序章‐2
翌日は火曜日、平日だ。篤志は、朝起きると黒白半々の頭の白髪染めを済ませ、右肩から指先までを包帯で巻いてから制服を着て、登校の準備をする。眼鏡も紛失してしまった為、裸眼のままで家を出た。
結局、先々週の土曜日に続いて昨日の月曜日も無断欠席してしまったので、四月にこの高校に入学してから一ヶ月足らずの間に、二回も無断欠席したことになる。教師陣には、さっそく問題児として認識されているんだろうな、と思うと少し気が重くなった。だが、そもそも、授業中にアルバイトのプログラミングを行うなどという暴挙をしている時点で、実際に問題児と言って差し支えないだろう。
登校してくる大勢の生徒たちに混じって校門をくぐり、下駄箱で上履きに履き替えて、四階の教室に向かう。教室に入った彼を待ち受けていたのは、案の定、クラス委員、蒲郡紫子の怒声だった。
「倉嶋ーっ!! あんた、あれほど無断欠席するなって言ったのに――、って、あんた、右手の包帯、グレードアップしてるじゃない! どうしたのよ!?」
先週の間は右掌にだけ巻いていた包帯が、今は学生服の袖から覗く右手首から指先までを隙間なく覆っているのだ。不審がられて当然だろう。紫子は憤怒の形相から一転、怪訝そうな顔になって足早に近付いてくる。篤志は、とりあえず、その包帯に包まれた右手を上げて、彼女に挨拶してみた。
「おはよう、委員長」
「委員長って言うな。おはよう、じゃないわよ。どうしたのよ、その右手?」
紫子はそこで、彼の顔を見て違和感に気付いたようだ。
「それに、眼鏡も掛けてないけど、コンタクトにでもしたの?」
「いや、週末、ちょっと事故に遭っちまってさ。昨日は病院にいたんだ。眼鏡も、それで壊れちまった」
用意しておいた嘘を口にする。病院にいた、というところ以外は、ほとんど嘘ではない。紫子の表情が心配そうなものになった。
「事故って……。身体、大丈夫なの?」
「ああ。右腕以外はなんともないよ。この右腕も包帯がちょっと大袈裟なだけで、そんなたいした怪我じゃないんだ」
篤志はそう言って、右手を軽く振ってみせる。
「そう……。たいしたことないなら、いいけど……」
そこで、紫子は素で心配そうな表情を見せてしまっていたことに気が付いたようだ。慌てていつもの、怒ったような、呆れたような表情を作る。なにかを取り繕うようにセーラー服のスカーフを調えると、両手を腰に当てるいつものポーズも作った。言い訳だか、独り言だかわからないことを、早口で言う。
「ま、まぁ、別にあんたのこと心配するつもりもないけど。でも、さすがに、事故なんて聞いちゃうとね。うん。クラス委員としては、クラスメイトの健康状態にも気を配らないといけないし。――それにしても、学校に連絡くらい出来たでしょう?」
「いや、たまたま携帯持ってなかったから、連絡出来なかったんだよ。だいたい、学校の電話番号なんか知らないし」
言っていることは本当だったが、実際は、連絡しようという考えすら浮かばなかったのだ。その篤志の言葉を聞いて、紫子は今度は本当に呆れたような声を上げる。
「学校の電話番号知らないって、あんたねぇ……。一人暮らしで他の誰もやってくれないんだから、こういうことは自分でちゃんとしなさいよ? 携帯貸しなさい」
「は?」
「学校の電話番号、入れといてあげるから」
有無を言わさぬ紫子の迫力に押されて、篤志は黙って携帯電話を彼女に差し出した。自分の携帯電話を取り出して、それを見ながら篤志の携帯電話に学校の電話番号を入力する紫子。その操作をしながら、さらに言う。
「ついでに、あんたの携帯番号とメアド、教えなさい」
「なんで?」
「今度無断欠席したら、こっちから掛けるのよ」
そう言う紫子に、篤志は急いで手を振った。
「いいよ、そんなの。もう無断欠席もしないし」
もう無断欠席しなくてはならないような事情はなくなったのだ。だが、紫子はまた心底呆れたような声を上げて、篤志の顔を睨みつける。
「そんな言葉、信用出来るわけないでしょう? いいから。教えてもらうわよ」
そう言って紫子は、強引に携帯電話の赤外線通信で電話番号とメールアドレスを交換してしまった。胸元に押し付けるようにして、篤志に携帯電話を返す。そこで、ようやく彼女は満足そうな笑顔になった。
「わたしの番号とメアドも、あんたのほうに入れておいたから。欠席するときは、ちゃんと学校にか、最低でもわたしのところに連絡しなさい。いいわね?」
両手を腰に当てて、ずいっと顔を寄せてくる。それに気圧されて、篤志は少し顔を引いた。慌てて頷く篤志の様子を確認し、紫子が腰を伸ばして直立姿勢に戻る。両手を腰に当てたポーズのまま、なにか思案して、再び口を開いた。
