オレンジ
野菜が好きだ。果物だって、大好きだ。
茄子に雅を感じる。黒い光沢を持つ紫なんて、とびきり上品だ。真っ赤なトマトとのコントラストは言うに及ばない。
レモンの 瑞々しさ。砂漠の真ん中で出会ってみな。崇め奉らずにはいられないだろう。
あぁ、可愛らしいミニトマト。赤もいいけど、黄色もいい。ブリリアントグリーンのお星さまをかぶって、なんてオシャレさん!
では、もう一度言おう。
野菜が好きだ。果物だって、大好きだ。
「肉、食え」
「てめぇの足でもしゃぶってろよ」
ガッターーンッ‼
盛大に木の椅子が空を舞う。
骨付きもも肉が目にも止まらぬ速さで、トリィの口目掛けて繰り出された。
目にも止まらぬ速さ、とは言っても、トリィの目には素人に毛が生えた程度の速さでしかない。後ろも見ずに、転がった椅子さえ最低限の動きでよけて、トリィは踊るような軽やかさでセルトを部屋の隅へと誘導した。目的の地点まで引っ張ると、仕上げにセルトの手首をいなすように軽く下方へ弾く。
「バッシュ、食え」
セルトがナイフよろしく振り回していたもも肉は、隅のテーブルに1人静かに座っていた少年の口へと滑らかに軌道を変えた。
ガリッ…!
およそ肉を噛んでするような音ではない、骨と骨がぶつかるような恐ろしい音を立てて、もも肉の猛攻は終わりを告げた。
常人であれば、喉を突かれて死んでいただろう。
もも肉を口で受け止めた黒髪の少年は、読んでいた本を閉じてテーブルに置くと、無感情に肉を貪り始めた。
「おめえに食わせたんじゃねぇよ!」
セルトは地団駄を踏んだ。
「食わせといてなんだけど、よく食えるよな」
トリィはバッシュの黒髪をくしゃくしゃかき混ぜながら、げー、と舌を出した。
バッシュは相変わらず、無表情のまま肉を咀嚼している。
小綺麗な顔をしているくせに、食べ方はひどく粗雑だ。野生の肉食獣の食事シーンを見ているようだ。
あらかた肉をこそぎとると、今度はガリガリと軟骨を噛み砕き始めたので、トリィはバッシュの手から骨を取り上げた。
「はい、ごちそーさま。オレンジ食う?剥いてやろうか」
「…」
バッシュは無言で一つ頷いてみせた。
「ったくよー、あのクソチビ菜食主義者め」
セルトはブツブツ文句を言いながら、蹴倒した椅子を直しに戻った。
バッシュは口の周りに付いた脂を舌で舐め取りながら、トリィが他所のテーブルからもらったスティックセロリを齧るのを見ていた。
トリィはこの酒場にいる誰よりも頼りない体つきをしている。
10歳のバッシュより5つ年上だというが、身長こそ頭一つ分高いものの、体重はあまり差がない。別段、バッシュが重いわけではない。トリィが軽すぎるのだ。
トリィはベジタリアンだ。
というより、肉を嫌っている故に、それ以外の物で食事を済ませていると言うべきか。
魚もあまり好きではないようだが、幸い、この地域では魚はあまり好まれないようで、本気を出して入手しようと思わない限り魚は手に入らない。
いっぱい食えよ、とトリィはバッシュにいつもそう言う。
栄養って大事なんだ。
こんな暮らしだから、いつ食えなくなるかわかんねぇだろ。
だから食える時は、いっぱい食え。
バッシュはトリィが好きだ。
神様がいるとしたら、それはきっとトリィだと思うくらいに。
トリィはバッシュのところまで戻ると、軽やかにテーブルに座り、そこにあぐらをかいた。
この程度の無作法を咎めるような上品な酒場ではない。
トリィは鼻歌交じりに橙色の果実にナイフを滑らせた。
くるくる。くるくる。
まるで包帯をほどく様にスルスルとオレンジの皮が剥けてゆく。
トリィはこの場にいる誰よりも細っこいが、この場にいる誰よりも強い。
強い、というのは、殺し合いをした時に生き残れる、という意味で。
トリィはナイフも銃も上手に使う。ようやくライフルに触らせてもらえるようになったバッシュとは大違いだ。
「ほら」
ふかふかした白いワタをぎりぎりまで削って、丁寧に房まで分けたものを、一つ、トリィはバッシュに手渡した。
トリィが一房口に放り込んだのを見て、バッシュも一つ口に運ぶ。
「あー…うめぇ…」
幸せそうにトリィが頬に手をあてるから、バッシュも嬉しくなった。
トリィが食事で幸せな顔になるのは、割と珍しいことだから。
「肉もうめぇぞー‼」
離れた席でセルトが野次を飛ばす。
「そりゃ良かったな、ぜぇんぶ食っちまえよ」
次の一房を口に運びながら、トリィはセルトを相手にもしない。
