第一章‐1
キーボードの上を十本の指が乱舞する。
機械式キーボードの打鍵音は、カカカカカカカカカカシャッと、一連なりになって聞こえるほどだ。とにかく速いタイピングだった。ディスプレイ上には、流れるようにアルファベットが刻まれていく。その速さの理由は、タイピングに全く淀みがない故だ。次に打つコードを考える為に手を止める、という動作が全くない。さながら、既に頭の中に存在している完成したファイルをただ出力しているだけ、とでもいうかのような速さだ。
そして、それは速いだけではなく非常に正確なタイピングだった。全くタイプミスをすることもなく、ディスプレイ上に刻まれていくアルファベットが次々と意味のあるプログラムコードを作り上げていく。その速度と正確さは、ほとんど機械的とさえ言えた。着実なペースで、スクリプトファイルが完成に近付いていく。
倉嶋篤志はコーディングという、このプログラムコードを組み上げていく作業が大好きだった。これに比べれば、この後に続く、記述ミス等の誤りを取るデバッグや動作確認の為のテストなど、退屈極まりない余分なおまけに過ぎない。プログラムを設計するのも、プログラムを組むのと同じくらい楽しいが、企業から委託されてプログラミングを請け負うアルバイトのプログラマーという今の彼の立場では、なかなかそこまではさせてもらえないのだ。
ともあれ、実際のところ、篤志の頭の中には、さすがに完成済みのファイルが存在しているわけではない。あるのは、プログラムの処理の流れ図であるフローチャートにプログラムコードを埋め込んで、より詳細な設計図にした程度のものだ。これは彼独特の設計図なので、仮にこれを頭の中から外部へ出力してみたとしても、おそらく他のプログラマーには上手く通じないだろう。だが、そうして自分に最適化した設計図が頭の中にあることで、彼のコーディング速度は保たれているのだった。あとは、タイプミスをしないこと。これは、単なる慣れの問題に過ぎない。
キーボードを叩く十本の指がさらに加速していき――。
(アッシュ)
「うわぁっ!?」
突然、頭の中に響いた呼び声に、集中し過ぎて完全に自分一人の世界に入っていた篤志は、驚きのあまり、椅子ごと後ろに倒れそうになってしまった。なんとか倒れるのを堪え、椅子に座り直す。
(大丈夫ですか、アッシュ? 驚かせてしまったようで申し訳ありません)
頭の中に、涼やかな少女の声が響いた。彼は、頭の中に声が響くその現象と、その声に覚えがあることに気付く。
「あ……、あぁ、念話か……。エリカか?」
(はい、エリカです。夜分に失礼致します。恐れ入りますが、今、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか?)
それは、セレストラル星系連邦陸軍辺境警備隊所属、エリカ=デ・ラ・メア=ブラウスパーダ少尉からの念話魔法による通信だった。篤志は、異星からやって来た彼女たちには、『アッシュ』と呼ばれている。
篤志は、パソコンのディスプレイの右下隅に表示されている現在時刻を見た。二十一時四十二分。彼の感覚からすれば、まだ決して遅い時間とは言えない。彼は新調したばかりの眼鏡を外してパソコンデスクの上に置くと、一つ伸びをした。学校から帰宅して、着替えもそこそこにアルバイトのプログラミングに取り掛かったので、五時間以上コーディングに没頭していたことになる。
(ああ、構わないよ。なにか用か?)
彼は頭の中でエリカに答えながら、夜の暗闇に沈んだ狭いワンルームの部屋を見回した。パソコンのディスプレイの明かりが、薄ぼんやりとデスク周りだけを照らしている。テレビや本棚、ローテーブル等といった家具は、ほとんど部屋の暗闇と同化していた。とりあえず照明を点けよう、と椅子から立ち上がる。
さておき、今、なにか用か?とは言ったものの、篤志と彼女たちとの繋がりは先日の事件しかない。
(この前の件で、なにかあったのか?)
だから、そう尋ねてみる。
(はい。その件に関して、二、三、ご相談がありまして)
それに対するエリカからの返事は、やはり彼の問いを肯定するものだった。あの事件は、彼の中ではもうすっかり終わったものとなっていたのだが、現実には、そうは簡単に事は運ばないらしい。
エリカと念話で会話しながら、部屋の入り口に移動して、照明のスイッチを入れる。暗闇の部屋が急に明るくなり、篤志は少し眼を細めた。喉が渇いていることに気付き、お茶でも飲もうと、今度はキッチンへと足を向ける。
(そうか。相談ね……。エリカ、風呂上りか?)
時間的なものと、あとは髪を拭いたりしているような気配があったので、なんとはなしに言葉が出てしまった。篤志としては、特に意味のある問いではなく、単なる会話の接ぎ穂に過ぎなかったのだが、それを聞いて、意外なほどにエリカが慌てた。
(え? あ、その……! 私ったら、殿方と交信するのに、このようなはしたない姿で! 申し訳ありません! また後ほど、掛け直させて――!)
(いやいや、エリカ、落ち着いてくれ。当然だが、見えてないから)
今度は篤志が慌て気味に、エリカをなだめる。エリカが恐る恐る問い掛けてきた。
(見えて……ませんの? 本当に?)
