ラディッシュ
死ぬより怖いことが、あるか?
俺にはない、と男は言った。
幸せな頭だな、と少年は嘲った。
「そんならさっさと引退しちまえばいいのに」
「……そうだな。そう…するか」
咽喉を胃液が焼いていく。
(最悪だ)
トリィは綺麗に磨き上げられたトイレのタンクを握り締めながら、ぜぇぜぇとえずいた。
普段からあまり多くモノを口に入れない性質なので、余計に腹がムカムカする。
吐き気が治まるのを待って、トリィは口の端を乱暴に手で拭い、顔を洗ってバスルームを出た。日が登るまでにはまだ数時間の猶予がある。
(寝直すか)
正直、気分じゃないが、起きた時に自分がいつもと違う様子でいると、バッシュがうるさい。うるさいといっても、別段口数が増えたり、あれこれと詮索するわけでもない。ただ、視線がうるさくなるだけだ。
ベッドルームの扉を開けると、奥のベッドでバッシュが静かに眠っていた。呼吸に合わせて規則正しく上下するシーツに胸を撫で下ろす。
トリィは音もなく、薄手の毛布を纏うと扉のすぐ横の床の上に丸くなった。
12歳の時に送られた“地獄の新兵訓練”、通称ヘルズキャンプを生きて終了した時から、トリィはベッドの上では眠れなくなった。
死ぬのが怖いから、ではない。
死は、無作為に人の上にばら撒かれる。いくら用心したところで、人は死ぬ時は死ぬのだ。
だから、こうしているかいないかもわからない敵の強襲に備えて、扉の横で寝る必要なんてないのだ。
ナイフを握り、銃を忍ばせる必要など、本当にない。
なんの、意味もない。
無臭の毒ガスを撒かれれば、それだけで死ぬし、誰かに手を下されるまでもなく脳の血管が詰まって勝手に急死するかもしれない。
死ぬ時は、死ぬ。
ただこれは、トリィの癖なだけだ。
こうしないと落ち着かない。靴下を履く時は右足から、と決めているようなもので。たいした意味もない。
目を閉じ、意識を冴え渡らせたまま、トリィは夜明けを待った。
バッシュと暮らすようになって、2年が経つ。
暮らしてみてわかったのは、好き嫌いがないということだ。
食い物も着るものも付き合う人間も、およそ全てに好きも嫌いもないのが、この子どもの特徴だった。
肉も野菜も、トリィが勧めるものは残さず平らげた。成長期だし、好きなだけ食べさせよう。そう思って、「全部食っていーよ」といったら、無表情のまま無理やり全部食べようとしたのを見て(吐いてもやめなかった)、あぁ、これは違うなと気付いた。
味があろうとなかろうと、生だろうと焦げていようと、旨い不味いの違いはわかるくせに何も言わずに口に運ぶ。食べ物の中で唯一、「好き」と言ったのは、モソモソしたカボチャ味のブロッククッキーだけだ。
そんな様子だから調理なんて、しようと思ったこともないらしい。こんなんじゃ、トリィがいなくなったらすぐに野垂れ死ぬに決まっている。
トリィは自分が長生きできる体でないのを知っているので、自分が突然いなくなってしまっても生きていけるだけの力をバッシュに身に付けて欲しいと思っていた。生き物を拾ったのだから、そのくらいの面倒は最低限みなければ。それが拾った者の責任というものだろう。
確かにバッシュはなんでも食べるが、体はごくごく普通の子どもなので、変な物を口にすれば腹を壊すし、ぶっ倒れもする。
何が自分にとっての毒で、何が薬になるのか。
栄養とは何か。何から摂取できるのか。どのくらい必要なのか。
いくら知識を与えても、バッシュはそれを使わない。
好きも嫌いもない、というのは、どうやら自分自身にも当てはまるらしい。
自分が腹を壊して苦しもうが、腐った残飯を食わされようが、そんなことには興味も抱かないのが、バッシュだった。
困ったヤツだとは思うが、もう拾ってしまったので自分の勝手で捨てることもできない。
そんなバッシュにも、ただ一つ、「トリィ」という“特別”があった。
神さまか何かと勘違いしてるんじゃないかと疑ってしまう程度には、慕われている。そんな確信がある。
これを使わない手はない。
トリィは、バッシュに自分の食事を用意させることにした。
「肉抜きなら、なんでもいいよ。多少の毒なら耐性あるし、生煮えでも平気だから、適当に作って。お前のは今まで通り俺が用意するから」
あの時のバッシュは、珍しく無表情が崩れて、茫然としていて、けっこう面白かったのを覚えている。
効果は覿面で、バッシュの料理の腕は、めきめき上達し、今やプロ級である。
食育が想像以上に上手くいったので、他も(着替えの用意や、宿選び、仕事の情報収集など)全部、トリィの身の回りのことはバッシュにやらせることにした。