セルトはトリィに肉を食べさせたがる。成長期のトリィには肉が必要だから、というのがその言い分だ。
トリィは、
「成長しようがしなかろうが、俺の勝手だろ」
と言う。
セルトは、バッシュの国で起きた内戦を終わらせるために隣国からやってきた義勇兵だ。
義勇兵、とはいっても、要は自国に有利となる政権を勝たせるために送られてきた、隣国の軍人だ。そして、今この酒場にいるほとんど全員が同じ立場の人間である。
ただ、トリィとバッシュだけが違う。
トリィは雇い主の意向でセルトたちと行動を同じくしているだけのフリーの傭兵で、バッシュは焼け落ちた街でトリィに会い、無理やりその後ろにくっついてきた、ただの民間人だ。
民間人の、それも飢えてぼろぼろになった子どもの追跡など、撒く気になればいくらでも撒けただろうに、トリィは敢えてそういった行動をとらなかった。
後をついて来るバッシュを、積極的に受け入れることはしなかったが、拒絶することもしなかった。転んで遅れても決して待ってはくれなかったが、目の届く範囲にいれば今のように食事を分けてもくれる。
今、セルトたち義勇軍は帰国の途に着いている。支援にあたっていた人民軍が無事勝利をおさめたので、残党を狩りながらゆっくりと国を目指している最中だ。
そんな状況だからか、何人かの兵が面白がって、ここ数日、バッシュに戦闘訓練をつけ始めた。
飲み込みが早く、泣き言もいわないので、教える側も教えがいがあるらしい。
今日はナイフの練習だった。
脳裏にはトリィの無駄なく研ぎ澄まされた動きが蘇るのに、実際に自分が動くとなると散々だった。
転んで転がされて蹴られて踏まれて。
本物のナイフは使わなかったが、体中傷だらけになった。
オレンジの果汁が、指の傷にしみて、バッシュは無表情のまま、そこに舌を這わせた。
「あと4日も歩けば、アルテリアだ」
アルテリアは、セルトたちの国だ。
バッシュは無言でトリィを見上げた。
トリィは深い緑色の目でバッシュを見ていた。
「お前、どうするんだ?」
トリィに問われて、バッシュは反射的に口を開けた。話すのは得意ではないが、トリィには、…トリィにだけは、必ず応えるようにしていた。だから、口を開けたのだが、続く言葉がどこにも見当たらなくて、バッシュは途方に暮れた。
どうする、と聞かれても、バッシュにはトリィしかいない。
バッシュの世界にはトリィ1人しかいないのだ。
アルテリア、なんてただの地名にすぎない。砂漠だろうが、荒野だろうが、大都会だろうが、トリィがいればそれでいい。逆に、そこがふかふかのベッドの中だろうと、清潔な家だろうと、目の届く範囲にトリィがいなければ、バッシュが生きる世界はどこにもない。
あと4日でアルテリアに着く。どうするんだ?と問われても、バッシュには答える術がないのだった。
(何聞かれてるかわかんねぇってツラだな)
自分も昔はこんな顔をしていたんだろうか、そう思ってトリィは苦く笑った。
昔を懐かしむほど、まだ歳はとっていないはずだが。
(…やんなるね)
自分もこうやってあいつの足元にじゃれついていたんだろうか。
トリィは心の中で、一つ息を吐いた。
「…俺と一緒に居たいんなら、向こう5年、側を離れんな」
「わかった」
今度は即座に返ってきた返事に、トリィは呆れて笑った。
「お前、頭悪いよな。俺と家族になるって意味なんだぜ?」
バッシュは微かに微笑んだ。
「俺と家族なんて、ロクなもんじゃねぇ。一生関わり合いになりたくないような下種と知り合いになんなきゃなんねぇし、ゴミ以下のクソ野郎に頭下げたり、顔も知らねぇヤツに命狙われたりしなきゃなんねぇ」
「トリィ」
バッシュはトリィにオレンジを一房手渡した。
「トリィをイジメる『肉』は俺が全部食うよ」
骨まで齧ってやる。
だから
「トリィは俺に『肉』を運んでくれればいい」
「…は」
トリィは目をまん丸に開いて。それからぶっと吹き出した。
けらけらと笑って、眦を拭う。
「その前にナイフとフォークの使い方から教えてやるよ。テーブルマナー、てんでなってねぇもん、お前。こんなんじゃ、『肉』に食われちまうぜ」
ぼろぼろに傷付いたバッシュの手をそっと撫でて、トリィはテーブルから身軽に飛び降りた。
「セルトー、俺ら寝るわー!お子さまはもう寝る時間だからー」
セルトの返答を待たずに、トリィはバッシュと自分の口に残りのオレンジを無理やり詰め込んで、バッシュの手を引き酒場を後にした。