藤君だけだよ?」
僕は、今度は明らかに落胆の表情をしたかもしれない。
「なんだ、そういう意味か」
「がっかりした?」
猫泉さんの好奇のまなざしが僕に向けられている。
僕は思い出していた。そうだった、猫泉さんはこうい風に、話を自分のペースに持ち込むのが上手い人だった。
僕はありったけの勇気を振り絞って、言った。
「ちょっとね、がっかりした」
そして、「ありったけの勇気」の、あまりの小ささに自笑する。
その言葉の真意に、まったく気づかないように、猫泉さんは話を続ける。
「ところでさっき、斉藤君、すっごくむずかしい顔をしてたけど、何を考えてたの?」
「さっきって?」
「あたしがここに腰かける少し前」
「ああ」
猫泉さんが僕の顔をのぞきこむ。僕は目をそらせる。
「変わらない自分が、なさけないなって考えてたんだ」
「かわらない、って?」
「今日みんなに会って、小林さんとか、逞人と佐々木さんとか、みんな明らかに『あの頃』とは違って、成長してるっていうか、進歩してるっなて感じたんだ。でも自分を振り返った時に、僕はどうなんだろうって思ってたらね」
僕は猫泉さんを見る。彼女が不意に「にこっ」と微笑む。
「いいんじゃないの? 皆はみんな、斉藤君は斉藤君、あたしはあたし、猫はネコ」
「最後のところが、よくわからないけど?」
「あはっ。みんなが一緒じゃつまらないじゃない。進む人がいて、戻る人がいて、とどまる人もいる。みんな同じように進めないってことは、高校の時に思い知ったじゃない、私たち」
「そうだね、でも」
「やだなぁ、斉藤君らしくないよ? 『小説家になる』って言ってた斉藤君は、なんていうか、まぶしかったよ」
「なんかさ」と僕。
「うん?」と猫泉さん。
僕は目を伏せ、苦し紛れにつぶやいた。
「そういう一言ひとことが、今夜は胸に刺さるんだ」
猫泉さんは、しばらく黙っていた。どういう表情をしているのかわからない。だが僕には、猫泉さんに向きなおるいかなる力をも、もう持ちあわせてはいなかった。
「ギャップに喘いじゃってるのね、今夜の斉藤君は」
「?」
「あわてることないって。『明日はかならず今日になる』から」
「励ましてくれてるの?」
「そう聞こえるのは、斉藤君が弱気になっているからよ」
ふたたび、しばしの沈黙。本来は僕が何かを言うべきところなのだろうが、言葉が紡げない。
「わかった!」
唐突に猫泉さんが言った。
「斉藤君、酔っぱらってるね?」
僕の顔をのぞき込んで、猫泉さんは「あははっ」と笑う。
「何を飲んだの?」
「うん? 小林さんが作ってくれた水割りとロック」
「お酒、強いの?」
「いや、たぶん、まともに飲むのは今日がはじめて」
「あらら、それじゃしょうがないわねぇ」
猫泉さんは「おめでとう、初よっぱらい」と言うと、また笑う。
そうか、この言葉が出てこない状態が「酔っぱらった」状態なのか、と恥ずかしながら、かなり鈍くなった頭で、僕は思った。
「ねぇ」
猫泉さんは僕の顔をのぞき込むようにして言う。
「ちょっと、外に出て酔いを醒まそうよ」
「どうして?」
僕がそう答えると、猫泉さんは少し気分を害したように言う。
「あたしね、ほんとは美智子のことはどうでもよくて、斉藤君とお話ししたくて、ここに来たの」
猫泉さんが僕を見る。僕も猫泉さんを見る。やがて今度は彼女が目をそらせた。カウンターの向かいの壁に視線を移して言う。
「だから、酔っぱらった斉藤君とじゃ、話をするの、ちょっとつまらない、って言ったらわがままかなぁ?」
その瞬間に、僕の酔いはずいぶん醒めたのだろう。実際はどうなのかわからないが、少なくとも僕の頭は冴え、胸は高鳴った。
「それって、僕は喜んでいいのかな?」
「もし、喜んでいただけるのならば」
そのあと、猫泉さんは誰に言うともなくつぶやいた。
「来たかいがあったかな」
*** *** ***
「ちょっと外で涼んでくる」
僕が逞人に言うと、彼は怪訝な顔をした。
「涼むって、外はけっこう寒いぜ?」
「お酒なんていう、日ごろ飲みなれないものを飲んだから、のぼせちゃってさ」
笑ってそう答える僕の言葉を聞きつけて、小林さんが来た。
「ごめんね、あたしが変なものを飲ませたから」
「気にしないでよ。お願いしたのは僕のほうなんだから」
「でも」
「僕がお酒に弱いだけだよ」
「そう? 気持ちが悪くなったら言ってね」
