4、「こうである蓋然性が高い」ということは……
「関ヶ原の戦いが起こった蓋然性が高い」
こう口にした時、同時にあることも言えてしまいます。
「関ヶ原の戦いが起こらなかった可能性も少しとはいえある」
と。
実際にはその蓋然性なんて無視できるほどのものでしかありませんが、厳密にはその芽を摘むことはどうしたって出来ません。なぜなら、それが推論というものだからです。
これ、実はわたしも江戸しぐさ批判の時に直面した問題です。
わたしは江戸しぐさについては江戸時代には実在しなかったであろう派の人間です。江戸の習俗として見たとき、明らかに不自然な点が多すぎます(詳しくはググって頂けるとわたしの言わんとするところが分かると思います)。そのため、江戸しぐさなかった派の人々は(わたしも含め)その「存在しなかった蓋然性」を高くすべく、様々な推論を積み上げるわけです。けれど、なかった派の人々がどんなに頑張っても、「絶対に存在しなかった」域にまでは到達しません。繰り返しますが、そもそも推論とはそういうものだからです。99.99999999……%までは迫ることができますが、100%までは迫ることができないんですね。
けれど、これ、江戸しぐさはあったんだ派からすれば、(限りなく零に近い蓋然性とはいえ)江戸しぐさが存在する可能性はある! と居直ることができるということでもあります。
そして、往々にして蓋然性の低いことを述べる人々は、こうやって自己弁護をします。
「信じるか信じないかはあなた次第」
「○○が起こる可能性は必ずしも零とは言えない」
どちらも嘘をついてはいません。けれど、こういうことを言う人は、蓋然性の評価を誤っています。限りなく零に近いことを伏せて蓋然性が(多少なりとも)ある、と匂わせて、自分の論理に箔付けをしているわけです。これ、一般的には針小棒大と申します。
とまあ、歴史学が現在使っている論理法は、どうしてもこういう不届き者を生んでしまうよ、という話です。
が、実はこれって……。