リンゴ
トリィと暮らし始めて、もうすぐ5回目の秋が来る。
鳥の雛のように、一日たりとも側を離れなかった。
静かな廃ビルの中も、砲弾飛び交う戦地も、そこにトリィがいるなら一も二もなくついていった。
今も、2人揃ってマーケットへ買い出しにきている最中だ。
出会ったばかりの頃は見上げていた顔が、今ではつむじしか見えない。
バッシュを守り、鍛え、育んできた身体は、細くとも揺るぎない力強さを感じさせていたが、今では、無駄を削ぎ落としたその身体に危うさも感じるようになった。
バッシュの体が大きくなったからだろうか。それとも、5年前よりもトリィのことを知ることができたからだろうか。
トリィには薬が効かない。
半年前、ウィルス性の流行病に罹ったトリィは、「地獄から生きて帰ってきた後遺症だ」と、ちびちびリンゴを齧りながら病床でそう打ち明けた。捕虜となり、薬物を使用した拷問を受けた際、味方のいかなる情報も漏らすことのないよう、地獄式の訓練を受けた結果なのだそうだ。
正確には、薬が効かないのではなく、薬物耐性が非常に高いだけで、致死寸前まで飲めば効くことは効く。ただし、効いた時は、致死量に等しい量を投与されているので、遅からずそのまま死ぬ。
効いたら死ぬんだから、薬が効かない、で語弊はないだろう、とトリィはつまらなさそうに言った。
薬物だけではなく、拷問の訓練は一通り地獄式で受けてきたと言う。恐怖も苦痛もある程度は平気だ、と。
だからこの5年間、バッシュがヘマをして敵に見つかったり囲まれたりした時は、トリィが囮をかってでていた。
「俺、演技うめぇんだよ、俳優やってたら歴史に名前が残るんじゃねぇかな」
捕まった後は、普通の兵士のように拷問を受けてはぎゃあぎゃあ喚き、戦意消失した風を装うと相手が油断するのを待って、自力でバッシュの元まで戻ってくるのだった。
ちなみにトリィは縄抜けもピッキングも得意で、その上、室内のように閉じられた空間での戦闘は右に出るものがないほどの腕前だ。トリィを捕虜にするなど、どうぞ拠点を壊滅させて下さいと言っているようなものだ。
バッシュは狙撃の腕を磨いた。目がいいし、身体も銃を御すに相応しい体格になっている。性格的にも、狙撃はバッシュに合っていた。
それに近接戦闘ではトリィには敵わない。それどころか邪魔になってしまう。
トリィの足手まといにならず、力になれるポジションはどこか。それだけを考えたら、自ずとバッシュの居場所は決まっていた。
バッシュにとって、トリィは相も変わらず神さまだ。
ただ食わせて面倒を見るだけではない。
食べ物の見つけ方、調理法、効果はもちろん、お金の稼ぎ方、使い方、預け方増やし方、武器の使い方、人間や動物の体の仕組み、読み書きに至るまで、生きていくのに充分以上の知識をバッシュに与えてくれた。
バッシュは、トリィ以外に興味を持てずにいたが、それさえもかなり早い段階でトリィには見透かされていた。トリィは、自身を餌にすることで、バッシュの目が世界にも向くよう巧みに誘導していたのだ。
血の繋がった親でさえ、これ程、子に尽くせる者がいるだろうか。
バッシュはもう、トリィに拾われた時の無力な子どもではない。
どこにいても…洗練された大都市でも、電気も水道もない未開の地でも…自然に振る舞うことができるし、そこの流儀に則って生きていく技術を持っている。…もう、決して飢えることはない。
感謝してもしきれるものではない。
なんとかしてトリィの恩に報いたいのだが、…トリィは欲がない。
いや、欲が…ないのではい。トリィもバッシュと同じで、世界に対する興味が薄いのだ。
今も目の前で、あっちにしようか、こっちにしようかと真剣にリンゴを見比べているが、これは表面的なもので、トリィの“本当”はナイフと銃を抱えて床で丸くなっている姿にあると思う。
