序章‐1
倉嶋篤志の右腕は、彼のものではない。
異星からやって来た魔法使いの少女を助けたことに端を発する事件に巻き込まれ、彼は大切な人と己の右腕を失った。
だが、今、『彼女』の右腕は彼の右腕として、そこにある。
全てが終結した朝、心ゆくまで泣いた篤志は、ようやく喉から溢れ出す嗚咽が止まって落ち着くと、ベッドから立ち上がった。いつの間にか、部屋には誰もいなくなっている。気を利かせて一人にしてくれたらしい。
寝室の襖を開け、居間に入る。ここは、セレストラル星系連邦陸軍第六辺境警備師団第二連隊第一大隊第八小隊駐留基地、という名のアパートの一室だった。
「洗面所、借りるな」
ソファに座ってテレビを見ているらしいショートカットの赤毛を頭の右上で括った少女、アリーセ=フィアリス軍曹にそう声を掛ける。返事はなかったが、勝手に借りることにして洗面所へ向かった。鏡に自分の裸の上半身を映す。
――『彼女』の右腕が、彼の身体から生えていた。
改めて、失った腕の代わりに魔法で接合された『彼女』の右腕を眺める。明らかに、右腕と左腕が不釣り合いだった。長さは左右でほとんど違いはない。しかし、『彼女』の右腕の華奢さと白い肌が致命的だった。彼も同年代の少年の平均よりは小柄で華奢な部類に入るが、やはり女性とは骨格からして違うのか、そのほっそりした右腕と見比べてしまうと、自分の左腕はずいぶんと太く見える。人種が違う右腕の肌の白さは、いくら彼がインドア派で日焼けしていないとはいえ、それでも、やはり明白に白さの度合いが違った。肩の付け根の接合部を境に、胴体と右腕とではっきりと色の違いがわかる。
「……これは、また包帯の出番かな……」
先週の間は、異星文明の禁じられた魔法兵器である『魔人血晶』が埋まっていた右掌を隠す為に包帯を巻いていたが、今度は、この不釣り合いな右腕を隠す為に、右肩から指先まですっぽりと覆わねばならない。
さらに言えば、白髪がまた尋常でなく増えていた。本来の黒髪のおよそ半分ほどが白髪化している。限界を超えた魔力の濫用による影響だろう。一割ほどが白髪化していた先週の間でさえ、白髪染めは必須だったのだ。これも、念入りに染めないとひどく目立ってしまうな、とぼんやりと思う。
篤志は一つ嘆息すると、涙の跡の残る顔を洗ってから居間へ戻った。アリーセは先ほどと変わらず、ソファでテレビを眺めている。テレビでは、ちょうど朝の時間帯だからか、子供向けのキャラクターもののアニメを放映しているところだった。
「おい、アリーセ」
と今度は、ぽんっと赤毛の頭に手を置いて声を掛ける。さすがに彼女も、今度は気付いたようだ。頭に彼の手を置いたまま、アリーセが仰ぎ見るようにして振り返った。
「あ、アッシュぅ。あのね、エリカがねぇ、朝ご飯用意していってくれてるよぉ」
異星からの訪問者である彼女たちは、篤志のことを『アッシュ』と呼ぶ。
「飯より先に着替えだ。トランクス一枚じゃ落ち着かん。俺の服、どこにある?」
篤志はアリーセの頭に手を乗せたまま聞き返した。アリーセは小首を傾げる。その頭の上で括った赤毛がぴょこんと揺れて、彼の手をくすぐった。
「ねぇ、サーニャぁ。アッシュの服、どこやったかなぁ?」
「風呂場です。血を洗い落とそうとしていましたが、諦めて、それきりです」
ディスプレイを三台も並べたパソコンデスクの前に座って、なにやら作業をしているらしい銀髪碧眼おかっぱ頭のサーニャ=ストラビニスカヤ伍長が、顔を向けるどころかキーを叩く指の動きを止めることすらせずに答える。
「おぅ、サンキュ」
サーニャに向かって片手を上げると、篤志は風呂場に向かった。風呂場の扉を開けると、血で斑模様になった彼のシャツとジーンズが、水を張った洗面器に浸けられたまま放置されている。そのシャツとジーンズを洗面器から引き上げ、水を絞ってみたが、その程度ではとても着られそうになかった。
「これは、乾かさないとダメだなぁ」
「じゃあ、表に干そぉ。今日もいい天気だから、すぐ乾くよぉ」
後ろからついてきたアリーセがそう言って、彼のシャツとジーンズを洗濯籠に入れると、居間を通って窓のほうへ歩いていく。今度は逆に篤志がついていくと、ベランダに出たアリーセは鼻歌を歌いながら、そのシャツとジーンズを物干し竿に干していた。