(あぁ。単なる勘で言ってみただけだ。そんなに動揺するとは思わなかった。済まない。だけど、念話だろ? 見えるわけないじゃないか)
(高位の念話魔法には、映像もやりとり出来るものもあるんです。なにかの間違いで、それが起動してしまったのかと思いました……)
エリカが胸を撫で下ろす気配がする。これだけ慌てるということは、余程の姿なのだろう。風呂から上がったばかりで肌が上気している濡れ髪のエリカが、そのほっそりした身体にバスタオルを一枚巻いただけの姿でベッドに腰掛けて念話を掛けている、という映像が篤志の脳裏に描かれる。根拠はないが、その想像は真実に近いのではないかという確信があった。先日の事件が終結した際に、バスタオル一枚ではなかったが、風呂上りで濡れ髪の彼女の姿は見ているので、その脳裏に描かれた姿には妙なリアリティがある。篤志は急いで頭からその想像を振り払った。それこそ、こんな想像をしていることが念話で伝わってしまったら、洒落にならない。ようやく落ち着いたらしいエリカが、声を掛けてきた。
(見えないと思って、少し油断し過ぎた格好をしていたもので、取り乱してしまいました。申し訳ありません)
(いや。こっちこそ、変なことを言って、びっくりさせて悪かった。――そろそろ本題に入ろう)
篤志の言葉に、エリカが用件を口にする。
(はい。――先ほども申し上げたように、先日の事件との関わりで、二、三、ご相談したいことがあるんです。こちらの都合で真に恐縮なのですけれど、私どもの駐留基地までご足労願えませんでしょうか?)
(ああ、いいよ。今からか? ――あぁ、今からはないか。風呂上りだもんな)
(もう……)
エリカが照れて、少し膨れている気配がした。
(えぇ。確かに、それほど火急の用件というわけではありません。そうですね……、次の日曜の午後では如何でしょう?)
(わかった。日曜の午後だな? ……あ、でも、俺、あんたたちの基地の正確な場所、わからないぞ?)
篤志は頭の中でエリカと会話しながらキッチンに向かい、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して一口飲む。
彼女たちの駐留基地には、先日の事件の最中に、都合二回行っていることになるが、一回目は、意識を失った状態で基地まで連行され、そこから事件の現場である島へ直接飛行魔法で飛んでいってしまった。二回目も、やはり意識を失った状態で基地まで運んでもらい、帰りは彼女たちに飛行魔法で家の近所まで送ってもらったのだ。だから、正確な場所どころか、大雑把な見当程度しかわからない。
(はい。では、住所をお教えします。――)
エリカの口にした住所は、彼の住む街よりも海寄りで、なおかつ都市部に近いようだった。その彼女が言う最寄り駅は地下鉄の駅だったので、この街から電車で行こうとすると、直接繋がる路線がない。篤志の記憶の中の路線図が正しければ、おそらくいったん都市部へと出て、それから適当なところで都市部から離れる方向の地下鉄に乗り換える、というルートを取るのが一番早そうに思える。篤志は、頭の中の電車の路線図で、彼女の言う最寄り駅までのルートを検索した。都市部への大回りと乗り換えが多少不便ではあったが、それでも一時間とは掛からずに辿り着けるはずだ。
(OK。覚えた。じゃあ、日曜の午後にお邪魔するよ)
(はい。お待ちしております。それでは、失礼致しました)
(ああ。湯冷めしないようにな)
(もう、アッシュ……、からかわないで下さい)
(はは……。じゃあ、おやすみ)
(はい、おやすみなさい)
念話が切れた。篤志はもう一口お茶を飲んでからペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、デスクの前の椅子に戻る。彼女たちの駐留基地への正確な道程を確認しようと、パソコンでまずは乗り換え案内のウェブサイトを開いた。今聞いた最寄り駅までのルートと時間を検索する。その結果は、予想したものとは少々違っていた。地下鉄への乗り換えに最適な駅は予想外に近く、都市部へ入る手前で乗り換えられるらしい。その為、所要時間は三十分少々と、思ったよりもかなり短かった。その乗り換え駅と路線を頭に入れる。次に、その最寄り駅から彼女たちの駐留基地の住所までの地図を検索してみる。その住所までは、駅からはそこそこ歩かねばならないようだった。地図を覚えるのは、正直、得意ではない。これはプリントアウトしたほうがいいだろう、とプリンターの電源を入れ、その地図を印刷した。それを軽く眺めると、適当にデスクの上に置く。彼女たちの駐留基地までの道程が確認出来たので、篤志は一つ伸びをして、中断していたコーディングを再開することにした。だが、その打鍵速度は先ほどまでと比べると、格段に遅くなっている。
もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女たちと、たったの数日でまた会うことになったのが、少しおかしい。それに、彼女たちに会えるのを、なんとなく楽しみに思っている自分に気付き、篤志は苦笑する。
「もう、異星人とも魔法とも縁が切れたと思ってたんだけどな」
彼はわざと独り言を口にすると、気持ちを切り替えてコーディングに集中し始めた。そういうことならば、今アルバイトとして請け負っている分のプログラミングは、週末までに終わらせておくに越したことはないだろう。