―猫泉さんシリーズ 1―
前振り(最初の630文字くらい)は面白くありません。
猫泉さん登場のところから読み始めて頂いて結構です。
最後まで読んでいただけたならば、幸いです。
そのときはお付き合いで、最初の630文字も読んでみてください。
「猫泉」という名前を見て、皆さんはどう思われるだろうか?
僕が初めてこの名前を見た時は、どうにも奇妙に感じたのを憶えている。
実は、僕の高校時代のクラスメイトに猫泉さんという人がいた。同組になるとしばらくして、猫泉さんは転校してしまったので、ほんの数カ月間の事しか彼女を知らないのだが、明朗で、はっきりした目の光を持った人だった。
あまり話をしたこともなかったせいか、それ以外に特に記憶がないのだが、ひとつだけ彼女から直接、その名前の由来について話を聞いた憶えがある。
その話をしようかと思う。高校二年の二学期、中間テスト開始前日の話だ。
その日、僕は皆のいなくなった教室内で、自分の席に座りぼおっとしていた。明日のテストのために、ほとんどの生徒は帰ってしまっていた。
僕は、静かな校舎で独り、いつもはあまりに多過ぎて、一つ一つは聞き取れない、人が廊下を歩く音だとか、微かに校舎内を流れる空気の感触、外を吹く風が窓の隅で唱う密かな歌、そういったもの達を身体で感じていた。
普段の放課後でも出逢うことの出来る物達ではあったが、いつもは、自分の中のほんの片隅に萎縮してしまっている部分が、ほとびらいて、そういった事象と出会えるのは、明るく、のんびりした昼間の光りに包まれた、テスト期間の、放課後の教室に勝るものはないように思われた。そんな時間が好きだった。
そこへ猫泉さんが入って来た。
「あら、斎藤くんまだいたの?」
猫泉さんは、忘れ物を自分の机で探しているようだった。僕は彼女の登場が、あまりに唐突だったのに驚いていた。あれだけ様々な音に聴き入っていたというのに、猫泉さんのやって来る気配には、まるで気がつかなかったのだ。
僕は、そのときは半分眠ったような状態にあったのできっと、夢と、今ここにいる自分を取り違えてしまっていたからだろうと納得する事にした。勿論そのときは、そんなことが脳裏にひらめいたに過ぎなかったのだが。
「ああ驚いた、猫泉さんか」
「一人で何してたの? 明日の一時間目、数学よ」
彼女は捜し物を見付けたのか、僕の方に歩いて来る。
「自信あるんだ?」
「いや、べつにそういうわけじゃなくって、テスト期間の放課後って、静かで好きなんだ」
「ふうん、そぉねぇ」
そう言って猫泉さんは、ちょっと僕から視線を外して聞き耳を立
てていた。
「確かにいつもじゃあ、信じられない静けさよね」
「だろ?」
僕は、独りでやっていた暗い楽しみについてのそれ以上の追及を恐れた。だが、それ以外に特に話題を持っていた訳でもなかった。
「....ところでさ」
「何?」
「猫泉さんって、変わった名前だね」
こういう時は、いつも思っていることがついつい口をついて出てしまうものらしい。猫泉さんの表情が微妙に変わったのを見て僕は、まずいことを言ってしまったかな、と思った。
変わっていると感じるのはその人の主観であって、逆に言えば『斎藤』だって、変わっていると言えばそれまでのことなのだから。
だが、猫泉さんの返事は僕の予想とは違っていた。
「そうでしょ? 変わってるでしょう」
彼女に対する失礼を非難されなかったことで、僕は、つい雄弁になってしまった。
「江戸時代の、いわゆる平民が姓を名乗って良くなったときって、えらく安直に名字をつけたみたいじゃない? でも『猫泉』なんて、ちょっとおもいつかないよね。それとも、もとから武家かなんかで、『猫泉家』ってあったの?」
「ううん、やっぱり後で付けた名字らしいわ。この名字にはね、面白い話があるの」
猫泉さんはいたずらっぽく、にこにこっと微笑う。
「聞きたい?」
「聞きたいな。でもいいの? 明日のテストの一時間目、数学だよ」
僕の揚げ足取りに、猫泉さんはちょっと面白くない顔をして言う。
「斎藤くんって、小説家志望なんじゃなかったっけ? せっかく面白い話をひとつ、提供しようと思ったのに」
「あっ、嘘うそ、聞きたい聞きたい」
「よろしい、話してあげよう。君のためだ」
「へへぇい、ありがとうございますぅ」
ひとしきり笑うと、僕の斜め前の席に横向きに腰掛けて、猫泉さんは話を始めた。