「……この血塗れの服を表に干しといたら怪しくないか?」
不安になった篤志が聞いてみるが、アリーセはあっけらかんと言う。
「大丈夫大丈夫ぅ。ここではよくある光景だよぉ」
「……よくあるのかよ……」
いったいどんなアパートだ、と思わず、小声で突っ込んでしまう篤志。それから、頭を切り替える。
「まぁ、いいや。それじゃ、とりあえず服が乾くまで、俺はなにを着てればいいんだ? エリカの服でも入らないぞ」
この小隊の中で最も階級と年齢が上なのは、小隊長であるエリカ=デ・ラ・メア=ブラウスパーダ少尉だったが、篤志と同年代のその彼女は、身長は彼よりやや低い程度なのだが、ほっそりした少女だったので、その服が彼に着られるとは到底思えなかった。
「そーだねぇ。毛布でもかぶってるぅ?」
他に良案はないようだ。ここは、アリーセの提案を採用するしかなさそうだった。寝室に戻り、ベッドから毛布を一枚引っ剥がして、それを身体に巻きつける。キッチンのほうから、アリーセが声を掛けてきた。
「アッシュぅ。朝ご飯、食べるでしょぉ?」
「ああ」
「じゃあ、お味噌汁あっためてあげるぅ」
ダイニングのテーブルの上の、エリカが用意してくれたという朝食を覗き込む。ご飯に味噌汁、卵焼きに焼き鮭に海苔に白菜の漬物という、どこかの鄙びた旅館の朝食のようなメニューだった。これで、納豆があれば完璧だ。
一晩看護してもらった上に、朝食の用意までしてもらって申し訳ないな、と思う。そこで、気付いた。そのエリカの姿が先ほどから見えない。コンロに掛けた鍋から味噌汁をよそっているアリーセに尋ねてみた。
「エリカは?」
「お仕事ぉ」
アリーセが端的に答える。事件が終結したのが夜半過ぎで、その後、夜明けまで彼の看護を続けていたというのに、今日も朝から仕事らしい。頭が下がる。
(冗談でも、『税金泥棒』なんて言って悪かったな。機会があったら、正式に謝罪することにしよう)
そんなことを思いながら、ダイニングのテーブルに着くと、用意してもらった朝食を頂くことにした。
「いただきます」
しかし、何故か困ったことに、箸が上手く持てない。首を捻りながら、左手を使って、右手の箸をいつも使う形に整えてみた。そのまま箸を開こうとすると、右手からポロリと箸が落ちる。『彼女』の右手では、上手く箸が使えなかった。こういうことは頭ではなくて、身体で覚えているものなんだなぁ、と暢気な感想が頭を過ぎる。仕方なく、行儀は悪いが、握り箸で食べることにした。
アリーセは再びソファに戻って、テレビの続きを見ようとしている。篤志はご飯をかき込みながら問い掛けた。
「おまえらは仕事ないのか?」
「あたしとサーニャは待機中ぅ。そこの魔力監視装置が、ぴーぴー鳴ったら出動するのぉ」
テレビを見ながら答えるアリーセ。サーニャは相変わらず、その手を止めようともせず、無言のままだ。篤志は、部屋の隅に置かれた、この古びたアパートの居間には似合わない、SF映画にでも出てきそうな、この星のミニチュアらしき球の立体映像を浮かび上がらせている装置を眺めた。さらに聞いてみる。
「でも、おまえら、先々週まで一度も出動したことなかったんだろ? これから、その魔力監視装置とやらが鳴る可能性あるのか?」
「多分、ないねぇ」
意識を半分テレビに向けながら、アリーセが答えた。篤志は呆れて呟く。
「それ、つまり休みってことじゃねぇかよ……」
それから、ずっとなにやら作業をしている様子のサーニャと、テレビを見ているアリーセを見比べた。
「待機中っても、テレビ見て遊んでないで、なんかやることあるんじゃないのか? サーニャは、さっきからなにか作業中みたいじゃないか」
「えぇー? サーニャも遊んでるんだよぉ? 見てぇ?」
アリーセの言葉に、茶碗と箸を置いて立ち上がるとパソコンデスクに歩み寄り、サーニャの後ろから三台のディスプレイを覗き込んでみる。いくつも開かれているウインドウに表示されているのは、この国一番の巨大掲示板や百四十文字で呟くSNS等だった。
「……あぁ、ホントだ」
(異星人の魔法使いだけどなにか質問ある?とか、スレ立てしてるんだろうか……)