風に吹かれたカーテンが揺れる音にでさえトリィは反応する。時折、夜中に吐くこともある。肉を食べない。野菜や果物は本当に好きなようだけれど、あまり執着しているわけでもない。
…傭兵稼業を嫌がりながら続けている。
(トリィの、神さま)
バッシュの神さまがトリィだったように、トリィにも神さまがいるんじゃないか。
最近、バッシュはそう考えるようになった。
きっかけは、半年前。
トリィに薬が効かないということがわかったあの病床で。
薬が効かないトリィは、随分長い間高熱に苦しめられた。
高熱が続いて4日目に達した夜のこと。
朦朧とする意識の中、トリィはバッシュに向かって手を伸ばした。
「…ディンデ…熱い、助けて…」
と。
咄嗟にその手を握り、「大丈夫、ここにいる」と返すと、トリィは、子どものように無邪気で安心しきった微笑みを浮かべて眠りに落ちていった。
初めて、見る顔だった。
甘えるような。
縋るような。
心臓を直接掴まれたような衝撃を受けた。
その時、バッシュは初めて他人に対し劣情を抱いた。
身体はとっくに大人の仲間入りを果たしていたので、当然、自己処理も知っていた。だけど、それは生理現象を解消するための機械的なものに過ぎなかった。バッシュにとってトリィは特別でそういう対象ではなかった。あまりに畏れ多い。かといって、他の人間には性欲はおろか好意…いや興味さえ抱けなかった。
抱きしめたい。触りたい。舐めたい。征服したい。喘がせて、俺だけって言わせて…それから。それから…。
“神さま”に浮かべてはいけない感情がいくつも去来した。
その日から、バッシュは“神さま”を想像の中で汚し続けている。
その行為はバッシュにひどい背徳感と罪悪感、そしてそれを上回る充足感を与えてくれる。
バッシュはトリィの手から2つのリンゴを取り上げた。
「あ」
大きいリンゴは甘くて瑞々しいのが売りの品種。小さい方はそのままだと酸味が強い。ジャムやパイに向いている。
「どっちも買う」
店主に金を払い、リンゴを2つ受け取る。
「大きい方はそのまま、小さい方はアップルパイにしよう」
トリィはキラキラした顔でバッシュを見上げた。
「お前を拾って良かったと思うことの一つが、お前の手作り菓子なんだ」
「そうなんだ?」
トリィが喜ぶのが、バッシュはとても嬉しい。最近では、喜ばせるのが自分なら、もっと嬉しいと思うようになった。
(…ディンデ)
トリィの深いところにいる人。
「パイ、一人じゃ多いから半分こしよーぜ」
深緑の瞳が、バッシュに笑いかける。
半分こ。
バッシュとトリィで、半分ずつ。
合わせれば一つになる。間に挟まるものは何もない。
バッシュとトリィで一個だ。
その考えは、バッシュの中の何かを満たしてくれた。
「うん。半分こ」
「よしっ。じゃあさっさと買い出し終わらせて帰るか」
「うん」
バッシュの先をトリィが身軽に歩く。
以前のように同じ目線で顔を見れなくなったのは残念だけれど、砂色の髪が柔らかく風に揺れるのを見れるようになったのは嬉しい。
それから、すんなりと伸びるうなじも。
細い、その首筋に噛みつきたい。
もちろん甘噛みで。怪我なんてさせない。
舐めたら、くすぐったいと言われるだろうか。
あぁ。
「食べたい」
唾を飲み込む。
トリィが呆れた顔で振り返った。
「もーちょっと待て。すぐに終わらせっから」
リンゴのことだと思ったのか、そんなことを言うトリィに、バッシュは頷きを返した。
本当に?
もう少し待つだけでいいの?
リンゴのことだとわかっていながら、バッシュは高揚せずにはいられなかった。
そっと目を伏せて。
美しい人を心の中で汚した。