「大丈夫、きっと外に出れば酔いも醒めるよ」
「わかった」
逞人たちにそう言い、僕と猫泉さんは外に出る。
ドアを開けると、此処についた時には気づかなかった海の匂いがする。
「潮の香りだ」
猫泉さんも、僕と同じことを感じたらしい。そうつぶやいた。
僕はこたえる。
「ほんとだ。この町からずいぶん離れていたみたいだ、懐かしく感じるなぁ」
「斉藤君は、いまどこに住んでるの?」
「M市」
「そっか、斉藤君もこの町から離れたんだね」
「でも、ほんの数年なのにずいぶん懐かしく感じるもんなんだね」
「お正月とかお盆とか、実家に帰ってこないの?」
「うん。両親が仕事の都合で他の町に移っちゃったから、この町にはもう、縁もゆかりもないんだ。親のいる街に行っても、ぜんぜん『帰った』って気はしないしね」
「そうなんだ。それもさびしいね」
「なんか、もう一人暮らしも4年目だからさ。逆に一人になれちゃって、親元へ帰るのが面倒くさくって」
しばらく、間があった。
「御両親はお元気なの?」
彼女は、なにか切なさそうに言った。
「あ・・・」
そうか、猫泉さんはお父さんを亡くしていたんだ、と思い出す。
「うん。元気」
猫泉さんは黙っている。
「ねぇ、猫泉さん」
僕はちらりと彼女を見て、また視線をそらす。
「僕はね、こないだ言い忘れた、いや、言えなかったことがあるんだ」
「こないだ?」
猫泉さんが訊きかえす。
「そう、猫泉さんと僕の、こないだ」
僕は猫泉さんを見つめる。彼女も僕を見ている。
「高校2年の1学期末。あの日の教室で言えなかったこと」
僕がそういうと、彼女は「わかってる」というようにうなづく。
「うん」
「僕はあの日からずっと」
「うん」
「猫泉さんが好きなんだ」
猫泉さんは黙っていた。
そして、微笑んだ。
「ほら、斉藤君だって成長してるじゃない」
「え?」
突然で何のことか、僕にはわからない。
「あのときには言えなかったことが、言えるようになったでしょ?」
彼女はもう一度微笑む。きっと僕は酔いではなく、耳まで真っ赤になっていたに違いない。
「でもさ、僕は『あの日』から猫泉さんを好きになったんだから・・・」
「また言ってくれたね」
「うん?」
「『好きだ』って。一度言ったから、もう言わないのかと思った」
うまくはぐらかされた気持ちだった。
「あたしも、斉藤君のこと好きだったよ」
「過去形なの?」
猫泉さんが、こんどはにこにこしながら言う。
「そういう、ちゃぁんと予想どおりの返事をくれるのって、すごいね」
僕はもう一度、彼女に訊ねる。
「過去形なの?」
猫泉さんは「うふふ」と笑って、風に揺れる前髪を右手でおさえる。
「好きだったよ、あの日よりも前から。いままでずっと」
僕たちはしばらく黙っていた。
僕は彼女にキスをすることができた。
*** *** ***
「寒くなってきたね」
猫泉さんが言う。
「頭が痛くなってきた」
僕が笑って言う。
「酔いが醒めてきたんだね」
「中に戻ろうか?」
「うん」
店の前まで戻ってきて、扉を開けようとする僕に、猫泉さんが言った。
「ちょっとまって」
「なに?」
「これ、あたしの住所と電話番号」
「どうしてここで?」
「みんなに見られると、恥ずかしいから」
「そうか」
僕はそれをジーンズのポケットに入れた。
そして扉を開ける。
*** *** ***
「斉藤君。起きなよ、風邪ひくよ」
僕の肩を揺さぶる者がいる。
「大丈夫?」
声の主は、どうやら小林さんらしい。
「あれ? 小林さん??」
僕はカウンターから顔を上げた。
「すっかり眠っちゃったみたいだね。寒くない?」
「あ、うん。大丈夫」
「ごめんね、あたしが変なものを飲ませたから」
「それは、さっき聞いたよ」
「?」
僕が笑うと、小林さんは妙な顔をした。
「それより、猫泉さんは?」
小林さんに訊く。
「猫泉・・・・って、沙希のこと?」
「そりゃそうさ、ほかに猫泉さんがいるの?」
「う~~ん」
返事に困った顔をして小林さんは、「よいしょ」と言いながらカウンターの中の、ちょい掛けの椅子を引き寄せ、そこに座った。
「あたしも、あの娘とはクラスで一番、仲がよかったつもりだったんだけどね」
小林さんが、さっきの猫泉さんのように、まどの外、夜空に視線を移す。
「転校してから今日まで、一度も連絡がとれないのよ」
僕は言葉をうしなった。
さっきまで、ここに猫泉さんはいたじゃない?