この無口無表情少女に対する認識を改めねばならない。篤志は軽く息を吐くと、食事の続きをしにダイニングへと戻る。
食事が終わった後は、アリーセと並んでソファに座り、ぼんやりアニメを眺めていた。立て続けにアニメばかり放映しているところからすると、どうやらCSのアニメ専門チャンネルらしい。アリーセは特に好き嫌いがないようで、アニメならなんでも見るようだ。正午頃に、三人で朝食の残り物を中心とした昼食を食べた。食べ終わると、アリーセとサーニャが手分けをして洗い物をし、米を研いで炊飯器にセットする。どうやら、夕食の準備らしい。昼を回って暫くした頃に干していた服が乾いたので、それを着込んだ。シャツもジーンズもボロボロだったが、毛布に包まっているよりはマシだろう。その後に、テレビ台の中から古いゲーム機を発見したので、三人で古いゲームを遊ぶことにした。迷路の中で爆弾を置いて他のプレイヤーを吹っ飛ばすやつだ。たまにエリカとも三人で遊ぶことがあると言っていたが、一番下手なのはエリカらしかった。追い込まれると頭に血が上るせいかもしれない。そんな風にして、日が暮れるまでを過ごす。
――今は、一人ではないのが、とてもありがたかった。
日が暮れて暫くすると、エリカが帰ってくる。
「ただいま帰りました」
「あ、お帰りぃ、エリカぁ」
「お帰りなさい」
「おぅ、お帰り」
エリカの帰宅の挨拶に、三者三様の返事をした。エリカは手製らしいエコバッグをキッチンのテーブルに置いて、笑顔になる。
「あぁ、アッシュ、まだいらして下さったんですね。よかったです。お夕飯、ご一緒に如何ですか?」
「……ああ。ご馳走になろうかな」
好意に甘えることにした。エリカは笑顔のまま頷くと、いそいそとエプロンを着け、長い金髪をポニーテールにまとめて、食事の用意を始める。
「今日はお客様がいるとお話ししたら、お惣菜の残りをたくさん頂いてしまって」
そう言いながら、大皿に鳥の唐揚げやコロッケ、メンチカツ、白身魚のフライやフライドポテトなどを並べていった。
きっと、商店街の人気者なのだろう。外国から親元を離れて来たらしい少女が二年も自炊生活をしているとなれば、商店街の店主たちも彼女に甘くなろうというものだ。
「わぁー、今日は豪華だねぇ」
皿を覗き込んだアリーセが無邪気に喜ぶ。サーニャも無表情ながら喜んでいるようだ。暫しの後、電子レンジで温めた惣菜の大皿を中心に、大きなボウルに盛り付けられたサラダや、各人のご飯と味噌汁等が居間のテーブルに並ぶ。そうして、四人でテーブルを囲んで食事を始めた。
(そういや、昨夜もこうして四人で夕飯を食ったな)
この駐留基地に連行されてきた彼が、事件の事情説明の前に食事を要求して、四人で夕食を食べたのだ。犯罪者扱いと紙一重だったそのときとは、今は彼の立場はまるで変わっていた。そう思うと、なにか不思議な感じがする。食事は終始和やかに進み、会話が途切れることはなかったが、唯一、昨晩の事件については話題に上ることはなかった。
食事が終わり、緑茶を啜って、一通りのんびりしたところで篤志は立ち上がる。この雰囲気は居心地がよかったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
「さて、それじゃ、そろそろ帰るかな」
「そうですか? なんのお構いも出来ませんで」
と、エリカが正座したままで頭を下げた。彼女が顔を起こすのを待ってから、その金色の眼を見て篤志は切り出す。
「それで、一つ頼みがあるんだが」
「なんでしょう?」
「飛行魔法で家の近くまで運んでくれないか? この格好で電車に乗るのは、さすがに目立ち過ぎる」
そう言って、彼は自分の服を示した。シャツの右袖が肩から食い千切られたようになくなっているし、シャツもジーンズもボロボロな上、血で斑模様になっている。あまりにもパンク過ぎるファッションだった。
エリカは細い顎に人差し指を当てて、少しの時間思案する様子を見せたが、結局は頷いてくれる。
「そうですね……。この星の住人に対して魔法の存在を秘匿する任務を持つ辺境警備隊としては、あまり褒められた行為ではないですが、よろしいでしょう。お送りします」