「おばあちゃんから聞いた話しなんだけど、あたしのお母さんの本籍は〇〇県の、地名に大字がつくくらいの田舎なの」
僕は実に、日本のものですら地理に疎い。しかも、この話はこれ一回きりしか聞いていないので、彼女の出身が何県であったか忘れてしまった。北の方だったような気もする。そうでなかったような気もする。
「その村のはずれに、『猫捨ての泉』っていう通り名の泉があったの」
「ねこすてのいずみ?」
「そう、『猫捨ての泉』。何でもそこが村になる前、つまり人々がそこに住み着く前から泉はそこにあって....」
「泉があるから、人が集まって村になったんじゃあないの?」
「おばあちゃんの話のニュアンスからすると、どうもそうじゃないみたいなんだけど....」
「ニュアンス? どういう風にちがうの?」
「もう、あたしにしゃべらせてよ」
「ごめん、ごめん」
「村が出来たころの人々は、その泉を恐れ、嫌っていたらしいのよ」
「?」
「泉っていうくらいだから水が奇麗でしょう? 誰かが泳いだらしいのね。そしたら、泉の底に無数の猫の骨が沈んでいたの」
鄙びた農村のはずれにある、古い木立に囲まれた泉。静かに澄み切ったその水底に累々と積み重なる、夥しい量の小動物の白骨。そんな光景を想像して、僕はぞっとした。
「村人達は、どうしてそこにそんなものがあるのか不思議がったわ。でもきっと、新しい土地を開いてそこに住み着かなければ、やっていけない時代だったんでしょう、泉に近付く事をタブーとして村はできあがったの。
その骨を見つけた人は勿論、それからは誰もそこで泳がなかったから、本当にそれが猫の骨だったのかは解らなかったけれど、村で飼われていた猫だけが、つまり犬とか鶏とか他の家畜じゃあなくて、猫だけが年老いるとある日姿を見せなくなるって事からも、それは村人の間では真実だったらしいわ。
もしかしたら、はじめは何の骨なのかは解らなかったのが、猫ばかりいなくなるから、猫の骨だったんだろうってことになったのかもしれない。けど、ともかく人々はそこには近付かなかった。たくさんの動物、とくに、化けて出るような猫の死体が大量にある場所なんて、今の人でもちょっと行かないんじゃないかな?
ところが、やっぱりいつの世にも臍曲がりっているのね、ある夏の夜、おばあちゃんは何時なのか言わなかったけど、泉の水って冷たそうじゃない、だから夏だと想うんだけど、夏の夜に一人の若者が泉で泳いだの」
「....。」
「勿論、泳いでいるところを誰かに見られたわけじゃあないのよ、しばらくは誰にも知られなかったわ。その代わりに若者は、家に 帰ると高い熱を出して寝込んでしまったの。いつまでたっても熱が下がらないものだから、両親が心配して村長に相談をしたんだって。
昔の村長って物知りだったから村長になったわけでしょ? でも村長にもその熱は治せなかった。日に日に若者は弱っていく。小さい村だから、いつの間にか皆がそれを知って、若者を心配したの。
きっと、少ない若者の労働力って貴重だったんでしょうね、皆で彼を治そうとした。
でも、熱は下がらない。
そんなある晩、村長は夢を見たの。
年老いてはいるけど、凛とした風格のある、白髪の老人が出て来て村長に、若者を治したいかって訊いたんだって。
村長はその老人に訊き返したの、随分高貴な身分の方だとお見受けしますが貴方はどなたですかって。するとそのひとは、自分は猫泉を治める神だって答えたんですって」
そのころの僕はもうすっかり猫泉さんの話に聴き入っていた。
「そこは村長をやる人だけの事はあって、ピンと来るものがあったのね、若者が何か粗相をしたのかを訊くと、神様は、猫達が閑かに眠っている泉で若者が泳いだ事を村長に告げたの。永眠を妨げられたことを怒って、猫達が若者を責めさいなんでいる、だから若者は苦しんでいるんだって。
そのとき初めて、村長は神様の最初の質問に答えたの。若いうちには、何も知らないで犯してしまう過ちはあるものではないでしょうか。私達は神ならぬ身です、間違いをするからこそ、そういう時には貴方がた神様がいて、正しい道を指し示してくれるべきでしょう。あの若者は、まだまだこの村にとっても、彼自信のためにも生きる必要がありますって。
救ってあげて下さいって。
そしたら神様は、確かにお前の言う通りだ、けれどお前の言う通りだとしても、神として若者には罰を与えなければならない、それでなくては猫達も納得しないだろう、若者の力が本当に村にとって必要だというのならば、お前の娘を若者に嫁がせるがいい、そうすれば私はお前の本心からの申し立てとして、お前の言う通り若者を許す事にする。
