カボチャ
少年はひどく渇いていた。もう何日も食べていない。何日も飲んでいない。
それで、仕方なく、啜ることにしたのだ。
動物的な思考しか、なかった。
渇いて、いたのだ。
実は、この行為は初めてではない。
まだ温かい、これから冷たくなっていく、その体に口を寄せる。
悪魔、と罵られたことがある。石を投げられ、怯えと、嫌悪に満ちた目で、拒絶されたことも。
というより、少年は拒絶されなかったことの方が少ない。ひょっとしたら、ないかもしれない。
でも別にそれでもよかった。気にならなかった。
少年を取り巻くすべてが彼を拒絶しても、彼自身の方でもすべてを拒絶していたから。
「…なにしてんの」
人の声。
まだ若い、子どものような、澄んだ声。しかし、子どもにしては、冷めすぎた、熱のない声。
少年は背後を振り返った。
こめかみに、硬い鉄の感触。
視線だけを上に上げると、小柄な兵士がいた。少年のこめかみに銃口を付け、ひっそりと彼を見下ろすその眼差しは、冬の針葉樹を思わせた。
「…咽喉、かわいた、から」
「……」
随分と若い兵士は、銃を突きつけたまま、ゴソゴソと片手で荷物を探り、目当ての物を少年に投げた。
ごと、と重たい音を立てて床に転がったそれを、無感動に目で追う。
「水。飲めば?」
小さな兵士が言い終わるより早く、骨ばった手がそれを拾い上げ、無我夢中で口をつけた。久しぶりに咽喉を潤す液体に、本能が逆らえない。あわてすぎてむせてしまう。無様に口の端からこぼれ落ちていくそれがもったいなくて、手で掬おうとするが、もちろんそんなことはできなくて、焦りばかりが生まれる。
がちゃ、と近くで物音がし、目だけで確認すると、どうやら少年兵が、突きつけていた銃を手元に引き戻した音らしかった。
「じゃ」
少年兵は踵を返した。
その姿をガラス玉のような瞳に数秒焼き付けて、少年は再び、目の前の死体に目を移し、そっと口を寄せていった。
部屋の入り口でなんとはなしに振り向いた少年兵は、また問いかけた。
「…なにしてんの」
少年はのろのろと顔を上げて振り返った。
「…腹、へった、から」
小さな兵士は姿勢を崩さず、手だけを動かして、荷物の中から己の携帯食糧を探り出すと、少年に放った。
「食い物。不味いけど、腹は膨れる」
水のときのように、少年は飛びつかなかった。恐る恐る、とでもいうように、携帯食糧に手を伸ばし、それと少年兵の顔を見比べた。
「…あんたは、食わないの」
「俺はお前と違って要領がいいから、自分で自分が飲み食いする物くらい調達できんの」
少年兵は淡々と返した。
「じゃあね」
今度こそ、小さな兵士は振り向かず、その場を去っていった。
その後ろ姿を、瞬き一つせず少年は見ていた。
行かないでほしい、と思った。
視線にその力があるなら、彼はきっと一歩も動けなかったに違いない。そのくらい、強い思いで彼は、去っていく少年兵をただひたすらに見続けた。
薄暗い室内。何かが、焼かれ、溶けたような異臭。生臭い、死の臭いと混ざり合って、どうしようもなく気分が悪くなる。
腹が、減った。
咽喉も渇いている。
体中が慢性的に痛くて重く、だるい。
時折、乾いた発砲音が聞こえる。人の怒号も、聞こえるじゃないか。
少年はぼんやりと、壊れた窓の向こうに目をやった。
灰色の空。
晴れやかな気分には到底なれない。
しかし。
色を見たのは、いったいどれくらいぶりだろう。音を、聞いたのは。匂いを嗅いだのは。
少年は、随分と久しぶりに、世界と対面した。
随分と久しぶりに、自分が生きていることを自覚した。
震える手でパッケージを破る。
ブロック状のクッキー。それを一口齧る。
パサパサして、咽喉が渇く。カリ、と時々歯にあたるのは、何かの種だろうか。甘さはほとんど感じられない、粉っぽいだけの味ともいえない味がする。
しかし、しばらく食い物らしい食い物にありつけていなかった少年にとっては、このくらいが丁度よかった。
咽喉がひくついた。