「済まない。世話を掛ける」
篤志はエリカに頭を下げた。エリカが微笑んで手を振る。
「いいえ。貴方は、私たちの命の恩人ですもの。このくらい、たいしたことではありません。お気になさらず」
彼女はそう言ってくれるが、そもそも、篤志が彼女たちを事件に巻き込まなければ、その命の危機もなかったのだから、なんだかマッチポンプのようで申し訳ない。彼はもう一度、頭を下げる。
それから、皆でベランダで靴を履き、エリカたち三人が彼を抱えるようにして飛び立った。空を行くのでは、地上を行くのとは勝手が違う。しかも、今は夜で辺りは暗く、頼れるのは月明かりと眼下の街灯りだけだ。空中から見下ろしてみたが、やはり道がよくわからない。彼女たちの駐留基地はわりと海に近いようだったので、都市部の上空を飛んでいくよりはいいだろうと思い、海岸沿いを進んでくれるように頼んだ。そうして、いったん家の近所を流れている川の河口を目指してもらうことにする。そこには、この国でも最大級の遊園地があるので、目印としては申し分ない。不夜城の如くライトアップされたその遊園地を右手に見ながら、今度はその川沿いに遡ってもらった。暫く飛んで行くと、やがて馴染み深い川原が見えてくる。先週の間、毎夜、『彼女』と魔法の訓練を繰り返した川原だ。
「ここでいい。下ろしてくれ」
彼の言葉で三人が降下を始める。川原に着地すると、エリカが黄金色の髪を揺らして小首を傾げつつ言った。
「こんなところでよろしいのですか? お宅までお送りしますよ?」
「いや、もうここからなら、すぐだから」
「そうですか」
首を振る篤志に頷いて、エリカは再び頭を下げる。
「それでは、ここで失礼致します」
とんっと地面を蹴って浮き上がった。篤志が声を掛ける。
「送ってくれてありがとうな。助かった」
「どういたしまして」
とエリカが微笑んだ。アリーセとサーニャも彼女に倣って、ふわりと浮き上がる。
「じゃーねぇ、アッシュぅ。またねぇ」
「……あぁ、またな」
篤志は、アリーセの別れの挨拶に言葉を返した。彼女たちが、元来たほうへと進路を取る。そのまま、篤志は三人の姿が夜空の向こうに消えていくまで眺めていた。
――『また』はないだろう。もう、異星人とも魔法とも縁が切れた。彼女たちとは、これでお別れだ。
それから、彼は一人で、いつも魔法訓練の後に『彼女』と寄っていたコンビニの前を通り過ぎ、自宅アパートへと帰り着いた。四階建てアパートの三階一番奥の部屋のドアの鍵を開け、靴を脱いで室内に入ると、照明を点けて、とりあえず、ボロボロで血塗れの服を脱ぐ。最初はそれを洗濯機に入れようかとも考えたが、改めて服の惨状を確認すると、結局、溜め息を吐いて、ゴミ袋に突っ込んだ。それから、手と顔を洗おうと、脱衣所兼洗面所に入る。すると、その床には、出掛ける直前まで『彼女』が着ていた、彼のシャツとジーンズが脱ぎ捨てられたままになっていた。
(まったく、あいつは……)
苦笑して、それらを拾い上げる。本当に、片付けの出来ない『彼女』らしかった。そう思った瞬間、不意に涙が零れそうになる。それを堪えるかのように、そのシャツとジーンズを胸に抱き締めてうずくまった。勿論、もう温もりなどはどこにも残っていない。暫くそうしているうちに、ようやく涙の発作が治まった。抱き締めていたシャツとジーンズを身体から離す。少しの間、それを見つめて思いを巡らせていたが、意を決して洗濯機の中に入れた。未練を振り切るように、冷たい水で顔を洗う。
部屋に戻って、クローゼットを開けると、結局、買ったその日一度だけしか袖を通さなかった、彼の買ってやった『彼女』の外出着をハンガーから抜き取り、丁寧に畳むと、『彼女』の替えの下着類と一緒に袋に入れて、クローゼットの奥深くに仕舞い直した。部屋を見回す。もう片付けなければならないものはないようだった。そもそも、『彼女』は身一つでここにやってきたのだ。片付けなければならないほど、荷物が残されているはずもなかった。
篤志は照明を消して、『彼女』の残り香が染み付いたベッドに潜り込む。そうして、右腕を抱きかかえるように丸くなって、眠りに付くまでの間、少し泣いた。