そう神様が言った所で村長は夢から覚めたの」
多分話のこの辺りでだったと思う、猫泉さんは思い出したように声をあげた。
「あっ」
僕は驚いて、同時に現実に引き戻された。
「どうしたの?」
「そうよね、若者が一度泳いだだけで祟られたなら、それ以前に泳いだ人なんている筈ないのよね。つまり、村が出来てから後、猫がいなくなるから『猫捨て泉』って呼ばれるようになったのよね」
「うん。でもさ、初めて泳いだ人からその若者が泳ぐまでの間に、どのくらいの時間があるのかが判らないもの、もしかしたら初めの人だって死んじゃったかも知れないし、そのときは村が村の形態をなしていないころだったろうから、村長なんて人も居なかったかもしれないじゃない。そしたら、神様だって誰のところに行けばいいのかわからないよ」
「そっか、なるほど....」
猫泉さんは、自分に言い聞かせるように、微かにうなずく。そして嬉しそうに、僕に言った。
「斎藤くん、なんか、ナイスフォローだね」
僕は、ちょっと照れくさくなって、話をもどす。
「んで? 村長は夢から覚めてどうしたの」
「うん、それでね、やっぱり若者の熱は下がってたの。でもね、ほら、よくあるじゃない、高熱を出し過ぎておかしくなっちゃうって」
「ふんふん」
「若者もやっぱりそうだったんだって。でね、村長は迷ったのよ、可愛い一人娘でしょ? 昨晩の夢だってただの夢かもしれないんだし」
「村長さんには娘がいたんだ?」
「うん、とびきりの美人だったんだって」
「へえ、そんなことまで知ってるんだ、猫泉さん」
「この話、好きだったからおばあちゃんに何度も聞いたもの」
「そのわりには、先刻みたいに気付かないこともある、と」
彼女は、今度は少々憮然としてみせる。
「いいでしょう? 気付かなかったんだから。とにかく、村長は悩み抜いたあげくに娘を若者に嫁がせたんだって」
「いい話だなあ」
「いいのはここよ、村長はね、たとえ昨晩の夢がただの夢だったとしても、自分が夢で神様に言ったように、それがどんなことであっても、若さゆえの間違いを許してあげられるだけの器が自分にあるならば、人は間違いを繰り返して成長するものなんだと本当に自分が信じられるならば、そして、若者の未来を本当に思っているならば、その証明として娘を若者にやるべきだと考えたの」
「人間としての包容力の問題ですねぇ」
僕のちゃちゃを、猫泉さんは知ってか知らずか無視した。
「そう、つまり神様の夢が自分の空事であろうとなかろうと、自分の内面の問題として、人間の成長についての持論が口先だけのものでないことを、誰に対してでもなく、自分自身に対して証明する時なんだと思ったんでしょうね」
「よく娘さんは承諾したね」
「出来た人だったんでしょうね、お父さんの信念のためならば一生を投げ出しても耐えられるってところが何か素敵ね」
「いや、きっとその娘さんだって、人間の成長についておんなじ意見を持っていて、やっぱり自分の信念のために嫁いだんだと思うなあ。それでなくちゃ、やっぱり封建的で、理不尽で、可愛そう過ぎるもの」
「そうね、でももしかしたら....」
また、彼女はいたずらっぽく笑って、言った。
「....もともと、その人のこと好きだったって事も、ない話じゃないわよね」
なぜか猫泉さんは、一人で顔を赤らめる。
「んで? どうなったの」
「その後、若者はもとの様に元気になって、村のために一生懸命働きましたとさ」
「めでたし、めでたし」
「とっぴんからりこ、しゃん」
僕は、何か妙に良い話を聞いたようで、もうけた気分になっていたが、何か忘れている気がしていた。
「そうだよ、それが『猫泉』さんの名前とどういう関係があるのさ」
「解らない? 斎藤くんって国語得意だし物判りが良さそうだから、もう解ってるかと思った」
「? ....解らない」
「そう? だからね、その若者は娘さんと結婚して村の片すみに家を構えたの。
村の人達は猫の泉の神様が結びつけたん だからって、二人の事を『猫の泉の』って呼んだの。わかるでしょ、『おう、”猫の泉のっ”』ってね」
「....」
「そして時は流れて、そういった人達にも姓を名乗れる時代がきたのよ」
「『猫の泉の』....」
「そう、それで『猫泉』」