「それにしても、眼鏡なしであんたの席からじゃ、黒板見えないでしょう? 仕方ないから、新しい眼鏡が出来るまでは、わたしのノートをコピーさせてあげるわ。あぁ、だからって、授業を聞かずに内職してたり寝てたりしたら、どうなるかわかってるでしょうね?」
少し早口で紫子が言う。篤志は、どうなるかはよくわからなかったが、勢いに押されて頷いてしまった。それを見て、彼女も満足げに頷く。
「じゃあ、放課後、ノートをコピーさせてあげるから、待ってなさい。忘れて先に帰ったりするんじゃないわよ?」
そう言って、紫子は篤志の返事も待たずに、さっさと踵を返した。肩の高さで真っ直ぐに切り揃えたストレートの黒髪と制服のプリーツスカートが、ふわりと広がる。そしてそのまま、自分の席へと戻っていってしまった。
「……なんなんだ、いったい……」
よくわからないうちに、紫子と携帯電話の番号とメールアドレスの交換をさせられてしまったらしい。それに、ノートをコピーさせてくれるという話はありがたかったが、何故、彼女がそんな親切な申し出をしてくれたのかよくわからなかった。篤志は暫し考え込んでから、考えても仕方がないと気を取り直して、自分の席に向かう。窓際の一番後ろという誰もが羨む特等席が彼の席だ。席に着くと、前の席に座った伊勢田誠人が挨拶してきた。
「おっす、倉嶋」
「っはよぅ、伊勢田」
このクラスでは男女の座席が交互に並ぶので、本来の彼の席はもう一つ前だ。男子の座席を黒、女子の座席を白に塗って教室を上から見下ろしたら、さながらチェス盤のように見えることだろう。
誠人とはこの高校に入学してから知り合ったので、まだ友人と呼べるほどの付き合いではない。せいぜい昼食を一緒に食べたり、休み時間にゲームやマンガの話をする程度の仲だ。それにしても、誠人という名前のわりに誠実さの欠片もなさそうな男だ、と篤志は思う。
(……他人のことは言えないか。俺だって、人徳も篤くなければ、志もない)
心の中で苦笑した。
「なに? 事故ったって?」
「ああ。ちょっとな」
「大変だな」
「ああ」
それだけで、誠人はそれ以上のことは聞いてこないようだ。他人に対する無関心が、今はありがたい。話を変えるという前置きもなく、誠人が続けて聞いてくる。
「倉嶋と委員長ってさ――」
「あぁ?」
篤志のせいで、紫子のクラス内での呼称が『委員長』に定着し始めていた。
「やっぱ、付き合ってんの?」
他人に無関心なわけではなく、別のところに関心があったようだ。誠人の言葉に、篤志は呆れた声で返す。
「今のが、恋人同士の会話に聞こえるのか、おまえには?」
「そうだよな。違うよな。我らが巨乳アイドル、巨乳委員長のあの巨乳を、おまえが独り占めしていいわけないもんな、あの巨乳を!」
「……おまえ、今、何回『巨乳』って言った?」
はしゃぐ誠人に、冷たい視線を送る篤志。
「三回? ……いや、四回か?」
誠人は、ばか正直に数えていた。篤志は軽く溜め息を吐く。そんな篤志に、誠人が変わらず軽い調子で次の言葉を口にしていた。
「じゃあ、やっぱ、倉嶋の本命って、青い髪の美少女外国人なのか?」
「な……に……?」
上手く反応出来ない。そんな彼の様子にも気付かず、誠人が言葉を続けた。
「先週の日曜だったか? おまえと髪を青く染めた外国人の美少女が、一緒に歩いてるのを見たってやつがいるんだよ」
「……なんのことだか、わからんな」
篤志は、なんとか誤魔化しの言葉を口にする。確かに、先週の日曜日、『彼女』と半日、駅前で買い物をした。誰か顔見知りに見られていても不思議はない。現に、紫子たちとはニアミスしている。だが、その話をこれ以上続けたくはなかった。
「それより、伊勢田。そろそろ自分の席に戻れよ。山城さんが困ってるぞ」
篤志は、誠人が占領している席の本来の所有者である女子生徒を指して言ってやる。
「おっと。じゃあ、また後でな」
「ああ」
誠人が自分の席に戻っていった。篤志は机に突っ伏す。
(人の噂も七十五日……か。二ヵ月半も『彼女』のことを聞かれ続けるのか?)
気が重くなった。というより、胸が苦しくなる。
ともあれ、こうして篤志は、異星人とも魔法とも無縁な日常の中に帰ってきた。退屈だが平和な日常の中に。
しかし、右腕が自分のものではないというのは、思っていたより厄介だった。下世話な話、トイレで小用を足そうとして自分のモノを『彼女』の右手で掴んでしまいそうになり、慌てて左手に切り替えることなど、しばしばだ。箸が上手く使えないのも不便だった。宿題をしているとき、ノートを取る際に気を抜くと、自分でも読めない異星の言語を書き連ねていたりもする。それでも、数日が過ぎ、新しい眼鏡が出来てくる頃には、そんな不都合も含んだ日常に慣れ始めていたのだった。