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フレンチトースト

「俺な、傭兵業辞めようと思ってんだ」


 バッシュ特製のふわっふわとろとろフレンチトーストを、寝室の床の上で貪る昼下がり。

 昨夜から今朝の未明にかけての騒ぎで乱れに乱れたベッドは、トリィのプロ級のベッドメイク術により、使用前のように整えられているが、トリィの好みとバッシュの自制の関係で敢えて床に座って食事を摂ることになった。

 …ちなみに下のリビングや廊下の乱れっぷりは寝室以上で、まだ手付かずのまま放置されている。


(ベッドって偉大だな)


 トリィは寝る時にベッドを使わないので、その有り難みに気付くこともなかったのだが、昨日のことでわかった。ベッドがあれば、被害がベッドとその周辺に限定される。

 バッシュのトリィに対する食欲がおさまるまで、今後、2人で借りる部屋は、ベッド付きのワンルームにしよう。後片付けが楽だ。そんなことを考えているとはつゆ知らず、トリィと同じく床の上に腰を下ろしたバッシュは、淹れてもらったココアを飲みながら、静かに話を聞いていた。


「傭兵を選んだのは…。ナキムたちんとこから1人で出てきた時、俺、まだ15で大抵の国では未成年だったから。あの頃は、子ども面して『大人の庇護が欲しい!』なんて、そんな演技ができる気分じゃなかったし。だいたい、すげぇ荒れてたし、精神的にも参ってたから…自分だけで、安定して稼げる職って考えたらそこに落ち着いちまったんだよ」


 ふんわり甘いフレンチトーストに、空腹と疲労で毛羽立った心が優しくなだめられていく。

 これはトリィも知らなかったことなのだが、実は自分は甘党らしい。自分は、肉と濃い味が嫌いで、薄味であれば、苦いのも甘いのも辛いのもいっしょくたに好きなのだと思っていたが、バッシュがパイだのケーキだのを手作りするようになって考えが変わった。三温糖の風味豊かな甘さだとか、焦がしバターの香ばしさだとか、ふんわりと柔らかいスポンジの食感だとか。心までふわふわ柔らかくなるあの感じが、たまらない。

 このフレンチトーストも少し甘めに作られている。甘すぎないところが、心憎い。


「でも俺も20歳になったし、この5年で世界中飛び回ってほうぼうに良い伝手も作れたし。お前っていう家族も新しくできて、今後は殺しだの戦争だのとは無縁の生活を送ろうかと、思ってんだよね」

 トリィの視線がフレンチトーストからバッシュに移る。バッシュはマグカップを口につけたままの状態で、不思議そうな視線を返した。

「…っていうのが、俺の今後の方針なんだけど、お前、どう思う?」

 答えようと口を開きかけたバッシュを、あぁ待て待て、とトリィが止めた。

「お前が、問答無用で俺の意見に賛成なのも、当然俺にくっついてくんのもわかってる。それ以外のことで意見を求めてんだ」

 にやり、と意地悪くトリィは口の端を上げてみせた。

 バッシュは、ことん、とマグカップを床に置いた。


 これは、トリィがバッシュに課題を出す時の顔だ。クリアできるかできないか、ギリギリの難題を吹っかける時の顔。


「お前、俺と何したい?どこで暮らしたい?…世界中見て回ったろ?いろんな職がある。いろんな場所がある。あ、金のことは度外視で考えていいぜ。俺、金も伝手もそこそこあっから。そういうの抜きでさ、…お前、俺とどうやって生きていきたい?」


 バッシュは押し黙った。

 トリィとの5年間が脳裏を巡る。

 トリィは恐らくバッシュの自主性を試している。

 今迄、2人が行くところも、仕事の依頼もすべて、活動の指針はトリィが選び、決めていた。それを、今、初めてバッシュに委ねようとしている。


「…殺しも戦争も無縁がいい、とは言ったけど、お前が、せっかく身につけた狙撃の腕を活かしたいってんなら、別にそれでもいいんだぜ?お前の幸せが俺の幸せでもあるから。…お前の幸せは、俺と一緒にいることなんだろ?」