「猫泉さん....?」
僕が改めて彼女を見なおすと、猫泉さんは、微笑みながら椅子から立ち上がる。
「どう、おもしろかった?」
「でも、嘘でしょ? 出来過ぎてるもの」
「やっぱりそう思う?」
「そりゃあ....」
「でも、あたしだって、随分とつじつまのあわないこと言ってたでしょ?」
「でも....」
自分でも猫泉さんの話を信じたのか、そうでないのか判らなかった。
僕は何だか、狐か猫かは知らないが、何かに騙されているような、釈然としない面もちで、彼女を見つめていたのだと思う。
突然、猫泉さんが声を上げて笑い出した。
「ごめんね、斎藤くん。嘘うそ、みんな嘘。実はさ、あたしも小説家志望なの。で、前からいっぺん、斎藤くんに、こんな作り話を聞いてもらいたいなあっておもってたのよ。斎藤くんって、小説家になるって公言して憚らないでしょう? だから羨ましくって。で、ついでにあたしの励みにもなってたから」
「嘘なの?」
「うそうそ。作り話」
そういって、猫泉さんはおかしそうに、ひとしきり笑った。
僕はほっとした反面、どこかでひどく侮辱されたような気分だった。またどこかでは、してやられたことで彼女に親しみを感じ、敬服の念まで生まれていたように思う。
僕も、何か腑におちない妙な顔をしたままで笑った。
ふと、彼女は笑うことをやめて、「でももしかしたら本当かもしれないよ」と言った。
「おばあちゃんのしてくれた話に脚色したのはあたしだけど、でもあたしは本当に『猫泉』なんだから」
そう言う彼女の横顔は、まだ夢見がちな少女の様でもあった。
そのとき初めて僕は、猫泉さんを「かわいい」と思った。友人として、この娘と出逢えてよかったなと思った。
「猫泉さん」
「何?」
「もしかしたら、作家としての能力は猫泉さんの方がずっと優れてるね。僕は自惚れていたのかもしれない」
僕はそう言った。負けず嫌いの自分がこんなことを言うのは自分にも信じられなかったが、まったく謙遜抜きでそう思った。
「そんなことないわ....」
猫泉さんが言葉を続けようとしたとき。突然、窓から何かが飛び込んで来た。
「....!」
それは白い猫であった。猫は猫泉さんを見上げて「にあ」と一声鳴いた。
「えっ?」
猫泉さんは小さく、しかしはっきりとそう言った。
猫はまた、入って来たときと同じように唐突に窓から出て行った。
「おっかしいなあ、ここ三階だったよね、猫泉さん」
僕は席を立ち、窓に近付いた。窓から見下ろしてももう猫はどこにも居なかった。振り返ると猫泉さんが慌てたように言う。
「ごめんね斎藤くん。長くしゃべり過ぎちゃったみたい、あたし、もう帰らなくちゃ」
「あ? うん、じゃまた、よかったら、面白い話し、してよね」
「うん、じゃあ、さよなら」
「さよなら、気をつけて」
彼女はそそくさと教室のドアに向かう。ドアを開け、後ろ手にそれを閉めようとした彼女の動きが止まった。
「斎藤くん」
「ん、なに?」
「おばあちゃんの話、ひとつ言い忘れたんだけど」
「?」
「一緒になった二人が授った赤ん坊は、猫の言葉が解るちからを持っていたの。それから、その猫泉家にはずっと女の子だけしか出来ずに、お婿さんをもらって家を継いで来たんだって」
「え?」
突然、何を言ってるんだろうかと僕は思った。
彼女は続ける。
「猫泉家の一人娘は、猫の言葉がわかるの」
それだけ言うと彼女はドアを閉めて去った。
僕はしばらくそのまま教室に佇んでいた。
次の日、僕達は担任教師から、猫泉さんのおやじさんが交通事故で亡くなった事を知らされた。
なんでも猫泉家に婿に入るときの約束で、葬儀は母方の実家でひっそりと挙げるそうである。それから、ついでに彼女も田舎に戻るのだそうで、ついにそれきり、彼女とは会わずにしまった。
僕は、その後も小説家になることを夢みて、しがない大学の文学部に入り、講義の時間以外はひがな一日、出来損ないの物語を捻り出す日々を送っている。
こうして書き物をしていると、時折、トリックに長けた才女の事を思い出すのだ。
あの話が本当だったのかどうかは別としても、昔語り風の奇妙な秀作と、どこかの文芸誌上で再会したいものだ、などと、ふと思うのである。
完読していただけたなら、望外の喜びです。
猫泉さんシリーズは「2」までありますので、気に入っていただけたなら、そちらも読んでいただければ嬉しく思います。
ここまでお付き合い、ありがとございました。