しかし、その言葉はのど元まで出かかって止まった。
「斉藤君、ほんとはあの娘に会いたくて、ううん、会えないかと思ってここにきたんでしょう?」
僕は黙っていた。
「じつはね、今日の同窓会名簿には入れてなかったけど、沙希にも同窓会の招待状を出したんだ、あたし」
椅子に腰かけたまま、小林さんの手は、彼女の意識とは独立しているかのように、勝手に動き水割りを作っている。
「でも、返事はこなかった。宛先不明で戻ってきたわけじゃないから、きっと沙希のところに届いているんだろうけど」
そういうと、小林さんはグラスを煽った。
「ちょっとさびしいよ。沙希」
最後は独り言だった。
僕は小林さんに言った。
「いまね、夢をみていたんだ」
小林さんが僕を見る。
「夢? どんな?」
「猫泉さんがね、この同窓会に来ている夢」
やや間があって、小林さんはにっこりと笑う。
「いいなぁ、斉藤君。ひとりであの娘に会ってたわけだね?」
「でも夢の中には、小林さんもみんなもいたから、一人で逢ってたわけじゃなかったけど」
「沙希、あいかわらずだった?」
「うん、あいかわらず・・・」
僕も窓の外の夜空に目を移し、言った。
「不思議な人だった」
それを聞いて、小林さんが「あははははっ」とおかしそうに笑う。
「なんかねぇ、あの娘はあの頃から世間ずれしてないっていうか、世間とずれてるっていうか、おかしな娘だったよね」
「ふぅん、そうなんだ」
「斉藤君、あの娘のこと、あんまり知らないの?」
「うん。だって気が付いたら転校しちゃってたもの」
また、小林さんが大笑いをする。小林さんもかなり酔っているようだ。
「それは悲劇だね」
どうやら僕の、猫泉さんに対する気持ちは、小林さんにはバレバレのようだ。
「いやぁ、悲劇になる前に終わってるから、けっこう喜劇だよ」
「そんなもんですかねぇ? ご本人様においては」
「そんなもんかもね。ご本人様において」
小林さんが、新たに水割りを作った。
「よぉし、あたしのおごりだ! 斉藤君、飲め!!」
「酔ってきた? 小林さん」
「これが酔わずにいられましょうかってんだ」
笑う小林さん。
「ここにいない親友にかんぱい、か」と彼女。
「お互いに、猫泉さんに忘れ去られていないことを祈って、乾杯」と僕。
それをきいた小林さんは、また笑って「ほんとに鈍いね、斉藤君は」とつぶやいた。
だがそれは、その時の僕には聞こえなかった。
*** *** ***
翌日、自分のアパートで目覚めた僕は頭痛で、ゆうべの事が夢ではないのだろうと思うことができた。ただ、ほんとうにどうやってアパートまで戻ってきたのかは不明だった。
あの時間からさらに飲んで、この町に帰ってくる電車がよくあったものだ。
帰ってきて、そのままの姿で眠ったらしい。さいわいなことに、靴は脱いでいた。
記憶にあるジーンズをはいている。
財布は?
ジーンズのポケットに手を入れる。
「あれ?」
メモ用紙が一枚入っている。
そこには住所と電話番号と、名前が書かれている。
「猫泉 沙希」
顔を洗ったら電話をしてみよう、と決意した。
今日はまだ日曜日だ。動こうと思えば、いくらでも動ける。
そうさ彼女なら、これくらいのトリックは朝飯前のはずだもの。
*** *** *** おしまい
完読していただけたなら、望外の喜びです。
この、「猫泉さんシリーズ」は「1」がありますので、本作を気に入っていただけたなら、そちらも読んでいただければ嬉しく思います。
このシリーズ、ホントは3部作で、構成も考えてあるのですが、なぜか他作を書いてしまい、完結しません。猫泉さんを終わらせたくないのでしょうか、私?
なので「この話で完結」との設定をしました。
ともあれ、ここまでお付き合い、ありがとございました。
完読に感謝いたします。