 バッシュは難しい顔のまま頷いた。


「軍人でも、マフィアお抱えのスナイパーでも、今まで通りの傭兵でも、お前のすぐ横にくっついててやんよ」

 なんでもないことのように笑いながら、トリィは柔らかいフレンチトーストを一口大に切り分け、「ほら」とバッシュに食べさせた。

 口の中に、じわりとバターの風味が広がる。表面は少しサクッとしていて、中はふんわり柔らかい。口の中で仄かな甘さとしょっぱさを残し、ふわっと溶けていくような食感。


 トリィにそっくりだなぁ、とバッシュは思う。


 トリィに拾われてまだ間もない頃。トリィがいなくなる夢を見て飛び起きた自分を、寝付くまでなだめて添い寝をしてくれた。寒い夜も暑い夜も。一晩に何度目覚めても、何度でも抱きしめてくれた。ベッドは苦手なくせに、その時ばかりはナイフも銃も置いてバッシュの背を優しく叩いて寝かしつけてくれた。

 凍えた体の奥から、じんわりと暖めてくれる春の陽だまりみたいな人。

 嘘みたいに優しい人だけど、甘いだけの人ではない。それが必要なことなら、バッシュを殴りもしたし蹴りもした。甘えの延長の我儘は、まず間違いなく通らない。

 優しくて、でも甘いだけじゃない人。

 バッシュは未だにトリィにはケンカで勝てない。惚れた欲目で本気を出せないなんて理由じゃなく(トリィを相手にそんな余裕は持てない)、純粋に力で負けるのだ。だが、その一方で、トリィはひどく脆い。暑さにも寒さにも強く、自己管理もきちんとしているので滅多に体調を崩すことはないが、一度風邪をひくとなかなか治らない。偏食と薬物耐性のせいで、常人にとってはたかが風邪でも、トリィにとっては命に関わる大病に変わるのだ。同様の理由で、骨折などの“ちょっと酷い怪我”もトリィには致命傷になる。こんな仕事をしながら今まで平気でいられたのは、ひとえにトリィが並み外れた強さを持っていたからだ。

 お日様みたいに暖かくて、嘘のように強くて、そして、次の瞬間にはふわっと消えてしまいそうな儚さを持った人。


 ごく、とフレンチトーストを嚥下して、バッシュは目を伏せた。


「…静かな、場所がいい」


 緑が多くて、でも山奥すぎないところ。季節の巡りが綺麗に映えるところがいい。

 人の往来は少な目で、あまり目立たないようなのがいい。スコープを覗けるような場所が、家の周りにいくつか欲しい。

 家は二階建てで、屋根裏と地下室は必須、家庭菜園ができる広めの庭が欲しい。








 トリィは2年前を思い出し、くすくす笑った。


『家は大きすぎないのがいい。トリィを近くで感じていたいから』


 2年前、バッシュは大真面目な顔で次から次に要望を挙げた。

 返答を渋るかと思ったのに、予想に反してバッシュはスラスラと2人分の人生設計を口にしたのだった。


『ララツェとヒェメル公国の境にあるシュノン森林地帯がいい。薬草を求めて奥地に向かう人を相手に、軽食を出す商売をしよう』


 ララツェとヒェメル公国、二国に跨る大森林、シュノン森林の奥地には、世界中を探してもそこでしか採取できないシュノンスエストという薬草が自生している。この薬草は突発性の奇病、渇水病の唯一の治療薬として、恒常的に世界中から求められているのだ。

 栽培も可能ではあるが、その場合なぜか薬効が失われてしまうため、薬として使うためには結局のところ人間が採取にいかなければならない、貴重で、入手に手間がかかる薬草だ。

 分布域もそれほど広くはなく、自生している数も多くないが、そこに辿り着くまでがかなり険しい道のりとなっており、辿り着く人間自体が少なく、また保存も長くは保たないため、1度に大量に乱獲されることがない。


 このシュノン森林は地元の人間には魔の森と呼ばれている。

 奥に行けば行くほど磁場が乱れるため、ヘリや飛行機は使えないし、徒歩で行くにしてもコンパスなどの計器類は役に立たない。その上、野生の大型獣に襲われる危険や、人体に有毒な花粉を撒き散らす毒花などの脅威にも晒される。

 それでもシュノンスエストを求めて山に入る人間は後を絶たない。

 なにせ、一掴みでも採って帰れれば一生遊んで暮らせる程の報酬が手に入るからだ。

 ララツェ、ヒェメル公国、両国ともにシュノンスエストの採取には積極的な姿勢をとっている。シュノンスエストを渇水病の特効薬として生成する方法は、この二国が独占しているので、国としてはじゃんじゃん採ってきてくれれば助かるのだ。それを高値で買い取って、薬にして、さらに高値で売り捌いて国庫を潤しているのだから。