なんだろう、と思う間もなく鼻の奥がツンとして、両目から涙がこぼれた。
土埃や垢で汚れた少年の頬に道を作るように、それは止め処もなく次から次へと溢れた。
体がおこりでも起こしたようにぶるぶると震え、少年は手にしたクッキーを落とさないように、抱え込むようにしてしゃがみ込んだ。
ひっひっ、と咽喉が鳴る。
少年は顔を上げた。
つらくて、つらくて、どうしようもなかった。
彼の、しん、と冷えた緑の目を、もう一度見たいと思った。
ふらつく足で立ち上がる。こんな頼りない足でも、あってよかったと思う。
彼を追いかけられる。
手が、あってよかった。
彼に会うまでの障害を取り除くことができる。
目があって、鼻があって、血があって、脳みそがあって。
よかった。
よかった。
(いかなきゃ)
食べかけのクッキーを袋に戻して、丁寧に包んでポケットに押し込む。
まだ体は震えているけど、息も苦しくて、視界も歪んだままだけど。
少年は、一歩を踏み出した。
バッシュは味も素っ気もない、ブロック状のクッキーをもそもそと口に運んでいる。
「お前、それ好きだよな」
トリィは隣でシリアルバーを齧りながら、こくん、と頷くバッシュに「へぇ」と適当な相づちを打った。
現在、2人は要人警護の真っ最中である。
真っ昼間の人の出入りが激しいカフェテリアで、指輪の交換よろしくなんだか後ろ暗いものを渡しっこするんだそうだ。
依頼主によれば、十中八九、何か仕掛けてくるだろう、とのこと。トリィが独自に調べた結果でも、だいたい同じような未来が予測できた。
依頼主は馴染みの男だ。
狡猾で支配欲が強く、退屈を嫌う。人を不幸にすることはあっても、幸福にすることはないような、そんな人間だ。
トリィもこの男とはさっさと縁を切ってしまいたいのだが、手違いで3年間の契約を結んでしまったので、向こう3年間のお付き合いは仕方がないと諦めている。
今回は、敵の狙撃手を片付けるのが2人の仕事だ。お客さまの姿は、少し前からちらほら目立ってきているが、物事にはタイミングというものがある。遅過ぎてはいけないが、早過ぎても良くないのだ。
トリィとバッシュは、屋上でのんびり日向ぼっこをしながら、そのタイミングを計っていた。
「似てるから」
「は?」
バッシュとの会話は、難易度がかなり高い。
自分が伝えたいと思ったことを、そこだけ切り出して口にするからだ。
それでも冗長なよりは、簡潔な方がトリィは好きなので、バッシュとの会話を厭うことはない。バッシュの植物的な静かさに、密かに癒されていたりもする。
「何が、何に?」
質問を簡潔にするのもバッシュに合わせてのことだ。
「トリィが俺に初めてくれた物に、これが似てる」
あの時はまともに味覚が働いていなかった。だから、どんな味がしたかは、はっきりとはわからない。だけど、食感は確かこんな感じだったと思う。
トリィは、しばしの逡巡の後「あぁ」と手を打った。
「お前、あれとはだいぶ違うだろー。あれはプレーンという名の粉ブロック、こっちはカボチャのクッキー。カボチャの風味舐めんなよ」
言いながら、トリィはバッシュの食べかけを一口奪った。
「うめー。カボチャの種うめぇ」
バッシュは少しだけ笑った。
「…さぁて、そろそろかな。これ終わったらバーベキューしよーぜ」
食べかけを袋に戻し、丁寧にポケットにしまうと、バッシュはトリィの後ろに続いた。
「トリィも肉食べるの?」
「ばぁか。肉はお前が食うの。俺は網で焼いたカボチャが食いたい。めちゃくちゃその気分」
トリィからライフルを受け取ったバッシュは微笑んだ。
距離はさほど遠くない。天気も良好。
すぐ横にトリィがいる。
あの時からずっと望み続けた人が。
これだけ条件が揃って失敗するわけがない。
この後の食事のためにも、絶対にミスは許されない。
トリィの瞳に深く鋭い光が宿るのを見て、バッシュは緩く口角を上げた。
俺の神さま。
見ていて。
俺を、見ていて。