頭は良い方だと思っていたが、そこにトリィが絡むと壮絶なまでの必死さがプラスされるようで、仕掛けておいてなんだが、トリィも引くくらいのスピードでバッシュは色々なことを、すぐに1人でできるようになっていった。
この2年でバッシュは、背がとても伸びた。
トリィが用意したバランスの摂れた食事と、体に合わせた訓練、加えてバッシュ自身の恵まれた遺伝子のおかげか、12歳にして、既に170cmを越している。
2年前まではトリィの顎の位置に額があったくせに、あれよあれよという間に追い越されてしまった。
(まー俺は肉食わねぇし、いろいろ無茶もしてっからなー)
年上の男として、少し悔しい気持ちはあるが、拾った子どもがすくすくと健やかに育っていくのは単純に嬉しい。
(…あいつは、どう思ってたんだろうな…)
トリィは10歳の頃、口減らしのため、売られた。
当時のトリィは、今よりずっと痩せっぽちで、無知で、使えない子どもだった。水を汲んで、畑を耕して、家畜と一緒に納屋で寝ることしか知らなかったのだ。
簡単な計算もできなかったトリィは、腹に爆弾を巻かれて街を歩くことになった。そのくらいしか使い道がなかったらしい。
しかしトリィは死ななかった。
ディンデという工作兵に助けられ、拾われたのだ。
ディンデはトリィにたくさんのことを教えた。文字や計算、武器の扱い方や人の殺し方まで、それは多岐に渡った。
…そしてトリィはディンデの息子の代わりに、ヘルズ・キャンプへと行かされた。
毛布の中でトリィは更に体を縮こまらせた。
文字通り、地獄のような場所だった。人はああも醜く恐ろしいことができるのか、と戦慄した。ディンデが息子を行かせたくないと思ったのも頷ける。
毎日、同期の新兵が死んでいった。
新兵訓練とは名ばかりの、兵士を使った人体実験場だった。知性や感性がある分、実験は残虐さを増し、生き残った同期たちも恐怖から解放されるために心を壊し狂っていった。
訓練が終わった時、生き残っていたのはトリィを含めたったの5人で、1人はその一年後に軍上層部を襲って狂死し、3人は姿をくらまし、現在も行方不明のままだ。
トリィだけが、ディンデのもとへ戻り、軍に居続けた。自分の居場所はあそこだけだと、頑なに思っていたのだ。
あの時は、トリィも壊れていたのだろう。
…今ならそう思える。
キシ、とベッドが軋む音に、トリィはゆっくりと目を開けた。
「…おはよう、トリィ」
まだ薄明かりも差さない暗い室内に、バッシュの抑揚のない声が響く。
「…おはよ。よく眠れたか?」
僅かな物音でトリィが目を覚ますのを知っているバッシュは、毎朝、自分が起きたらすぐにトリィへ声をかける。
「トリィ、今朝は何を食べたい?」
昨夜、寝る前にトリィが用意しておいた服に着替えながら、バッシュが尋ねる。
同じくバッシュに用意させた服に腕を通しながら、トリィは「任せる」と返した。
バッシュの前に、ライ麦パンのトーストと海藻サラダ、チキンソテー、トマト煮込みスープとフルーツのヨーグルト掛けが並ぶ。
トリィが用意したものだ。
せっかくプロ級の腕を持っているというのに、バッシュは自分のためにはまともな料理を作らない(トリィに作ったものの余り…トマトのヘタやじゃがいもの皮なんかを食べたりする)ので、仕方なく用意している。
そして、トリィの前には、よく煮込まれた野菜スープとラディッシュのサラダ、小さな器に盛り付けられたリゾットが並んだ。
サラダにフォークを刺し、トリィは口を開いて…そして閉じた。
「…お前さ、」
トリィが夜中吐いた日の朝食には、必ずラディッシュが並ぶことに、ふいに今、気付いたのだ。
ラディッシュには、胃酸過多を抑制し、胃もたれや胸焼けに効果がある酵素が含まれている。
(……知ってて、やってる…んだろーな)
こぼれそうになる溜め息を飲み込んで、トリィの言葉の続きを今か今かと待ち続けるバッシュに、仕方なく別のことを……聞くつもりのないことを、聞くことにした。
「…お前さ…。死ぬより…怖いことって、ある?」
バッシュは数瞬考え込んで、そして、薄く微笑を浮かべて口を開いた。
「あるよ」
「……そうか」
サラダを口に運び、咀嚼する。ドレッシングも、バッシュの手作りだ。さっぱりしていて食べやすい。
「トリィは?」
問われて、トリィは眩しそうに目を細めて笑った。
「…馬鹿。あるに決まってんだろ」
「そう」
「そーだよ」
トリィはクスクス笑いながら、もう一口、サラダを口に放り込んだ。