 というわけで、シュノンの森周辺には宿屋や山入り装備を売る店を抱えた村や町がひしめいている。

 しかし、住民は送り出した人間がほとんど戻ってこないのを知っているので、自分たちは気味悪がって森には入りたがらない。


 バッシュとトリィはララツェ側の入り口から普通の人の足で一週間程の場所に、軽食を出す店舗を構え、そこから少し離れた場所に住居を構えた。


 これがなかなかどうして、快適だった。


 町や村のように人が多いこともなく、日中訪れる薬草ハンターに飯を食わせるだけでいい。宿を欲しがるヤツには一晩店を貸し、おバカなことにトリィたちの後をつけてくる身の程知らずにはトリィ手製の罠をくれてやる。

 家の周りに仕掛けたトラップのおかげで、敷地内には獣も人も入ってこない。たまにバッシュもライフルで、目に付く“邪魔な肉”を片付けている。

 実にのどかで幸せな生活だ。



 籐で編んだ籠の中に、今、収穫したばかりの野菜を入れる。

 トマト、ジャガイモ、キュウリ。

 家に戻る前に、卵もいくつかとっていこう。

 もう少しでトウモロコシも実をつけそうだな。

 重くなった籠を、苦もなく持ち上げて、トリィは眩しそうに空を見上げた。

 水色の澄んだ空と暗い緑色の森が視界いっぱいに広がる。


(うん、今日もいい一日になりそうだ)


 この静けさと澄んだ空気を、トリィは思いのほか気に入っている。

 鼻歌まじりに、家の勝手口を開けると、焼きたてのパンと狙撃銃を持ったバッシュがいた。


「何してんの、お前」

 トリィはけらけらと笑った。

「……野獣の視線を感じた」

 無表情に言ってのけるバッシュの手からパンを奪って、トリィはニヤリと笑った。

「野獣はお前だろ。昨日も散々人を襲っておいて」

 バッシュは苦笑を浮かべて、狙撃銃を脇に置くと、トリィから籠を受け取った。

「トリィが、誘うから」

「あーそうだな。蓋の内側に付いたアイスクリームを舐めんのはやめることにする」

 2年経った今もバッシュのトリィに対する食欲は健在で、こんなしようもない理由でトリィは毎夜骨までしゃぶられている。


 バッシュのいう“野獣”の正体をトリィは知っている。

 去年の冬から、月に二度程度のペースで、ナキムたちが店に顔を出すようになったのだ。


 ナキムとはそうでもないのだが、バッシュとミム、ソノの相性がなかなか壊滅的で、それが少し悩みの種だ。歳が近いせいもあってか、譲ったり負けてやったりすることができないらしい。…お互いに。顔を合わせる度に殴り合いの喧嘩をしている。


 狙撃手としてトリィも一目置く程に成長したバッシュが、視線を感じた、というのだから、今日は間違いなくあの3人がやってくるのだろう。


 …そこにアウラがいないことに、未だに胸の奥が締め付けられるけれど。


 トリィは、穏やかな気持ちで家族を迎えられるようになった自分に気付いた時、少しだけ泣いてしまった。

 アウラがトリィにくれた自由は、重くも冷たくもなかった。柔らかくて、甘くて…ちょっぴりしょっぱい、バッシュが作るフレンチトーストみたいな味だった。

 それはたぶん、トリィの首と引き換えにディンデが得ようとした自由とは、違うものなんだろうな、と最近ではそう思えるようにもなった。


 …未だに、肉は食べられないけど。

 別にそれはそれでいいとトリィは思う。

 忘れたいわけでは、ないから。




 食卓に出来たての朝食が並ぶ。

 トリィが食べたいと思っていたフレンチトーストと、ラディッシュサラダ、あとはリンゴのコンポート。

 テーブルの端にカボチャクッキーと少し萎びたオレンジが転がっている。


(あれもそろそろ食べないと悪くなるよなぁ)


「お前、オレンジ食う?剥いてやろうか?」


 そう言うと、バッシュはひどく嬉しそうに笑って、こくん、と一つ頷いた。


 胸の内側がこそばゆくなって、トリィは堪らずバッシュの額にキスを送った。

 照れ隠しに背を向けて、テーブルの端に座ってオレンジの皮を剥く。


 するする、するすると、ほどけるように。なめらかに、中の果実が姿をあらわす。


 砂色の髪の隙間から真っ赤な耳が見えて、バッシュはこの上なく幸せな気持ちになった。

「トリィ…俺、…すごい、幸せ」

 蕩けるようなバッシュの声を背中に受けて、トリィは小さく息を吐いた。



「…奇遇だな。俺もだよ」





肉よ、さらば!

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